てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

多面体イサム・ノグチ(6)

2006年10月10日 | 美術随想
 展覧会は、「太陽」と名づけられた章で閉じられていて、大阪の国立国際美術館に所蔵されている『黒い太陽』もそこにあった。これはぼくが最も見慣れたノグチ作品である。以前は吹田の万博記念公園にあったこの美術館のロビーに、他の彫刻たちに混じっていとも無造作にそれは置かれていたが、美術館が中之島に移転してからはついぞ見かける機会がなく、久しぶりに再会できたことをぼくは喜んだ。

 イサム・ノグチの年譜をひもといてみると、必ずといっていいほど『黒い太陽』について言及されているのに気づく。それはおそらくアメリカのシアトルにある巨大な野外彫刻のほうであって、こちらはそのミニチュア版とでもいうべきものだが、いずれにしてもこの作品の制作はノグチにとって重要な転機をもたらすことになったらしい。香川生まれの石工、和泉正敏との出会いがそれである。

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 再三ふれてきたドウス昌代氏の本の中に ― 残念ながらまだ熟読できていないのだが ― 次のようなくだりがある。

 《イサムは、西海岸のシアトル市美術館から同美術館正面にかざる作品を依頼されたとき、東海岸のイエール大学の庭に置いた白大理石の「白い太陽」と対になる円環を、黒い石でつくりたいと思った。イサムはその【黒い太陽】の石膏雛型を、直径八十センチもの大きさにつくると、香川県建築課の山本忠司宛に送った。一九六七(昭和四二)年七月、石工としての和泉の技術を見定めてから、さらに一年が過ぎたころのことだ。》(ドウス昌代『イサム・ノグチ 宿命の越境者』講談社文庫)

 山本忠司というのは、ノグチに和泉正敏を引き合わせた人物である。さてここからはぼくの想像だが、山本宛に送られた直径八十センチの石膏雛型をもとにして、当時まだ29歳だった和泉が彫り上げたのが、まさに今回の展覧会に出品されていた『黒い太陽』ではないかと思うのだ。実際、図録によるとこの作品の幅は80cmと書かれていて、ぼくの仮説を裏付けてくれるのである。ノグチがこの作品の雛型を香川県庁に送ったのは、作品の制作に関して香川県が全面的なバックアップを約束していたからだ。そして香川県下にあまたいる石工の中から特に選ばれたひとりが、ほかでもない和泉正敏だったのである。

 以来、和泉はノグチが没するまでの20年余りにわたって、よきパートナーとしてともに仕事をすることになった。石屋の家系に生まれ、石について早くから習熟していた和泉は、いわば“石の水先案内人”となってノグチを導き、緻密な職人の腕をもってノグチの要求にこたえたのである。和泉の存在なしには、ノグチ晩年の石の彫刻の数々は生まれなかったにちがいない。ノグチの没後、『モエレ沼公園』にある石組みのピラミッドを手がけたのも和泉であった。ほかにも和泉の手で完成されたノグチの遺作は数多い。

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 さてあらためて『黒い太陽』と向き合ってみると、その奇想天外な表現に驚かされる。題名のとおりこの彫刻は黒い石で作られているのだが、太陽は大きな穴ぼことしてあらわされ、そのまわりをコロナ状のものが取り巻き、あたかも皆既日食を髣髴とさせる姿をしているのだ。

 皆既日食を実際に体験したことはまだないが、それは文字どおり黒い太陽があらわれる瞬間である。月が太陽を隠し、昼のさなかに夜が出現する。黒々とした月のシルエットの周りに、太陽の熱流が輝きながらうずまくのが見えるのである。言い換えれば皆既日食という現象は、激しく爆発する太陽のきらめきと、それを抑圧しようとする闇の力とがぶつかり合う、緊張感みなぎる瞬間なのだ。

 この彫刻にも、やはりそれがある。丸い空隙の中からまさしく太陽のようなエネルギーがあふれ出し、宇宙へと拡散していこうとするありさまが、まるで急速に冷やし固められたようにして、冷たい漆黒の石で造形されているのだ。表面は滑らかに研磨されているが、その形態は波打ち、うねり、ほとんど生きて動いているようですらある。イサム・ノグチと和泉正敏の共同作業は、見事に“形なきもの”を彫刻に仕上げた。しかも、硬い花崗岩で。

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 会場の最後に置かれていたのは、赤と黒の花崗岩を交互に継ぎ合わせて円形を作った『真夜中の太陽』であった。この作品の制作年は1989年となっているが、ノグチはその前年にすでに世を去っている。つまりこれも、ノグチ亡きあとに和泉によって完成されたものであろう。しかし『黒い太陽』とは打って変わって、こちらは静かな円である。激情が遠く過ぎ去り、無限の静寂が訪れたかのようだ。それは心なしか、ノグチの死と重なり合って見えてしまう。どことなく“無”という言葉を連想させるものすらある。

 しかし、さまざまな境界線の上で長年にわたって戦いつづけたイサム・ノグチの終着点は“無”などではなかったはずだ。赤い石と黒い石が互いに組み合わさって完全な円をなす姿は、ほかならぬ平和のモデルであり、調和の象徴であったのではなかろうか。

 父の国と母の国とが戦争をしたということ、母の国が父の国に原爆を落としたということ、そのための慰霊碑さえも拒絶されたということ・・・。これらの厳然たる事実を自分に納得させるには、ノグチはすべてを ― 何ひとつ分け隔てることなく、あらゆるすべてのものを ― 包み込んでやることが必要だった。人の背丈より大きな丸い円は、すべての人を視覚的に包み込んでしまうのである。

 そして広さ189ヘクタールにも及ぶという『モエレ沼公園』は、そこに足を踏み入れる人の存在そのものを、圧倒的な存在感で包んでしまうはずだ。そしてすべての人は童心にかえり、空や大地と、そして水や空気と、無心になってたわむれる。これこそ、イサム・ノグチがはるかに夢見た理想郷であり、彼が生涯をかけて見つけ出した答えであったのかもしれない。


DATA:
 「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」
 2006年7月8日~9月18日
 滋賀県立近代美術館

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