てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

てつりう“光源学”(2)

2006年10月17日 | 美術随想
 部屋をすっかり暗くしてから寝るのと、明かりに照らされたままで寝るのとでは、人間の精神状態は変わってくるのだろうか。鶏に卵をたくさん産ませるために、人工照明で昼を長くしているという話を聞いたことがあるが、人間にとっても何らかの影響はあるような気がする。まぶたを通して常に薄明かりが見えていては、真の深い眠りには行き着けないのではあるまいか。意識のどこかが常に覚醒しているという状態は、人の体や精神に少なからぬ異変をもたらすにちがいない。

 しかし好むと好まざるとにかかわらず、現代のわれわれを取り巻く社会では確実に昼が長くなり、暗闇が姿を消しつつある。ぼくが福井から関西に引っ越してきたのは今から16年前のことになるが、そのときにいちばん驚かされたのは、あまりにも夜が明るく、星がまったくといっていいほど見えないということであった。しかし今では福井にもコンビニエンスストアなどが増え、街のネオンも明るくなったことだろう。少年時代のぼくを狂喜させた満天の星空が、今でも見られるかどうかはわからない。

 ぼく自身も、暗闇のない世界というものにすっかり慣れてしまっているのだろう。考えてみれば、薄明とか黄昏といった昼と夜のあわいの時間帯を意識するということすら、いつの間にかなくなってしまった。光が移ろうにつれて少しずつ姿を変える、地上のありとあらゆるものの姿・・・。よくよく眺めてみれば、それは一枚のすぐれた絵画のように、限りないニュアンスの変化を秘めているのだろうけれど。

   *

 そんなことを考えているさなか、たまたまNHKの「美の壺」という番組を見た。ぼくはこの手のテレビ番組が好きで、できれば欠かさず見たいと思っているが、忙しくてなかなかそうもいかない。この番組もこれまで数回見たにすぎないのだが、たまたまサブタイトルが「和の明かり」となっているのをテレビ欄で知って、ぜひとも見てみたくなったのである。番組の中でイサム・ノグチの「あかり」が紹介されるにちがいない、という確信のようなものがぼくにはあった。

 その予想は的中したが、ほかにもいろいろ興味深い内容を含んだ番組だった。さまざまな工夫が凝らされた行灯や提灯が紹介されているのを見て、以前神戸で「江戸の誘惑」と題された肉筆浮世絵の展覧会に出かけたときのことを思い出した。北斎が提灯のために描いた絵が、提灯のかたちに復元されているのをそこで観たのだった。本当のことをいえば、実際にその提灯に火を入れたところが観たいものだと、誰もが思ったことだろう。しかし万一、北斎の絵が燃えてしまっては一大事である。ぼくは、見慣れない提灯の明かりの揺らぎを想像するしかなかった。

   *

 「美の壺」では、心斎橋そごう百貨店の様子も紹介されていた。昨年の秋に鳴り物入りでオープンしてから、ぼくは長いこと足を踏み入れたことがなかったが、今年の夏に初めて訪れてみると、案に反して非常に静かで ― その日は客足が少なかったせいもあるかもしれないが ― ミナミらしからぬ落ち着いたたたずまいをみせてくれた。

 店内に滝が流れ落ちているのにも驚いたが、特に気になったのは、天井や壁に取り付けられた巨大な和紙の造形だった。和紙の中には照明が仕込まれていて、ほのかだが、か細くはない、いわば悠然たる明かりを周囲に投げかけていたのである。このオブジェが、作者である堀木エリ子のインタビューとともに、番組の中で紹介されていたのだった。

 実をいうと、堀木の作品を見るのも、そして彼女自身がテレビで話すのを見るのも初めてではない。京都に細見美術館という小さな美術館があって、吹き抜けになった地階の一隅にカフェ・レストランがあるのだが、そこの天井からぶら下がっている和紙のタペストリーが以前から気になっていた。満月のような、あるいは日輪のような円と、半分近く欠けた月のかたちとが組み合わされ、空気の揺らめきをうけてかすかに動いたりする。店の外側から見ると、縦に細長いガラス戸越しに、まるで掛軸に描かれた月のように見えるのである。

   *

 あるとき、なにげなくテレビをつけると、和紙デザイナーだという女性が出ていた。そのときはあまり興味がわかず、番組を最後まで見なかったので詳しいことは忘れてしまったが、彼女は一見するとキャリアウーマン風で、名前を堀木なんとかという、そこのところまで覚えていた。それからしばらくして、まるで啓示のように、細見美術館の和紙の造形と、その和紙デザイナーとが頭の中で結びついたのである。急いで調べてみると、案の定それは堀木の『日天月天』という作品だということがわかったのだった。

 心斎橋そごうの和紙の照明を見たときも、彼女の作品にちがいないとあたりをつけていた。ぼくの予想は、どうやらまたまた的中したらしい。さらに調べてみると、京都や大阪のあちこちに彼女のプロデュースした作品があるようだ(彼女は「株式会社 堀木エリ子&アソシエイツ」の社長でもある)。ギラギラした都会のネオンサインの狭間に、堀木の手がけた柔和な明かりが増えていくことは、ちょっとした楽しみである。

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てつりう“光源学”(1)

2006年10月15日 | 美術随想
 このところ仕事が忙しくなり、帰宅が深夜に及ぶ日々がつづいた。展覧会の予定をたっぷり詰め込んでおいた三連休も、終わってみれば丸一日休みがとれたのは日曜日だけであった。しかしその僅かな空き時間を縫うようにして、ぼくはやはり美術館に駆けつけずにはいられなかった。美術と向き合う時間をもつことで、仕事に流されがちな日頃の生活にブレーキをかけ、自己を確かめることができるとぼくは考えているからである。オーバーなことをいうと思われるかもしれないが、ぼくは単に“美術が好き”というだけの理由で展覧会にかよっているわけではないのだ。

 人間には“立ち止まって考える”ことがいかに重要か、ぼくは疑ってみたこともない。立ち止まることによって、人間は自分が今いる場所を正確に知ることができ、同時に自分を取り巻く他者の存在や、世間との距離感がはっきりと見えてくるのである。ぼくが美術にのめりこんだのは、それが“立ち止まって考える”のに絶好の素材であったからにほかならない。展覧会に出かけることは、そしてそこに並べられたひとつひとつの作品を観てまわることは、考えるきっかけをぼくに与えてくれる貴重な体験なのである。

 このつたない美術随想録も、考えに考えたあげく ― あるいは考えることと並行しながら ― 書いている。したがって、書き上げるまでにある程度の時間がかかることはやむを得ない。なかには、展覧会を観てから何か月も経ってようやく完成するものもある。ブログという媒体の特色ともいえる“速報性”からは、ぼくは大きく遅れをとってしまった。しかしこれでいいと思う。まず展覧会の第一印象からはじまって、さまざまな資料や文献などを読んで思考の外堀を埋め、徐々にぼくなりの核心に到達するために、それは必要な時間だからである。

   *

 先ごろまでイサム・ノグチに関する記事を書いていたのだが、それはイサム・ノグチについて考える日々でもあった。しかし仕事が多忙になるにつれて ― それが肉体労働ではなく、多少頭を使わなければならない仕事だけになおさら ― 考えることが困難になってくる。だからといって、いったん書きかけたものをそのまま放置しておくと、ふたたび外堀に水がたまってきてしまい、これまで考えてきたことごとが無残に溶け出してしまわないともかぎらない。ぼくは困り果てた。

 たとえ不充分なものであっても、少しずつでも書き継ぐべきなのかもしれない。しかしブログというものが人の目にふれるものである以上、おざなりなことは書くべきでないという妙なこだわりも、ぼくには確かにあったのだ。あるときなど、次のようなことが頭をよぎったりした。ブログはあくまで下書きの場ということにして、推敲して手を入れたものを発表するホームページを別に開設すればいいと・・・。あたかも新聞や雑誌に連載した小説を、加筆訂正して単行本化するような具合に、である。

 しかしどちらもウェブ上に公開されるものである以上、発表の場を二重にすることに意味があるとも思えない。結局、ぼくは毎晩帰宅したあと、ひとまず何をさしおいてもパソコンに向かってみることにした。余った時間のすべてを、随想の執筆に費やそうと試みた。しかし悲しいかな、日中は仕事に容赦なく追いまくられ、ぼくは心身ともに疲弊しきっていたのである。ふと気がつくと、部屋の電気を煌々とつけたまま、パソコンもつけっぱなしのまま、すでに夜が明けようとしていることがよくあった。ぼくは布団も敷かずにごろんと横になり、いつの間にか眠り込んでいたのだ。

 気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝
 これじゃ身体(からだ)に いいわきゃないよ


 生まれるずっと前に流行った歌の一節が、何となく口をついて出たりした。ぼくが“立ち止まって考える”生活から、かなり遠くに来てしまっていることは明らかだった。

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多面体イサム・ノグチ(6)

2006年10月10日 | 美術随想
 展覧会は、「太陽」と名づけられた章で閉じられていて、大阪の国立国際美術館に所蔵されている『黒い太陽』もそこにあった。これはぼくが最も見慣れたノグチ作品である。以前は吹田の万博記念公園にあったこの美術館のロビーに、他の彫刻たちに混じっていとも無造作にそれは置かれていたが、美術館が中之島に移転してからはついぞ見かける機会がなく、久しぶりに再会できたことをぼくは喜んだ。

 イサム・ノグチの年譜をひもといてみると、必ずといっていいほど『黒い太陽』について言及されているのに気づく。それはおそらくアメリカのシアトルにある巨大な野外彫刻のほうであって、こちらはそのミニチュア版とでもいうべきものだが、いずれにしてもこの作品の制作はノグチにとって重要な転機をもたらすことになったらしい。香川生まれの石工、和泉正敏との出会いがそれである。

   *

 再三ふれてきたドウス昌代氏の本の中に ― 残念ながらまだ熟読できていないのだが ― 次のようなくだりがある。

 《イサムは、西海岸のシアトル市美術館から同美術館正面にかざる作品を依頼されたとき、東海岸のイエール大学の庭に置いた白大理石の「白い太陽」と対になる円環を、黒い石でつくりたいと思った。イサムはその【黒い太陽】の石膏雛型を、直径八十センチもの大きさにつくると、香川県建築課の山本忠司宛に送った。一九六七(昭和四二)年七月、石工としての和泉の技術を見定めてから、さらに一年が過ぎたころのことだ。》(ドウス昌代『イサム・ノグチ 宿命の越境者』講談社文庫)

 山本忠司というのは、ノグチに和泉正敏を引き合わせた人物である。さてここからはぼくの想像だが、山本宛に送られた直径八十センチの石膏雛型をもとにして、当時まだ29歳だった和泉が彫り上げたのが、まさに今回の展覧会に出品されていた『黒い太陽』ではないかと思うのだ。実際、図録によるとこの作品の幅は80cmと書かれていて、ぼくの仮説を裏付けてくれるのである。ノグチがこの作品の雛型を香川県庁に送ったのは、作品の制作に関して香川県が全面的なバックアップを約束していたからだ。そして香川県下にあまたいる石工の中から特に選ばれたひとりが、ほかでもない和泉正敏だったのである。

 以来、和泉はノグチが没するまでの20年余りにわたって、よきパートナーとしてともに仕事をすることになった。石屋の家系に生まれ、石について早くから習熟していた和泉は、いわば“石の水先案内人”となってノグチを導き、緻密な職人の腕をもってノグチの要求にこたえたのである。和泉の存在なしには、ノグチ晩年の石の彫刻の数々は生まれなかったにちがいない。ノグチの没後、『モエレ沼公園』にある石組みのピラミッドを手がけたのも和泉であった。ほかにも和泉の手で完成されたノグチの遺作は数多い。

   *

 さてあらためて『黒い太陽』と向き合ってみると、その奇想天外な表現に驚かされる。題名のとおりこの彫刻は黒い石で作られているのだが、太陽は大きな穴ぼことしてあらわされ、そのまわりをコロナ状のものが取り巻き、あたかも皆既日食を髣髴とさせる姿をしているのだ。

 皆既日食を実際に体験したことはまだないが、それは文字どおり黒い太陽があらわれる瞬間である。月が太陽を隠し、昼のさなかに夜が出現する。黒々とした月のシルエットの周りに、太陽の熱流が輝きながらうずまくのが見えるのである。言い換えれば皆既日食という現象は、激しく爆発する太陽のきらめきと、それを抑圧しようとする闇の力とがぶつかり合う、緊張感みなぎる瞬間なのだ。

 この彫刻にも、やはりそれがある。丸い空隙の中からまさしく太陽のようなエネルギーがあふれ出し、宇宙へと拡散していこうとするありさまが、まるで急速に冷やし固められたようにして、冷たい漆黒の石で造形されているのだ。表面は滑らかに研磨されているが、その形態は波打ち、うねり、ほとんど生きて動いているようですらある。イサム・ノグチと和泉正敏の共同作業は、見事に“形なきもの”を彫刻に仕上げた。しかも、硬い花崗岩で。

   *

 会場の最後に置かれていたのは、赤と黒の花崗岩を交互に継ぎ合わせて円形を作った『真夜中の太陽』であった。この作品の制作年は1989年となっているが、ノグチはその前年にすでに世を去っている。つまりこれも、ノグチ亡きあとに和泉によって完成されたものであろう。しかし『黒い太陽』とは打って変わって、こちらは静かな円である。激情が遠く過ぎ去り、無限の静寂が訪れたかのようだ。それは心なしか、ノグチの死と重なり合って見えてしまう。どことなく“無”という言葉を連想させるものすらある。

 しかし、さまざまな境界線の上で長年にわたって戦いつづけたイサム・ノグチの終着点は“無”などではなかったはずだ。赤い石と黒い石が互いに組み合わさって完全な円をなす姿は、ほかならぬ平和のモデルであり、調和の象徴であったのではなかろうか。

 父の国と母の国とが戦争をしたということ、母の国が父の国に原爆を落としたということ、そのための慰霊碑さえも拒絶されたということ・・・。これらの厳然たる事実を自分に納得させるには、ノグチはすべてを ― 何ひとつ分け隔てることなく、あらゆるすべてのものを ― 包み込んでやることが必要だった。人の背丈より大きな丸い円は、すべての人を視覚的に包み込んでしまうのである。

 そして広さ189ヘクタールにも及ぶという『モエレ沼公園』は、そこに足を踏み入れる人の存在そのものを、圧倒的な存在感で包んでしまうはずだ。そしてすべての人は童心にかえり、空や大地と、そして水や空気と、無心になってたわむれる。これこそ、イサム・ノグチがはるかに夢見た理想郷であり、彼が生涯をかけて見つけ出した答えであったのかもしれない。


DATA:
 「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」
 2006年7月8日~9月18日
 滋賀県立近代美術館

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多面体イサム・ノグチ(5)

2006年10月03日 | 美術随想
 毎年8月6日になると、広島の平和記念公園では大勢の人々が「原爆死没者慰霊碑」に花を手向け、平和の鐘とともに祈りを捧げる。屋根の形をしたこの慰霊碑は、原爆資料館などとともに、昨年世を去った丹下健三という建築家の設計になるものである。その慰霊碑は本来、イサム・ノグチが設計するはずだったという事実は、本にも書かれているし、このところテレビでもたびたび取り上げられているので、比較的知られていることかもしれない。しかしいずれにせよ、それは実現することなく、書かれざる歴史の1ページとなった。

 ノグチの案が不採用になった理由は、デザインそのものにあったわけではなく、ひとえに彼が日米の混血であるというそのことだった。つまり原爆を落とした当事者であるアメリカ人の血が混じった人間が、原爆のための慰霊碑を作るのはまかりならん、ということだ。このときノグチは40代の終わりにさしかかっていて、すでに国際的な名声を獲得していたけれども、幼いころから幾度も経験してきたふたつの国のあいだのせめぎ合いに、またしても直面することとなったのである。

   *

 思えばノグチにとっての芸術とは、その肉体的なせめぎ合いから生まれ、そこに何らかの調和の姿を与えようと模索したあげくに作り出された、苦悩の結晶体ともいうべきものであったかもしれない。彼は自身の作品の中に、日本でもなくアメリカでもなく、あるいはそのどちらでもあるというような、普遍的なものを求めていたのである。

 当然の結果として、彼は具象を捨てて抽象へと向かわざるを得なかった。客観的に識別できる具体的な造形は、日本的なものであるか、はたまた西洋的なものであるか、いずれかに分類されずにはいないからだ。例えばアメリカ人の肖像彫刻を作るとき、そこにはアメリカ的なものこそが表現されるべきであって、日本的な要素は厳密に排除されねばならないのである。ノグチはそれを望まなかったろう。

 こう考えてくると、『夢窓国師のおしえ』といった明らかに日本文化を想起させる作品を、純粋な抽象と呼ぶことはためらわれるような気もしてくる。それはいわば“石庭を写実的に描写した具象彫刻”のようにも見えるからだ。だがこのような一種の意味の取り違えは、ノグチが生きた時代よりますます国際的になったといわれる現代の社会でも、しばしば繰り返されているように思われる。海外からの使節団に日本の伝統芸能を見せて歓待したりするのは、そのあらわれではないかとぼくは思っているのである。それはいわば文化の表層であって、それ以上の深みに達しているとは必ずしもいい得ないからだ。

   *

 ノグチによる原爆慰霊碑は、日の目を見ることはなかったものの ― ノグチには構想のみで実現しなかった作品が他にもたくさんあり、これはそのひとつにすぎないのだが ― その5分の1の模型が美術館のエントランスに置かれていた。玄武岩で作られた重厚なアーチ型の物体が、黒光りしながら地面にもぐりこむようにも、また地面の中から次第に身をもたげるようにも見える。いずれにせよ、それは日本的な造形ではなく、西洋的な造形でもなく、そのどちらでもあるような、高度に抽象化された姿をしているのにぼくは驚かされた。

 一方で、現在の広島平和記念公園に実在している丹下健三設計の慰霊碑は、「家形埴輪」に似ているなどといわれ、丹下自身も埴輪に原型を求めたというようなことをいっている。そうだとするならば、丹下のデザインはやはり日本的なものに依拠しているといわざるを得ない。埴輪は日本に固有の造形にほかならないからだ。慰霊碑として、と同時に死者に安らぎの場をもたらすための屋根として ― その屋根の下には原爆死没者の名簿が納められている ― 日本人の心象にストレートにうったえる埴輪の意匠は、この場にまことにふさわしいものだといっていいだろう。

 だが、ノグチが慰霊碑に表現しようとしたのは、屋根あるいは家としての機能ではない。アーチ型の足が地中深く突き抜け、巨大な2本の柱となり、それに挟まれるようにして祈りの空間が地下に出現するという、壮大な構想をノグチはいだいたのだった。まだ読みかけのドウス昌代氏の評伝には、この地下室は「亡き人にとって代わる未生(みしょう)の子孫たちが生まれる子宮」を暗示する場だと書かれている。

 確かに、生まれる前の人間たちは男でも女でもないし、日本人でも西洋人でもない。たとえそうであっても、それらの社会的な区別をわれわれが宿命的に担わされるのは、この世に生を受けたあとのことだ。そしてノグチこそは、いわば日米に引き裂かれながら生まれてきた当人なのであって、彼が最も満たされていた場所は、生まれる以前の母の子宮の中であったかもしれないのである。

 ノグチは日米の混血であるからこそ ― 言い換えれば加害者と被害者の双方の血を受け継いでいるからこそ ― その隔たりを乗り越えた慰霊碑を創造しようとしたように思われてならない。真の平和を実現するためには、それは必ず乗り越えなければならない壁なのである。ノグチはある程度それに成功したように思う。ただ、日本がそれを受け入れなかっただけである。

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