天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』

2017-08-09 08:00:54 | まとめ・資料
笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』




 十二月八日を真珠湾攻撃の日と知る日本人は多い。しかし、四月九日を記憶する日本人はほとんどいない。

 一九四二年四月九日、日本軍による総攻撃の後、パターン半島の米比軍は降伏した。そして、彼らはこの日を「降伏」ではなく、「パターン死の行進(DEATH MARCH)」がはじまった記念日として、今も記憶し続けている。フィリピンでは、この日はかつて「パターン・デー」と称され、現在では「武勇の日」として祝日になっている。

 だが本当は、日本人にとっても四月九日は、十二月八日同様に重要な意味を持っている。

 騙し討ち(真珠湾)に加えて捕虜虐待(パターン)。この二つの事件が米軍をして、本土空襲・原爆投下という女性・子供を含む非戦闘員への無差別殺戮を弁解させる理由となっているからだ。

 ところが、真珠湾攻撃には詳細な研究があるが、バターンに関しては驚くほど資料が少ない。戦後三十年を過ぎてから生まれ、まだ三十歳でしかない私が、数少ない資料を読み漁りながら、それでも気がついたことが一つだけあった。

 九万人近くの兵士や難民が行進し、二万人近い人間がその途中に消えた道。炎天下、死屍累々だったはずの街道を歩き抜いたジャーナリストがいまだない、ということだ。

 十月十三日、私はパターン半島の先端・マリベレスに立っていた。とにかく炎熱の街道を歩き抜こうという覚悟で。

 パターン半島は、東京湾を扼する房総半島のイメージに近い。首都メトロマニラとマニラ湾を挟んで向かい合う南北約五十キロ、東西約三十キロの半島である。

 当時、このマリベレスから、八万とも九万ともいわれる米比軍人や民間人が白旗を掲げて投降した。彼らは日本軍によって、半島からやや内陸に位置する町、サンフェルナンドまで、水も食料もろくに与えられず、炎天下を徒歩で移動させられた。(P200-P201)

 第十四軍司令官だった本間雅晴中将は戦後、この「死の行進」の罪を問われ、銃殺刑に処せられている。起訴状によれば、死亡・行方不明となったアメリカ人捕虜は約千二百名、フィリピン人捕虜は一万六千名に上る。

 行進の出発地点であったマリベレスは現在、「経済区」として外資系企業や工業団地などが立ち並んでいる。そして半島東岸を走る道路には、「DEATH MARCH」と記された高さ二メートルほどの三角の道標が、一キロごとに道なりに建てられている。どの道標にも、うなだれ、倒れ掛かる人をデザインしたプレートがはめ込まれている。

 もともとは、現地を再訪した生還者や海兵隊の有志たちが一九五〇年代初頭から道標を設置するプロジェクトを開始していたが、現在ではNPO団体「FAME」(FILIPINO-AMERICAN-MEMORIAL-ENDOWMENT)が募金によって順次、三角碑に改修している。(P201)

(『文藝春秋』2005年12月号)


笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』

組織的残虐行為だったのか

 「パターン死の行進」は、ナチスドイツのホロコーストと同列に、組織的計画による残虐行為として論じられてきたが、戦後六十年を経た今、さまざまな角度から見直されつつある。

 日本軍は事前に輸送計画を立てたが、捕虜が想像以上に多かったためトラックなどの輸送手段や収容施設、医療施設に事欠いたこと。また日本軍は徒歩による行軍が当たり前だったこと。もともと日本軍に食料は乏しく、捕虜に支給する余裕はなかったこと。しかも日本軍は小銃を構え、完全軍装でこの行進に臨んでおり、軽装の捕虜のほうが楽に歩けたこと-等々。

 しかも、パターン半島の米軍司令官は降伏したものの、対岸にあるコレヒドール島の米比軍との砲撃戦はまだ続いていた。日本の軍事ジャーナリストの嚆矢・伊藤正徳氏は、これを「死の行進」ではなく、砲撃を避け、食料のある場所に移転するための「生の行進」だった、と指摘しているほどだ。

 しかしその実態を検証しようにも、具体的にどのような行程を辿ったのか、詳細を語る記録はきわめて少ない。行進の距離からして、記述はまちまちである。

 マリベレスからサンフェルナンドまで六十キロというものもあれば、八十八キロと記したものもある。また、「部隊によって異なり、六十キロから百二十キロ」と記述した書物もある。これらを四~五日かけて歩いたというが、どれが真実なのか、さっぱりわからない。

 歩いてみるしかない。もちろん私一人がパターン半島を歩いたからといって、当時と今では、目にする風景も相当異なっているはずだ。また、捕虜たちが投降した場所やそのときの体調によっても、行進の苦しさには差が出る。捕虜の数だけ「死の行進」のストーリーがあるのであって、これらをすべて検証するのは不可能だろう。

 しかし、ろくに運動もしていない三十路女が実際に捕虜たちの跡をたどる、その実体験は一つの目安にはなるはずだ。「記者は足で書け」ともいう。(「ゆう」注 意味が違うぞ)(P201-P202)

 行進にあたり、バターンについて書かれた文献や戦記を元にいくつかの条件を設定した。

 まずは、行進のスタート地点である。実は、「パターン死の行進」はマリベレスーサンフェルナンド間のほかに半島西岸中央のバガックからも始まっている。しかし、軍主力の目的はマリベレス攻略にあったと考えられ、また、バガックからより長距離であることなどから、マリベレスを出発地点とした。

 次に日程である。捕虜の証言記録によると、三日間で歩いたケースもあれば、二週間以上かかったケースもある。しかし先に述べたように六十キロの距離を四~五日かけて徒歩で行進したという記述が最も一般的であるため、これに準じて四日プラス予備一日を加え、五日間の日程を組んだ。

 三つ目は服装や持ち物についてである。これも諸説あるが、共通しているのは投降した捕虜たちは武器を持たず、水筒一つぶら下げているのみだったことから、行進時はほとんど荷物を持たず軽装で行うこととした。

 四つ目は、体調についてである。捕虜たちは投降した当初、一様に憔悴しきっていた。多くは栄養失調で、マラリアや赤痢にかかっている者も少なくなかった。これを忠実に再現するのは難しい。

 が、実をいうと、私は出発の四日前まで、ソロモン諸島のプーゲンビル島における十二日間の慰霊巡拝団に同行し、帰国後すぐにフィリピンを訪れた。幸か不幸か、ブーゲンビルの水にあたって下痢を繰り返し、食べ物をほとんど受け付けなくなっていた。マリベレスに到着したときは、準備運動をしただけで息切れがするほどの有様だ。はからずも、栄養失調状態だったのである。

 過酷な戦時中と比べるべくもないが、私は身長百五十三センチ・体重四十数キロでしかない。二十歳前後の壮健な兵士と私との体力差を考慮すれば、その差は縮まると考えていいだろう。もちろん、パターン半島を歩くための特別なトレーニングは一切していない。

 最後は天候である,行進が始まった四月はフィリピンの一年の中で最も暑い季節。日中は四十度になることもある。四月は乾期だが私が歩いた十月は雨期。厳しい日差しと曇りがちな天気とでは、体に及ぼす影響も異なる。

 しかし結論から言えば、気候の差はほとんどなかった。私が行進を開始した十月十三日から四日間、スコールがあったのは夜だけで、日中は乾期とほとんど変わらない強烈な日差しが降り注いだからだ。連日昼過ぎには三十八度を超え、三日目には三十九度を記録している。

 かくて、私は「パターン死の行進」の出発点マリベレス山の麓にある「DEATH MARCH KM00」地点へと向かった。

 -以下、日にちを追って、行進の状況をお伝えしたい。(P202)

(『文藝春秋』2005年12月号)


笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』

気温三十八・九度、三万六千歩

▼十月十三日(一日目)。天候晴れ。

 午前九時すぎにマリベレスのスタート地点に到着。
 
 この場所は小さな公園のような憩いの場となっており、向かって正面には死の行進の記念碑が建立されている。碑には、マリペレスおよびバガックからサンフェルナンドまで、七万人以上の集団が昼も夜も行進を続けた、との説明がある。(P202-P203)

 九時半、いよいよ「死の行進」スタート。この時点ですでに燦燦と太陽が照りつけており、気温は三十二・六度。うだるような暑さだ。

 歩き始めた途端に蒸し暑い空気が体中を包み、じっとり汗が漆み出る。十五分ほど歩くと、一キロ地点の道標が建っていた。この道標が正しいとすれば、時速四キロということになる。

 ちなみにこの時点でも、「死の行進」の正確な距離はわかっていなかった。現地でロードマップを入手したが、地図上の数字を合算するとサンフェルナンドまでは八十八・七キロとなる。

 しかしこの行進の先導役を務めてくれたガイドのHさんによると、ルバオ付近に八十七キロ地点を示す道標があり、そこからサンフェルナンドまでの距離を車のメーターで測ると、合計で百二キロになるという。こうなると、地図さえもアテにならない。

 しかも、半島東岸には現在、新道と旧道といわれる二つの道がある。新道はマリベレス経済区から都心部までの輸送を容易にするために、戦後になって敷設されたハイウェイだ。一方の旧道は、町と町とをつなぐ言わば生活道路のようなものである。

 この二つの道路がくっついたり離れたりして半島付け根のデナルピアンまで続く。旧道の一部は新道と重なるよう拡張されているから、戦時中の道と全く同じというわけにはいかない。ひとまず、一キロごとに置かれた「死の行進」の道標を頼るしかなさそうだ。

 三キロ地点の道標を過ぎると、上り坂でカーブが続くようになった。かなりな急勾配で、箱根の坂道を連想させる。救いは、周囲が緑に囲まれ、木陰が多かったことだ。

 さらに進むと、経済区のゲートを抜けてなだらかな下り坂となる。海の向こうにコレヒドール島の島影がはっきり認識できた。約四キロしか離れていないから、大砲は十分に届いたであろう。

 バターンの降伏後、日本軍はすぐさまコレヒドール要塞の攻撃に移っているから、もし日本軍が捕虜に対して残虐行為を行う計画があったのなら、行進などさせずにこの場所にとどめ置いたはずだ。(P203-P204)

 まだ始まったばかりというのに、ふくらはぎがパンパンに張ってくる。文明の利器に慣れ親しんでいると、人間ここまで退化するものなのか。情けない。

 昼食ののち、午後三時には当初の目的地だったカプカーベンに到着。パターン半島総指揮官キング少将の軍使が降伏を申し入れてきた場所だ。十六キロ地点の道標がある。

 ふくらはぎの次は大腿部の付け根がきしんできたが、幸い、気力はまだ残っている。もう少し歩いてみよう。できるだけ気力体力のあるうちに距離を稼いでおかなければ。なだらかな下り坂が続き、今度は脛が痛くなってくる。

 道はほとんどアスファルトで整備されている。『太平洋戦争(上)』(児島襄著)によれば、当時もアスファルトの道路が続いていたという。私は、彼らと同じような道を今、たどっているのだ。それにしても暑い。三時過ぎ、気温は三十八・八度を記録した。

 午後四時五十分、リマイに近い二十二キロ地点の道標で一日目の行進を終えた。歩数、約三万七千歩。足が重い。(P204)

(『文藝春秋』2005年12月号)



笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』

▼十月十四日(二日目)。天候曇りのち晴れ。

 午前八時四十分、行進開始。約二十五キロ離れたアブカイを目指す。

 二十三キロ地点の道標から、旧道を歩く。気温はすでに三十三度を超えている。新道と旧道が入り乱れているため、ガイドのHさんが車で先回りして道標を確認し、進むべき道を教えてくれる。

 午前十一時には、三十二キロ地点に到達する。このあたりは田舎らしい田園風景が続き、私は合鴨農法をやっている水田を初めて目にした。民家が連なる街中でも、ここはのどかな雰囲気が漂う。戦時中の要塞で、激戦地となったサマット山にそびえ立つ巨大な十字架がはっきり見て取れた。

 午後一時半には三十八・九度を記録。蒸し暑い空気が、全身の毛穴をふさいでしまうかのような息苦しさを覚える。

 昼食後、四十一キロ地点の道標に到着、ピラーヘたどり着いた。さらに進むと、天を突く刀剣の巨大なモニュメントがあり、T字路になっている。二十六キロ地点を示す道標があり、数字の下には「BAGAC=O」と記載されている。ここがバガックから出発した捕虜たちとの合流地点だったようだ。

 バランガでは、多くの捕虜が米と水の配給を受けた。ただし、配給に関する証言は捕虜によって異なり、マリベレスで缶詰を一缶ずつ分け与えられた者、カブカーベンでは水を、ルバオでは食料を配られたという者もいる。さらにはオラニでも、報道部が炊き出しをした、と当時部員であった今日出海氏は述べている。

 午後五時、兵隊の像が建立されているのが見えた。アプカイ教会である。ここで行進を終了することになった。歩数、約三万六千歩。二日間でパターン半島の三分の二を歩いたことになる。相変わらずふくらはぎが張っているが、初日ほど暑さは気にならなかった。体が順応してきたのだろうか。(P204)

(『文藝春秋』2005年12月号)



笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』

百二キロを踏破

▼十月十五日(三日目)。天候晴れ。)

 夜中にスコールが降ったが、午前七時の時点で太陽が照りつけている。これからら味わう暑さを想像すると、うんざりしてくる。(P203-P205)

 午前八時半、気温三十四度。アプカイ教会から行進を開始する。今日は、デナルピアンからパンパンガ州に入り、ルバオ付近を目指す予定である。

 四十分ほど歩くと、五十キロ地点の道標が確認できた。もし「死の行進」が百キロを超えるのだとしたら、ようやく半分ということになる。昨日は足が相当重かったが、今日はそれほど筋肉の悲鳴は聞こえてこない。足も行進に慣れたということか。人間、退化もするが、順応するのも意外と早いのかもしれない。
 
 六十キロ地点の道標を過ぎたところでヘルモサの街に入った。それにしても、この死の行進の距離をなぜ、誰も現地で確認しなかったのだろうか。この時点で、マリベレスーサンフェルナンド間が六十キロという説は明らかに間違いであることがわかる。

 もっとも道標も正確とは言えない。一キロ等間隔で建てられているとはとても思えない。ただ、多少の誤差はあるとはいえ、車のメーターと合わせて測ると、総距離としてはだいたい辻棲が合うように建てられている。概ね道標が示す距離に間違いはなさそうだ。

 暑さにも足の疲労にも慣れたが、今度は退屈が我慢ならなくなってきた。六十三キロ、六十四キロ、六十五キロ……。たいして代わり映えのしない田園風景がずっと続いている。いや、考えてみれば、田園があり、水路があり、ため池があれば、水分の補給には苦労しなかったはずだ……いや、当時は水田だったかどうかもわからない、いろいろな想いにふけりながらひたすら歩く。

 人によっては、のんびりしたウォーキングを連想されるかもしれない。だが、フィリピンの人々はほとんど長距離を歩かない。狭い道を車やバスが猛スピードで走りぬけ、大量の排気ガスをもろに受けながら、太陽の照りつける中を歩いているのである。散歩気分にもなれなければ、孤独を楽しむ心の余裕もない。思考回路も完全にストップしてくる。

 午後二時、気温は三十九・一度を記録した。ただひたすら、足を前に出すだけの作業を続ける。あまりの退屈さにイライラする。歌でも歌おう。口をついて出てきたのは、"丘をこえ行こうよ"で始まる「ピクニック」だった。次に口ずさんだのは慰霊巡拝の旅で、老人たちに教わった「歩兵の本領」である。不思議なもので、歌いながら歩けば、足取りも軽やかになる。たしかに軍歌の効用はあるのかな、と思う。

 午後四時四十分、パンパンガ州に入るアーチが目に入った。この州の州都がサンフェルナンドだ。しかし、この頃になると歩幅は徐々に狭まり、歩みは遅くなる。沿道に並ぶ植木屋をぼんやり眺めながら歩き続けるが、もはや歌う気力もなくなった。

 五時半、ルバオにある植木屋の軒先に建てられた七十五キロ地点の道標のところで、本日の行進を終える。歩数、約四万歩。宿泊先のホテルに着いて車を降りようとすると、足に力が入らず転びそうになった。(P205)

(『文藝春秋』2005年12月号)



笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』

▼十月十六日(最終日)。天候晴れ。

 最終目的地は、いよいよサンフェルナンドだ。前日までのペースで行けば、予定通り四日で終えることになる。

 午前九時、昨日の七十五キロ地点から行進を開始する。一時間ほどでルバオの中心街へと入った。車が大渋滞を起こしている。街中を過ぎると、車も少なく遊歩道を歩いているようなのどかな気分で行進できるようになったが、今日はやけに暑さが体にこたえる。まだ気温は三十四度前後。行進四日目ともなると、さすがに疲労もたまっているようだ。

 正午過ぎ、八十七キロ地点の道標にたどり着いた。ここから先は道標がない。一九九一年のピナツボ火山の噴火によって、距離などの再調査が不可能になったからのようだ。旧道から新道へ入り、サンフェルナンドまで一直線の道をひたすら歩き続けなければならない。

 道標がないので、どのくらいの距離を歩いたのか、朦朧とした頭では見当もつかない。捕虜たちはサンフェルナンドから貨車でキャパスまで送られたが、自分たちの行き先を知らされていなかった。目的地がはっきりしなければ、実際、この行進はつらいものであっただろう。永遠に続くかのような錯覚さえ覚える。

 米軍捕虜として「死の行進」に参加したレスター・I・テニー氏は、「目標を持つための目印を探した」と、著書『パターン遠い道のりのさきに』で述べている。私も同じようにやってみた。たとえば、あの三メートル先の電柱まで歩こうと決める。それができたら、さらに三メートル先の木の根っこを目指す。身近な目印を見つけ、それをクリアすることで辛うじて気力を維持するのである。
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 これはなかなか奏効した。午後四時、ついにサンフェルナンドの街を示すアーチをくぐる。

 それから三十分ほど歩いただろうか。私たちは立体交差点から、一般道路へと入った。ここから先はあと一キロ程度だという。やっとたどり着けるのだ。最後の気力を奮い立たせる。

 その瞬間だった。雲行きが怪しくなってきたのだ。あまりに晴天が続いたのですっかり忘れていたが、今はまだ雨期。あっという間に地面を叩きつけるようなスコールとなった。

 実際は、一キロもなかったように思う。店が立ち並ぶ繁華街を掻き分けるようにして道を進むと、だんだん人気がなくなり、行き止まりのような場所に出る。よく見ると、左に曲がりくねった細い道が続いている。この細い道を入っていくと、スコールで遮られていた視界に突然現れた建物、それがサンフェルナンドの駅舎だった。中は空洞だが、レンガ造りの外枠はしっかり残っている。その裏手には、久し振りに目にする道標が建っていた。(P206-P207)

 「DEATH MARCH KM102」

 午後五時、最終目的地であるサンフェルナンドに、ついに到達したのである。

 スコールは上がり、向かいの教会からは賛美歌が流れた。そこだけ異質な空間を生み出しているように感じられた。(P207)

(『文藝春秋』2005年12月号)


笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』

兵隊はすっからかんになる

 さて、実際に歩いてみてわかったことがある。それは、第一に「この距離を歩いただけでは人は死なない」ということである。今回、私は、準備はおろか栄養失調状態でこの行進に臨んだが、無事に歩き終えた。筋肉や関節が痛み、足の指には三つのマメができた。しかしそれでも、足は惰性で動くのだ。

 このことは、移送計画自体が、そう無理なものではなかったということも示している。実際に道をたどると、なるべく目的地まで近い道を選択しており、組織的な虐待という指弾はあたらない。

 ただし、これは水分を補給した上での話である。自分が歩いてきた道程を考えれば、わずかな水と食料だけで行進するのは、かなり過酷であることは事実だ

(「死の行進」では、暑さを避け、早朝と夕刻に行進し、昼間は休息したという記述もある。その意味では、私の方が炎天下を歩いたことにはなる)。

 パターン半島には、いくつもの川が流れており、当時は沼地も点在していた。水分補給とまではいかなくても、熱中症対策ぐらいはできたのではないかと思われる。

 しかし、監視の目を盗んでそれを行うのは困難だったろう。「(日本兵は)我々がどんな水源からでも水を得ようとするのを禁じ、動物のように追い立てた」と、捕虜の一人は証言している。

 もっとも、これら捕虜たちの証言は、鵜呑みにできないものも少なくない。「死の行進」という虐待行為が存在したことを前提としてとられた調書である。また、戦犯裁判では反証を行っても公正に取り扱われないため、事実関係が確定できない。(P207-P208)

 なかには、「ジャップは道端に並んで、捕虜たちが行進していくと、殴ったり、唾を吐きかけたり、泥を投げつけたり、果ては便器の中身をぶちまけたり、とにかく我々を侮辱するためには何でもやった」「時計や金品を奪った」などという、にわかには信じがたい証言もある(国会図書館所蔵「THE WAR CRIMES OFFICE」による調書記録)。

 一方、比島派遣軍報道部がまとめた『比島戦記』の中で、火野葦平氏は次のように記している。

 「(兵隊たちは)自分が今日から食べるものがなくなることも忘れて、持つてゐる限りの食糧をやってしまふ。(略)煙草をやる。水筒の水をやる。兵隊はすつからかんになる」

 水や食料が不足していたのは、日本軍も同じだった。捕虜たちが味わったのが「死の行進」なら、日本軍もまた「死の行進」を昧わっていたのである。

 むしろ、最大の問題は、水不足や栄養失調より、捕虜たちがマラリアなどの病にかかっていたことではないだろうか。マラリアは重症の場合、しばしば死に至ることがあるが、もし「死の行進」の最中に捕虜がマラリアで亡くなったのだとしたら、それは行進に起因するものというより、米比軍側のそれ以前の治療体制が不十分だったことを示している。種類にもよるが、マラリアの潜伏期間はだいたい二週間程度だからだ。

 もちろん、そのことで「死の行進」を正当化できるものではまったくないが、少なくともすべてが日本軍側の責任であったかのような捉え方はあたらない。(P208)

(『文藝春秋』2005年12月号)


笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』

もう一つの「死の行進」

 徒歩で捕虜たちを行進させたことについて、ルポライターの鷹沢のり子氏は日本軍の命令系統が混乱していたことに言及し、これを批判している。

 「防衛庁防衛研究所戦史室著『比島攻略作戦』を読むと(中略)、良心的にとれば『輸送する予定ではあったが、トラックが不足していたので、一部の捕虜たちをトラック移送して、あとは徒歩行進させた』と解釈できる。しかし日本軍は陥落後、捕虜の移動に関して混乱状態にあり、重要なことがらを徹底して伝えるほど余裕がなかったのだ」(『パターン「死の行進」を歩く』・傍点筆者)

 これは、戦時下の状況をあまりに理解していない空疎な言葉といわざるを得ない。このとき、眼前のコレヒドール島攻略が日本軍にとって焦眉の急であり、直後から実際に大砲撃戦が展開された。

 その最中、捕虜の輸送がもっとも「重要なことがら」にはなりにくい。もし全員を乗せるだけのトラックがあるのなら、まず弾薬や戦闘のための補給に優先的に使用されただろう。平穏な時代に身をおいて人道主義を唱えることは易しい。
 
 第一、そんな平穏な時代のノーテンキの代表のような私でも、歩ける距離なのだ。鷹沢氏はマリベレスからサンフェルナンドを通過し、収容所があったキャパスまで五泊六日で歩いているが、行程の一部をバスで移動している。私と同じように三万六千歩を歩いた日の夜などは、「食欲が全くない」と形容しているが、不思議な話である。最初、栄養失調気味だった私ですら、踏破できたのだから。(P208-P209)

 そして行進の間、もう一つ実感したのは、反日感情がまったく見られなかったことである。

 七〇年代中頃まで、バターン半島はフィリピンの中でも最も反日感情が強い地域の一つであった。しかしその後、宗教団体による留学生受け入れなどで、友好関係が築かれるようになっている。「死の行進」の道のりを地元住民に尋ねながら先導してくれたガイドのHさんすら、皆がじつに丁寧に答えてくれたのには驚いていた。

 行進しているときも一目で日本人とわかるのだろうか、老若男女問わず、親しげに「アリガトウ」「オハヨウ」などという言葉をかけてくる。「アユ、アユ」と子どもたちに呼びかけられたこともあった。人気歌手のニックネームである。

 歩いてみてもう一つわかったことがある。全行程は正確には百二キロ。四日間で歩いたとすると、一日約二十五キロ。実は、この数字は「捕虜の後送は二十キロメートル」と定めたジュネーブ条約に反しているという見方もできるのだ。

 もっとも、条約には、その後に続く文言もある。

 「但シ水及食料ノ貯蔵所ニ到達スル必要上一層長キ旅程ヲ必要トスル場合ハ此ノ限二在ラズ」

 さて、最後にもう一つの「死の行進」について記しておきたい。

 太平洋上に浮かぶギルバート諸島の一つに、ナウル島という小島がある。戦後、ここで戦った兵士たちは豪州軍の捕虜となり、「パターン死の行進」の縮小版とも言える経験をしている。
 『ソロモン収容所』(大槻巌著)によれば、彼ら守備隊は輸送船に三百人以上詰め込まれ、ソロモン諸島北端のブーゲンビル島へと移送された。そして上陸前に水筒の水を捨てさせられ、炎天下三十キロ余りをタロキナの収容所まで行進させられているのだ。

 川があっても豪州軍は足で水をかぎ回し、泥水にしてしまう。さらにナウル島にはマラリアがなかったため、免疫をもたない彼らはあっという間に感染し、死亡者が相次いだ。

 戦時中ではない。日本が降伏し,た「戦後」の話である。豪州軍の責任者は処罰もされていないし、賠償の対象にもなっていない。

 戦争を風化させてはならない、とメディアは盛んに書き立てる。ならば、マニラに支局を持つ大メディアの記者たちはなぜ、実際に現場に足を運んで検証しようとしないのか。そしてそれが非人道的行為であったとするなら、同様の行為が日本人兵士にも加えられたことを、なぜ報道しないのか。

 かつて、バターンでの行進の様子を脱走した捕虜から伝え聞いたマッカーサーは、「適当な機会に裁きを求めることは、今後の私の聖なる義務」だと復讐を誓っている。その結果、「死の行進」は「リメンバー・パールハーパー」と並び、米国中の憎悪をかきたてるスローガンとなった。

 戦争は憎悪の応酬によって肥大化していく。それは今次のイラク戦争とその後に続く泥沼化を見ても明らかだ。憎悪の応酬を防ぐものは事実の検証でしかない。事実を検証すれば、一方的な悪など存在しないことが見えてくる。

 たった四日の「私の死の行進」がそれを教えてくれた。.(P209)

(『文藝春秋』2005年12月号)

古谷経衡氏 インパールで聞いた日本兵の声なき声

2017-08-09 07:58:49 | まとめ・資料
 週刊ポスト

古谷経衡氏 インパールで聞いた日本兵の声なき声




毎年、夏を迎えると戦争特集が新聞、テレビで組まれる。しかし、戦後73年を経た今、語り手と受け取り手の記憶の共有は困難になっている。今、戦争を知るとはどういうことなのか。そんな思いを抱きながら古谷経衡氏がこの7月、インド北東部のインパールに向かった。

 * * *
 インパール──、と聞くと少なくない日本人は先の大戦における、あの無謀な大作戦を思い描くだろう。1944年3月、悪名高き第15軍司令官牟田口廉也によって起草されたインパール作戦は、補給無き無謀な作戦計画の元に、都合4ヵ月以上に亘って行われた。

 結果、投入兵力約10万のうち、3万とも4万ともされる将兵が東インドの山野に倒れていった。「白骨街道」で知られるインパールは、無謀、無策、無責任の代名詞となっている。

 これだけ有名なインパール。他方、私の周囲に実際にかの地に行ったことのある人間は絶無だ。日本軍の組織論として名高い『失敗の本質』(初出1984年、中公文庫)。古典的名著として知られるこの本の中に、インパールが登場する。

 曰く、牟田口と上官・河辺正三(ビルマ方面軍司令官)の「情」が、合理的な反対意見を押し切って無謀な作戦を挙行させた云々…。版を重ねて久しい本書のオビが、最近新装されていて驚いた。小池百合子都知事が本書を「座右の書」として推薦し、煽り文句には「都庁は敗戦するわけにはいきません!」とドヤ顔の写真付き。その意気込みや良し、果たして本書の中に登場する激戦地へ、彼女はどれほど足を運んだのか。最近双葉社から出た小池の写真集には、ギザの三大ピラミッドを背景にはしゃぐ若き日の小池が登場する。

 韓国経済は崩壊する、とがなり立てながら一度も渡韓したことの無い者。チベットの人権問題が云々、と口角泡を飛ばしながら一度もチベットに行ったことのない者。そういった胡散臭い自称論客と小池を同一視するつもりはない。が、所々調べるところ小池がインパールに行った形跡もない。何が「座右の書」か。無性にむかっ腹が立った。

 よく居るのだ。座学で歴史講釈の上っ面をトレースしただけでさもビジネスやら処世術やらに援用しようという意識高い系が…。

 すわ沸き上がった怒りを奇貨として、私はかの地インパールへ向かうことにした。奇しくも、同作戦が大本営によって中止決定されたのが1944年7月1日。バンコクとインド東部のコルカタを経由すること、片道丸2日をかけてインパールに至ったのは、ちょうど同作戦中止から73年後に当たる7月初日であった。

 広大なインド亜大陸の最も東にあり、ビルマ(現ミャンマー)と国境を接するのがインパールである。空港で屈託のない笑顔にて出迎えてくれたのは、現地の戦史ガイド・アランバム氏(46歳)。ア氏は生まれも育ちも地元インパール。パンジャブ工科大学でMBAを取得したインテリである。実父がインド独立初期の陸軍軍人だった事に触発され、以後インパール戦史啓蒙の陣頭指揮に当たっている。

 瀟洒な自宅に私設インパール戦争博物館を設営、土の中から両軍の遺棄物資などを発掘、展示している。ア氏は連合国(英)・日本側双方ともに交流を持つ在野の戦史研究家として、同地を慰霊に訪れる元日本兵やその遺族等をコーディネートした経験もある。

 その活躍は朝日新聞紙面にも紹介された。今回の旅は、このア氏をガイドに、氏の四駆に同乗して山野を行く行程だ。

◆ジンギスカン作戦
 ここでインパール作戦の簡単な経緯を整理しておく。日米戦争が勃発するや否や、南方の資源地帯を掌握する「南方作戦」が発動され、日本軍は一挙に英軍をビルマ以西まで放逐することに成功した。大本営は元来、インド独立運動家、チャンドラ・ボースを擁してインド東部に攻め込み、イギリスの屈服を図るという構想を抱いていた。この構想は、日本の敗色が濃厚となった1943年末以降、活発になる。

 作戦は、1944年3月に開始され、同年4月29日の天長節を目途に、英領東インドの拠点インパールと、その補給拠点コヒマを占領し、連合国の動揺を図ることにあった。作戦遂行の手はずは次の通り。ビルマ北部の保養地・メイミョウに居る牟田口廉也を総司令官とし、三個師団で三方からインドに侵入する。

 インパールを目指すのは、第15師団(山本正文中将)と第33師団(柳田元三中将)。北側のコヒマを目指すのは、第31師団(佐藤幸徳中将)。

 ところが行軍は過酷であった。野砲、車両等は分解して道なき山岳を担がねばならず、荷馬として徴発した水牛は、第一の難所・チンドウィン川を渡河する際に半数が溺れ死んだという。物資の運搬に使用した牛を、現地に着き次第食料にするという奇案を牟田口は「ジンギスカン作戦」と自画自賛したが、初手からその構想は頓挫した。加えて増強された英印軍はその制空権を掌中に収め、落下傘補給で友軍に万全の補給体制を敷く。

 一方、日本軍は携行食料と現地調達しか補給の当てはない。土台成功の見込み皆無の無意味な作戦に、10万の日本兵が従事させられたのだ。

◆佐藤中将の独断撤退

 ア氏のガイドの元、インパール市郊外で戦後に建立された慰霊碑にて献花する。この地方特有の赤土がむき出しになった丘陵は、柳田師団(33師)と英軍が激戦を交えた丘で、英軍はレッドヒル、日本軍は2926高地と呼んだ。この丘の入口に、戦没者慰霊碑がある。

 誰に言われずとも毎日慰霊碑の清掃をしているという地元の古老は、1ルピーの対価を求めるでもなく、参拝者手帳に私の名を記帳しろという。

 敷地内に置かれた日本軍速射砲には、巨大な蛙が飛び乗っていた。雨季の真っただ中である。降りしきる大粒の雨が、「英霊よこの地で安らかにお眠りください」の碑文に流れ込む。私にはそれが涙雨に思えた。

 翌日、佐藤中将の31師が目指したコヒマの地に向かう。電子が世界を駆け巡るこの21世紀にあっても、インパールからコヒマに続く道は舗装道路一つなく、ただ一本の片面通行路があるだけ。両側に鬱蒼とした密林が繁る手つかずの山野を、延々と蛇行して車両は登って行く。

 土砂崩れによる陥没に車輪を取られてトラックが派手に横転し、滑落寸前になっているのを二度見た。このあたりでは良くあること、と言ってア氏は莞爾と笑う。しかし車窓から下を見ると、数メートル違えば断崖絶壁の奈落である。


 こんな人外魔境に、内地から駆り出されてきた兵士の想いは如何ばかりか。この悪路を、当時の日本軍は一人50kgの重装備を背負いながら全て徒歩で行軍した。その上さらに常時戦闘に備えるのだ。想像を絶する極限状態に私は身震いする。

 コヒマは、標高2000mを超える高山都市で、雲の上の斜面に住宅や低層ビルが犇めく。大河と山岳と密林を徒歩で越えてきた31師はこのコヒマに肉薄し、一時は同地占領の寸前かに思えた。

 だがその進撃は止まった。制空権がない。弾薬がない。そして僅かな携行食料は食べつくした。目標としていた天長節までの両都市占領は、英印軍の巧みな反撃に遭って一向に進まない。五月を過ぎると雨季に入る。貧弱な道路は冠水し身動きが取れない。マラリアや赤痢に陥る日本兵が続出した。戦後の述懐によると、牟田口が作戦の失敗を悟ったのは4月末という。にも拘らず、牟田口は安全地帯から、前線に督戦電報を送り続けた。

 このままでは2万の部下が死ぬ。佐藤中将は、5月末独断にてコヒマを放棄し、後方に撤退する決断を下した。天皇直々に任命される師団長が、上官の命に背いて独断撤退したのは、日本軍始まって以来の大事件である。

 佐藤中将は軍法会議で死刑を覚悟した。が、「発狂」として処理されお咎めなしとなった。牟田口の責任論も封じられた。佐藤中将は、「牟田口を斬り殺す」との剣幕で第15軍司令部に乗り込んだという(牟田口は不在)。

 こうして大本営は作戦中止を正式に決定した。しかし東インドの密林では、東京での決定如何に関わらず、敗残兵がひたすら元来た道を病身で逃げていき、そして力尽きていった。

◆歴史から学ぶとは

 コヒマには、日本軍の攻撃で擱座(かくざ)したままで放置されている英中戦車「M3リー・グラント」が野外展示されていた。装甲の厚いM3リーのキャタピラーは碌な対戦車砲を持たない日本軍によって破壊されている。

 どのようにしてこの車両が擱座したのか伝わっていない。が、このキャタピラーは確実に何人もの日本兵の血を吸っている。


 ア氏のガイドの元、コヒマ近郊にある寒村に案内された。納屋のような小屋の前まで来て「はッ」とさせられた。佐藤中将がコヒマ攻略の際、滞在していた10坪に満たない木造家屋が当時と変わらぬ姿でそこにあった。滅茶苦茶な命令にも拘らず作戦に従い、難渋の末、部下の命を救う英断をされた稀有の名将・佐藤中将はこの粗末な小屋で寝起きされていたのだ。

 現場を無視した精神主義的体育会系の滅茶苦茶な命令に、命を賭して抗命した中将の姿は、現代日本の様々な企業組織の暗部にも通じるのではないか。ア氏は言う。

「東インドに侵攻してきた日本軍に、私たちは悪意など持っていない。私たちは何百年もイギリスに虐げられてきた。だから病で動けなくなった日本兵を、英軍の目を盗んで自宅に匿って看病した村人が沢山いる」

 帰路、インパール市郊外のボース銅像の立つ記念館に寄った。ボースはコルカタ出身だが、インパールに侵攻した日本軍の先鞭となってインド国民軍(INA)を率いた。

 ボースは日本を利用してインド独立を企図し、ナチスドイツにも接近した。しかし、その望みは日本の敗戦とともに潰え、終戦直後台湾で航空機事故死した。ボースは、ガンジー、ネルーと並ぶインドの三傑である。

 インパール作戦の失敗によって、辛うじて拮抗していたビルマ戦線は崩壊。日本軍を追撃した英軍は、ビルマ最大の拠点ラングーンに迫った。インド・ビルマ戦線全域で死亡した日本兵は17万とも18万ともいう。

 まだその多くの遺骨が、このインド東部の鬱蒼とした青い山野に眠っている。整然と整備された連合軍戦没者墓地に埋葬された英印兵とは対照的に、いまだ所在分からぬ土の中に眠る日本兵は私たちに、二度とこのような無謀な作戦が実行されることのないよう、怨念の如き声なき声を発しているかのように思えた。高い経済成長や、IT、映画産業ばかりが耳目を集めるインドにあって、インパールとコヒマではただの一人の日本人にも遭遇しない。

 歴史から学ぶとは、ただ書を読むことではない。その地に赴き、その地の在り様を皮膚で感じることだと私は思う。インパールの山野は、73年前と変わらず、まるで私たちに過去からの猛省を促すように、ただ静かに黒々と蒼いのであった。

※SAPIO2017年9月号