天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

白虎隊と新政府と陰謀論

2021-07-27 06:09:00 | 靖国




『薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握ったわけですが、それが歴史的にも正当性があることを主張するために使った“うまい言葉”が「明治維新」であることがわかったのです』

と東洋経済の『明治維新150周年、何がめでたい』で長岡藩士を祖先に持ち今年1月にこの世を去った半藤一利は書いている。

長岡藩も会津藩同様戊辰戦争での賊軍の立場であることから、明治政府樹立の疑義によって、大東亜戦争(太平洋戦争)の加害的責任の起源を明治政府に求めて、貶めることで明治政府創立150周年より戊辰戦争150周年を強調したかったのだろう。

会津藩が薩摩長州を差別するのに対して薩長は会津を差別してきたのは事実であろう。つまり官軍、賊軍の関係が現在まで尾を引いている訳だ。

それは靖国神社の創設が明治新政府、所謂官軍を祀る東京招魂社に端を発していることから賊軍である長岡や会津にとって遺恨を残していることも有り得ない話ではない。

東京招魂社は明治12年に対外戦争の戦死者を祀る為に靖国神社に改名されてはいるものの、戦犯分祀論と賊軍の遺恨から明治政府、靖国神社に対する違和感となっているのも否めない。

超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」があるが、ここに一度だけ加わり、辞めて一人で参拝しているのが亀井静香氏だ。

彼はまた靖国神社への白虎隊や西郷隆盛などの賊軍こそ合祀すべきだと主張している。

厳密に言えば鎮霊舎に合祀されているので靖国神社には祀られていることに違いはないのだが、靖国神社にも明治期の遺物的な偏見として否定的に捉える場合に合祀問題が政治問題化する。

近年白虎隊の埋葬禁止令が事実では無いことが明るみに出た。その証拠が残されていたのが、戦死者の埋葬を記録した『戦死屍取始末金銭入用帳』である。

明治政府は会津藩降伏の10日後、会津藩士四人が指揮し567名の遺体を64箇所に埋葬、その費用450万円。384人が動員され、一人当たり7500円の日当支給とある。また白虎隊と思われる遺体も記録されていたのだ。

半藤も書いている埋葬禁止令だが、賊軍、朝敵と会津藩を自ら差別化することにより、新政府に対する恨みや貶めを強調する為の創作物の可能性が高まったのだ。

以下に埋葬禁止令が実しやかに語られる部分をコピペする。

【戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされたために白虎隊の遺体を明治政府はそのまま放置しておくよう命じ『埋葬禁止令』埋葬の許可がされませんでした。風雨に晒される少年たちの遺体は、衣服遺留品は盗賊に盗られ、動物に食べられ酷い状態でした。不憫に思った当時の山主飯盛正信が、村の吉田伊惣次と有志らと夜な夜なコッソリと骨を拾い集め、今の墓前広場の一角に仮埋葬をしました。しかし、このことが西軍にわかり、正信爺は伊惣次と共に処罰され、その後許され出てきた時には正信爺は縄のようにやつれておりました。 

明治2年になって、ようやくこの飯盛山中腹に合葬が許され、私ども飯盛一族は『一個人の私有地にお眠りなられるのは、さぞかし肩身の狭い思いをされるだろう。ならば、この山をお殿様に献上すれば、永遠にお殿様の傍で安らかに眠れるであろう。』と、土地三半歩を旧藩主に献納し、妙国寺の数体の遺体と共にこの飯盛山に白虎隊墓地が新設されたことで、『飯盛山は、わしが守る。』と、初代『飯盛キン』が慰霊を尽くしてから、二代目、三代目と継承し、現在で四代目となりました。 
明治17年には墓地を拡げ慰霊祭が行われ、そののち明治23年になって自刃した隊士を19名と決定し大慰霊祭が行われ19士銘々のお墓が建ちました。】

この様に会津は鹿児島、山口だけでなく、高知、佐賀、水戸に戊辰戦争の恨みを抱き、現在まで残存しているのは当時の恨みもさることながらそれに付随する創作が語り継がれたことも大きな要因となっているのだろう。

したがって靖国神社の否定には明治政府の正当性を疑うと同時に「会津差別」や「明治天皇替え玉説」などの陰謀論の類も使われるのである。



みっきーとこはくぶちょう 会長の推察

2021-07-14 05:20:00 | 芸能
100万人の登録者を超える人気ユーチューバーみっきー25歳に淫行疑惑、


16歳でコンカフェ店員2万人のツイッターフォロアーのこはくぶちょう


その親子に美人局恐喝疑惑とユーチューブでは芸能界を凌駕するスキャンダルで持切だ。


同じく140万人を超え、2億円近い年収を稼ぐユーチューバーコレコレがYouTubeライブでこれを取り上げ、同時視聴31万人を記録したことで注目度も分かるだろう。

この問題は現在両者警察に届けをだしているので具体的進展はない。この事件を誰もが経緯をまとめているのでここでは割愛し、私会長が私なりの推論を交え考察することにした。

まず美人局とあるがツツモタセと読む。ツツは女性器を表す業界用語だ。この業界が裏社会、所謂反社業界である。したがって普通に暮らしていれば、まず美人局などに巻き込まれることはない。

みっきーを擁護する事務所側の主張が美人局で恐喝と主張しているのだが、ちょっと厳しい。
16歳の少女を美人局させる母親など聞いたことがないし、恐喝と判断出来る示談交渉及びその金額もみっきー側からの提示である。

やはり焦点になるのは淫行の有無で対立しており、どちらかが嘘を付いているという部分だろう。

そもそもみっきーがプロデュースするアイドルオーデションにこはくぶちょうが応募し、宿泊した後落とされたことに発端があるようだ。

16歳の枕営業が失敗に終わり、その腹いせで淫行をリークした可能性が全てであろう。世も末感が半端無い。

淫らな行為とは性行や性行類似行為も含まれ裸で抱き合う行為も含まれる非常に曖昧な判断となる。つまり18歳未満を保護する為に女性に有利に出来ている。

嘘が暴かれ無い限り痛み分けで終息させるように時間をかける為これも大人、みっきー側の道義的責任からこちらに圧倒的に不利なスキャンダルと言える訳だ。

性の乱れには気をつけたい。








Google検索がヤバい‼️

2021-07-09 06:30:00 | 靖国





赤旗を読むのは甚だ不本意であるが、靖国神社に関してはその限りではない。


今回靖国神社のGoogle検索で赤旗記事が上位となっていることに危機感を覚え、マッチポンプとも言える赤旗への疑問の答えと別記事にも疑問を感じたので以下に二つの記事をコピペした。

赤旗本文を赤字とし、疑義のある箇所を青とし注意箇所は緑とした。

最後に簡単な解説で纏めるが、赤旗がどの様な意図でこの記事を書いているのかを皆様も是非考えながら読んで頂きたい。



靖国神社は一宗教法人ではないのか?


 〈問い〉 靖国神社は一宗教法人ではないのでしょうか? 神社の紋章が皇室と同じ菊なのはなぜですか?(秋田・一読者)


 〈答え〉 靖国神社は「勤皇の志士」「官軍の戦死者」をまつる神社として創建され、1879年(明治12年)に国家神道の格式では特別という意味の別格官幣社靖国神社となります。戦後1945年12月15日に日本を占領した連合国軍総司令部が「神道指令」を発するまでは、現人神(あらひとがみ=生き神)の天皇が、天皇のために戦死した人びとなどを「英霊」と呼ぶ祭神に認定し、陸軍省と海軍省によって管理される神社でした。

 「神道指令」は「神道の教理ならびに信仰を歪曲(わいきょく)して日本国民を欺き侵略戦争へ誘導するために意図された軍国主義的ならびに過激なる国家主義的宣伝に利用するがごときことの再び起ることを防止するため」に国家神道の解体を指示し、天皇は信教の自由と宗教団体の自主性を認めた宗教法人令を公布します。これをうけて靖国神社は宗教法人靖国神社となります。

 ところが、「神道指令」直前に、靖国神社は「英霊」を特定しないで、不明の戦死者全部を祭神とする臨時大招魂祭をおこないました。そのため、その後に判明した戦死者名簿などを厚生省引揚援護局などから提供され、祭神を増やし続けてきたのです。引揚援護局の中枢には旧陸海軍出身者がすわり、靖国神社との特別な関係を維持してきました。そこに法的根拠があるわけではなく、厚労省は「戦死者名の問い合わせには応じている」という言い逃れで靖国神社と癒着し、特別な関係を続けてきています。

 一宗教法人にすぎない靖国神社の紋章が皇室同様の菊紋になっているのは、天皇の神殿という意味を今も示そうとしているのです(厳密にいえば多少の変化を付けて皇室とまったく同じ紋章ではありません)。(平) 〔2006・10・26(木)〕


靖国神社って何? 「参拝」何が問題?

首相は「国に殉じた人に尊崇の念を」言うが…

 安倍晋三首相の靖国神社参拝をめぐって、NHKなど一部のメディアが「『不戦の誓い』をした」などという首相の説明を無批判に流しています。靖国神社とは何か、首相の参拝がなぜ世界から厳しい批判をあびるのか、問題の根本を説き明かした報道はほとんどみられません。靖国神社のそもそもを知れば、首相の参拝が「内政問題」や「内心の自由」では絶対に片付かない、深刻な問題であることがはっきり見えてきます。


戦前・戦中はどんな施設

戦争動員の精神的支柱

 靖国神社は、明治時代の1869年、新政府軍と旧幕府側との間で戦われた戊辰(ぼしん)戦争で戦死した軍人をまつるために創建された「東京招魂(しょうこん)社」が前身です。79年に「靖国神社」へと改称。「別格官幣(かんぺい)社」という特別の社格を与えられ、国家神道の中心的神社と位置づけられました。

 一般の神社とは異なり旧陸軍、海軍両省が管理する軍事的宗教施設でした。明治維新からアジア・太平洋戦争までの戦没者240万人余をまつっていますが、いずれも“天皇のため”にたたかって死んだ軍人・軍属だけです。

 このため、西南戦争(1877年)で天皇に背いた“賊軍”の西郷隆盛捕虜となって病死した兵士、原子爆弾や空襲の民間犠牲者、旧「満洲」など外地で死んだ一般国民などはまつられていません。

 天皇制政府と軍部は、天皇への「忠義」を尽くして戦死し「靖国の英霊」になることを最大の美徳として宣伝。靖国神社を、侵略戦争に国民全体を動員するための精神的な支柱として持ち上げました。

 安倍首相は、「国に殉じた人に尊崇(そんすう)の念を示す」などと繰り返しています。しかし、靖国神社への合祀(ごうし)は、天皇のためにたたかって死んだかどうかにあり、死者を選別することに本質があります。また「英霊」としての合祀は、戦死者や遺族の意思に関わりなく行われます。戦争遂行や侵略戦争美化の“道具”として人の死を利用することは、戦争犠牲者を冒とくするものではないでしょうか。

戦後果たした役割

戦争美化する発信地に

 靖国神社は戦後、信教の自由や政教分離を厳格に定めた日本国憲法のもと、一宗教法人となりました。しかし、“日本の行った戦争は正義の戦争だった”とする特異な戦争観を「国論」とするための策動が、同神社を中心に続きました。「国家護持」や天皇・首相などの「公式参拝」を求める運動などです。

 とりわけ、1986年に同神社の付属施設・遊就館(ゆうしゅうかん)が再開されると、日本の過去の侵略戦争を美化・正当化する「靖国史観」の宣伝センターの役割を強めていきます。

 遊就館は、「近代史の真実」を学ぶパネルや「英霊」の遺書・遺品、当時の兵器を展示している軍事博物館です。いまでも、「先の『大東亜戦争』は、わが国の自存自衛と人種平等による国際秩序の構築を目指すことを目的とした戦いでありました」(3月から靖国神社が開く「遊就館特別展 大東亜戦争七十年展Ⅲ」の案内チラシ)などと公然とのべています

 こうした靖国神社の本質は、小泉純一郎首相(当時)らの度重なる参拝や神社の実態を批判した日本共産党の不破哲三議長(同)の講演(05年5月)をきっかけに広く知られるようになり、国内外のメディア・世論から「軍国主義の過去を再評価しようとする動きの象徴的中心」(米紙)などと厳しい批判が起こりました。

 07年には、遊就館の展示パネルを一部改修。太平洋戦争が「資源に乏しい日本を、禁輸で追い詰めて開戦を強要」したルーズベルト米大統領の陰謀だったかのように描いた「反米」的な部分を削除しましたが、先のチラシのように戦争を賛美する本音は隠しきれません。

 首相の参拝は、日本の過去の侵略戦争を肯定・美化する靖国神社の立場に自らを置くことを意味します。それは、日独伊のファシズムと侵略戦争を断罪した戦後の国際秩序への挑戦とみなされるのです。

戦争指導者を「神」

国際社会への公約違反

 靖国神社は1978年に、東京裁判(極東国際軍事裁判)でA級戦犯とされ処刑された東条英機元首相ら14人を合祀しています。

 A級戦犯とは、東京裁判で、侵略戦争を計画・準備・開始・遂行した「平和に対する罪」(a)、占領地での殺人や捕虜への虐待などの「戦争犯罪」(b)、「人道に対する罪」(c)などすべての罪で裁かれた犯罪人です。一般将兵がbとcの罪に問われた「BC級戦犯」と区別し、A級戦犯と呼びます。

 安倍首相の祖父、岸信介元首相も東条内閣の商相などを務めたA級戦犯容疑者でした。

 靖国神社は、このアジアと日本の国民に多大な犠牲を強いた戦争指導者を、“神”としてまつっているのです。実際、遊就館には「靖国の神々」のコーナーでA級戦犯の東条元首相らの写真を展示しています。

 A級戦犯合祀の理由について、宮司だった湯澤貞氏は、同神社の崇敬者総代会で「A級戦犯だけ合祀しないのは極東裁判(東京裁判)を認めたことになる」との意見もあり、合祀が決まったと語っています(『正論』05年8月号)。合祀の狙いは、日本の戦争を侵略と断罪した東京裁判を否定する意思を示すためなのです。

 日本は、米国など連合国と結んだサンフランシスコ平和条約(51年調印)で東京裁判を受け入れており、同裁判を否定することは国際社会への公約に反することです。

 A級戦犯合祀が明らかになって以降は、昭和天皇も現天皇も同神社を参拝していません。


会長纏め

共産党赤旗と不破哲三の問題点を一点だけあげるとすれば、『侵略戦争』という連合国視点の解釈であろう。更に言えば、天皇陛下の御親拝中断を合祀と関連付け、東京裁判を受け入れて講和した事実と一つ一つの判決まで受け入れるとする恫喝的暴挙を混同した判断で、恰も日本ならびに靖国神社が同裁判を否定しているかの如く主張している点である。

つまり、所謂A級戦犯等は侵略戦争をしていないが、侵略戦争をした罪で刑死したという究極的冤罪を国内的責任と国民救済に当てた事実を恣意的に解釈し象徴の御親拝中断と結び付けた極めて反日的な印象操作が検索上位にある事自体が大問題なのである。





戦後の特攻と分祀論

2021-07-05 22:14:00 | 靖国





震洋隊は小型ボートに爆弾を搭載し敵艦に体当たりするという攻撃だ。主に上陸時の輸送船から上陸用の舟艇に乗り込む時を狙って突撃し、上陸阻止を目的としている。
特攻隊としてはあまり知られていないが部隊は北は北海道、南は台湾、ボルネオ島に至るまで配属されている。


したがって沖縄戦や本土決戦直前の終戦直前辺りの最終兵器的役割で太平洋側に秘密基地として格納用の洞穴が本土各地に点在している。

高知県香南市住吉海岸にも震洋の特攻基地があるが、そこには大きな慰霊碑がある。




昭和20年8月16日出撃準備命令が下され準備中に111名が亡くなるという悲惨な事故が起きている。
前日の15日に玉音放送が流れたとはいえ、戦闘停止命令が出なければ、戦闘態勢をとれるよう待機警戒していたことは当然である。

15日に大本営海軍軍令部総長が停戦命令を発していたようだが、敵が来攻してきた場合自衛のために応戦することは許容範囲であったのだ。したがって日本軍が一切の戦闘行為を停止させたのは8月22日となる。

このような16日の状況で「土佐沖ニ敵艦ミユ」との情報が入り、第23突撃隊本部が配下の震洋隊に出撃準備命令を出したことは当然正当な命令となる。

更に発令したのは、出撃命令ではなく、「第一警戒配備トナセ」という出撃準備命令であり、終戦後の不法な命令はこれにあたらない。

爆発事故の原因については、震洋艇の1隻からガソリンが漏れていて、それに引火したとされている。

フィリピンのコレヒドール島に派遣されていた第7震洋隊でも90名が死亡する爆発事故が起きていることからも、如何に戦果を二の次とするギリギリのところで戦わざるを得なかったことが伺える。

戦後の左翼的戦争否定の観点から終戦後にも関わらず特攻命令を出し無用な事故で大惨事となった。という理解は現在ではその被害性を強調して靖国神社に向けられる。






当時震洋の艇隊長であった岩井忠隈氏の証言がYouTubeにアップされている。

岩井氏は後半百田尚樹の永遠のゼロを取り上げて特攻賛美であり得ない、とても危険な話と痛烈に批判し、自身の体験から罪人まで区別無しに靖国神社の祭神となっていることに釈然とせず、神として拝むことが出来ないと胸の内を明かしている。

また天皇の為に死すことを忠臣とすることを思想の歪みと捉え靖国を釈然としない施設であるとしている。

A級戦犯を祀ることで外国から不信を買うのは当然とし、歴史修正主義を歴史を偽ることとして批判している。

また慰安婦に関しても戦地に赴くことを逃げようがないから強制連行であるとし、南京事件も連隊長の捕虜虐殺の話から憶測して、抹消的な数の問題でなく実際に有ったと断言している。

つまり、政治が歴史を歪めているのであって、自分達が戦後築き上げた外国からの信用を政治がぶち壊しているとの政権批判が岩井氏の思想の核にあるのだろう。

これだけ3時間以上も饒舌に語る95歳がいることに驚かされる。存命なら100歳である。

大学に関連し書籍も書いている岩井氏は歴史の証言者と歴史家を併せ持った人物だろう。彼が反戦を称えるのは許容するとしても、学徒出陣世代はその自身の戦争体験を被害と捉える。

したがって靖国神社を慰霊施設以上の顕彰施設として捉えがちとなる。戦争を否定的に捉えるあまり英霊を戦争被害者として分け隔ててしまうのである。

具体的に例を挙げれば、南方で戦死したのではなく、戦わず餓死した者達は明らかに国や軍の被害者であり、それを英霊などと神として祀ることは単にその責任逃れとしか思えないとする考えだ。

これが現在の靖国神社の直面する分祀論の根幹だろう。自分達の戦争被害をぶつける先が靖国神社になってしまっているのだ。

このように分祀論は戦争体験者の多くに見られ分祀を不可能とする靖国神社と対立している。
冒頭、戦後の震洋の大事故で亡くなった111名は戦闘で倒れた訳でなく、被害者的側面が大きいが、だからといって靖国に祀られない理由にはならないだろう。

つまり、靖国神社の合祀の基準が戦後変化していると言えるのだ。本来、戦前戦中の合祀基準は厳格であり、軍人に限定され、病死者は含まれない。更にA級戦犯と言われる指導的立場の人間は祀る側の立場であった。

戦後これらの基準が緩和して、対馬丸の児童、真岡郵便局の女性職員等の民間人も対象となり、鎮霊社には白虎隊や西郷隆盛、敵国兵士まで祀られている。つまり、所謂A級戦犯を合祀することが戦後の靖国神社の本質の変化を意味しているのである。

したがって靖国神社は岩井氏の考えるような当時の靖国とは変化していて、忠臣が神聖化される場から不戦の誓いと慰霊する場へと時を経て変質したと言えるのだろう。


西村宮内庁長官と統帥権の干犯

2021-07-01 15:44:00 | 時事


統帥権の干犯とは?以下にコピペするが、簡単に言えば、天皇陛下の大権を犯すことである。

1930年(昭和5)ロンドン海軍軍縮条約の政府回訓決定の是非をめぐっておこった憲法論争。
明治憲法は、国務と統帥の一元化を究極的には天皇によって実現すべきことを規定していたが、天皇自身は立憲君主の分限を厳守し権力の統合者になろうとはしなかったため、国務機関(政府)と統帥機関(軍部)の権限をめぐる争いは熾烈を極めた。条約批准にあたり、条約反対派は、政府が海軍軍令部の承認を得ずに兵力量を決定することは統帥権の独立を犯すものであると政府を批判し、他方政府側は、兵力量の決定権は政府側にあるから統帥権干犯ではないと応戦、両者の主張は平行線となった。浜口雄幸(おさち)首相は条約反対派の加藤寛治(ひろはる)軍令部長、末次信正(すえつぐのぶまさ)同次長を更迭することにより事態を収拾、条約批准を終えたが、このことが軍部、民間右翼に与えた影響は大きく、後の浜口首相狙撃(そげき)事件、若槻(わかつき)礼次郎男爵・小山松吉法相暗殺未遂事件などの遠因となった。

軍隊を指揮監督する最高の権限を統帥権と言う。干犯は干渉し、権利を犯すことであり、統帥権の干犯は天皇の大権を犯すことである。

つまり西村宮内庁長官は天皇陛下が『東京オリパラによるコロナの感染拡大を懸念していると
拝察される』とし、勝手に陛下のお気持ちを政治利用したのだ。

宮内庁長官如きが自分の思い込みで勝手に解釈することは最高の権限を犯したのであり、何ら統帥権の干犯と変わらないのである。