てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

多面体イサム・ノグチ(5)

2006年10月03日 | 美術随想
 毎年8月6日になると、広島の平和記念公園では大勢の人々が「原爆死没者慰霊碑」に花を手向け、平和の鐘とともに祈りを捧げる。屋根の形をしたこの慰霊碑は、原爆資料館などとともに、昨年世を去った丹下健三という建築家の設計になるものである。その慰霊碑は本来、イサム・ノグチが設計するはずだったという事実は、本にも書かれているし、このところテレビでもたびたび取り上げられているので、比較的知られていることかもしれない。しかしいずれにせよ、それは実現することなく、書かれざる歴史の1ページとなった。

 ノグチの案が不採用になった理由は、デザインそのものにあったわけではなく、ひとえに彼が日米の混血であるというそのことだった。つまり原爆を落とした当事者であるアメリカ人の血が混じった人間が、原爆のための慰霊碑を作るのはまかりならん、ということだ。このときノグチは40代の終わりにさしかかっていて、すでに国際的な名声を獲得していたけれども、幼いころから幾度も経験してきたふたつの国のあいだのせめぎ合いに、またしても直面することとなったのである。

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 思えばノグチにとっての芸術とは、その肉体的なせめぎ合いから生まれ、そこに何らかの調和の姿を与えようと模索したあげくに作り出された、苦悩の結晶体ともいうべきものであったかもしれない。彼は自身の作品の中に、日本でもなくアメリカでもなく、あるいはそのどちらでもあるというような、普遍的なものを求めていたのである。

 当然の結果として、彼は具象を捨てて抽象へと向かわざるを得なかった。客観的に識別できる具体的な造形は、日本的なものであるか、はたまた西洋的なものであるか、いずれかに分類されずにはいないからだ。例えばアメリカ人の肖像彫刻を作るとき、そこにはアメリカ的なものこそが表現されるべきであって、日本的な要素は厳密に排除されねばならないのである。ノグチはそれを望まなかったろう。

 こう考えてくると、『夢窓国師のおしえ』といった明らかに日本文化を想起させる作品を、純粋な抽象と呼ぶことはためらわれるような気もしてくる。それはいわば“石庭を写実的に描写した具象彫刻”のようにも見えるからだ。だがこのような一種の意味の取り違えは、ノグチが生きた時代よりますます国際的になったといわれる現代の社会でも、しばしば繰り返されているように思われる。海外からの使節団に日本の伝統芸能を見せて歓待したりするのは、そのあらわれではないかとぼくは思っているのである。それはいわば文化の表層であって、それ以上の深みに達しているとは必ずしもいい得ないからだ。

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 ノグチによる原爆慰霊碑は、日の目を見ることはなかったものの ― ノグチには構想のみで実現しなかった作品が他にもたくさんあり、これはそのひとつにすぎないのだが ― その5分の1の模型が美術館のエントランスに置かれていた。玄武岩で作られた重厚なアーチ型の物体が、黒光りしながら地面にもぐりこむようにも、また地面の中から次第に身をもたげるようにも見える。いずれにせよ、それは日本的な造形ではなく、西洋的な造形でもなく、そのどちらでもあるような、高度に抽象化された姿をしているのにぼくは驚かされた。

 一方で、現在の広島平和記念公園に実在している丹下健三設計の慰霊碑は、「家形埴輪」に似ているなどといわれ、丹下自身も埴輪に原型を求めたというようなことをいっている。そうだとするならば、丹下のデザインはやはり日本的なものに依拠しているといわざるを得ない。埴輪は日本に固有の造形にほかならないからだ。慰霊碑として、と同時に死者に安らぎの場をもたらすための屋根として ― その屋根の下には原爆死没者の名簿が納められている ― 日本人の心象にストレートにうったえる埴輪の意匠は、この場にまことにふさわしいものだといっていいだろう。

 だが、ノグチが慰霊碑に表現しようとしたのは、屋根あるいは家としての機能ではない。アーチ型の足が地中深く突き抜け、巨大な2本の柱となり、それに挟まれるようにして祈りの空間が地下に出現するという、壮大な構想をノグチはいだいたのだった。まだ読みかけのドウス昌代氏の評伝には、この地下室は「亡き人にとって代わる未生(みしょう)の子孫たちが生まれる子宮」を暗示する場だと書かれている。

 確かに、生まれる前の人間たちは男でも女でもないし、日本人でも西洋人でもない。たとえそうであっても、それらの社会的な区別をわれわれが宿命的に担わされるのは、この世に生を受けたあとのことだ。そしてノグチこそは、いわば日米に引き裂かれながら生まれてきた当人なのであって、彼が最も満たされていた場所は、生まれる以前の母の子宮の中であったかもしれないのである。

 ノグチは日米の混血であるからこそ ― 言い換えれば加害者と被害者の双方の血を受け継いでいるからこそ ― その隔たりを乗り越えた慰霊碑を創造しようとしたように思われてならない。真の平和を実現するためには、それは必ず乗り越えなければならない壁なのである。ノグチはある程度それに成功したように思う。ただ、日本がそれを受け入れなかっただけである。

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