みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

二つの目、二つのことば

2017年08月04日 | 創世記

ヨハネの福音書 9章1−12節

 きのうから、ライプツィヒという町に来ています。年に一度ヨーロッパ各地の日本語教会、集会の集いが開かれています。今年はルター宗教改革500年という記念の年なので、ここが会場として選ばれました。日本からも大勢の方が参加しました。一年ぶりで会う方がほとんどなのですが、ついこの前あったような錯覚がします。

 「イエスは…生まれつきの盲人を見られた」と1節にあります。イエスはどのようなまなざしを、生まれつき目の見えない人に注がれたのでしょうか。また、弟子たちはどのような視線をこの人に向けたのでしょうか。目が不自由なこの人も、自分がどのように見られているのかをどこかで感じ取ることがあるのかもしれません。

 この後の弟子たちのことば、そしてイエスの答えは、それぞれのまなざしがどのようなものかを語っているのではないだろうか、と考えました。弟子たちの問いかけをきょうのみことばの光は、「冷たく残酷な質問」だと書いています。なにか、この人を実験台にするかのように響きます。

 しかし、イエスの答えは違います。彼の不幸の原因を詮索することをなさらずに、「神のわざがこの人に現われるため」だとお語りになるのです。これこそ「前向きのことば」ですね。イエスは弟子たちとのやりとりの中で、「わたしが世にいる間、わたしは世の光です」とおっしゃいました。もしもこれを目の見えない人が聞いていたとしたら(可能性大です)、この人は大きな励ましを得たのではないでしょうか。そしてイエスは、この人の目を見えるようになさいました。

 「そこで、彼は行って、洗った。すると見えるようになって、帰って行った」とは、飾り気一つないことばです。だからこそ、この人の目が見えるようになったという事実を際立たせているようです。


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