「治りたい人だけ治ればいい」
ということは最初から言っていた。
今は姿の見えなくなったベムが鬱で休職して時間を持て余し花風社を総攻撃していた頃からね。
ベムはアタマが悪いのか鬱で脳汁が乱れ認知が狭まっていたのか
花風社にも支持者がいる、というのがどうしても飲み込めないようだった。
私は何度も何度も忠告してあげた。
私にも支持者はいるよ、と。
でもその当時の花風社支持者の皆さんは、イマイチ勇気に欠けていた。
まあベムたちの攻撃がき●がいじみてして怖かったというのもあるだろうけど、すくみあがっていた。私を支持しながらそれを表立って言えない人が多かった。
実を言えば今でも私は当時勇気を出せなかった人たちを、勇気を出した人たちほどは信頼していない。
私は「療育の仕方を選ぶ権利は各家庭にある」という当たり前のことを指摘しただけ。
それだけでも糾弾の対象になった。
「みんなちがって みんないい」にしてくれと涙目で世間に訴える人たちが、発達障害の内側コミュニティでは一律の考えを押し付けるのだった。
私は一貫して「治そうよ」と言い、「治る人から治ればいい」「治りたい人から治ればいい」と言ってきた。
それを見ているのに、治りたくない人たちがなぜ「自分たちも治せと言われている」と押し付けられ感を感じているのは長年の謎だった。
私は治りたくない人たちに何度も何度も忠告していた。
安心したまへ。きみたちの子は治らない。
と。
治りたくないのなら、そしてギョーカイに無自覚に身を委ねているのなら、治らないですむよ。
そう慰めてあげていた。
なのに「自分たちも治せと言われている」と被害者意識を持つのは、結局同調圧力を脳内でこしらえているからですね。
同じ診断名を持った人は一律なやり方を選ばなきゃいけない、という信念を持っているからですね。
つまり本当の意味で「みんなちがって みんないい」を信じてはいないのです。世間にそれを訴えるのはただのご都合主義。
もし本当に「みんなちがって みんないい」を信じているのによそのうちが自分とこと違うやり方をしているのに心乱されるのなら
それはただのひがみ根性か
あるいは心の奥底に「治りたい」という気持ちがあるか、どっちかでしょうね。あ、どっちもか。
私が幸せだったのは、数々の幸運が重なって、私の年代のしかも女性としては同調圧力に屈しなくていい環境を手に入れられたことです。
っていうか、同調圧力に屈しなくても生きていける、という体験を若い頃から積んできたと言えるかもしれません。すなわち幸運は環境と個体のマリアージュだった。
だから素直に
治ればいいな、と思ったし、数々のギョーカイのイデオロギーに基づく決まり文句にウソがあると気づいたし、治りたい人に情報を提供したいと思ってきました。
そして去年になって初めて、同調圧力に屈しなくても愛情や食い扶持に事欠くことがなかった自分の環境の幸運に気づいたので
ドライブがかかったわけです。
この幸運を独り占めしない人生を送ろうと。
治りたい人の役に立てようと。
それが帰結したのが「発達障害、治るが勝ち!」なわけです。
そして最近の支持者は私のことを大っぴらに応援してくださるわけですが
それは別に人が変わったわけではなく
読者にも自信がついたということだと思いますよ。
だって身をもって知ったからね。治るって。
言葉以前のアプローチなら犬の曲芸と違って治るって。
自分たちで確かめたから、大っぴらに応援してくれるようになったのです。
だから花風社クラスタが集うのは強制ではなく
イデオロギーでもなく
実利に基づく自由な思いからなのです。
私の人格が慕われてるのではないのです。
「花風社の本は治る方法が書いてある!」という実益があるから皆さんは大っぴらに応援してくださるようになったのです。
ギョーカイ離れするのは、ギョーカイが治さず治す気もなくおまけに治せないことを言い訳するために次々と負け惜しみの決まり文句を押し付けるからです。「社会の理解ガー」とか。
「発達障害、治るが勝ち!」
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