絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

麓原会春季展をふりかえって

2013-03-19 | 画家の独り事
今回の麓原会春季展をふりかえって、思うことを書いてみたい。

私は、「父と私」というデッサンを出品した。
実は、気にしていたことがある。

それは、二点じゃないかということだ。

みんなが1点なのに、二点出していいのかという問題。規定では、一人1メートル以内ということになっている。だから一つの作品として一つの額に入れれば良いだろうという言い訳を用意していた。
また、組作品と言うものがある。これは、題名からして父と私なので、二枚ないと成立しない。だから、良いのだと自分で判断した。
額は組作品として成立するように、一つのマットに二つの窓を空けてもらった。

しかし、これを発展させていくと、額の中をどのように構成するにしても、全体で一つと考えたら、それでよいのではないかと思った。別々の作品を並べたということではなく、並べ方も含めた構成であるから、それで一つの作品である。

そう考えたら、この画面の中に、今度は4つ並べてみようかと思った。
春夏秋冬、東西南北など、4つ並べると一つになるテーマがある。
仏教の四天王などもそれにあたる。
10枚並べて、釈迦十大弟子というのもあるなあと。

私がデッサンを麓原会春季展や夏季展に出品したのは、今回が初めてのような気がする。
他の人もデッサンを出品することがあるが、中にはデッサンがあるのもいいなあと思う。

見学者の中で、そのように感想を言っている人がいた。

ーーーーーーーーーーー
今回の私のデッサンを見て、多くの方が私に向かって、ニコニコしながら近づいてきてくれた。似てますねえ。そっくりですね。お父さんも実物以上に本物みたいですね。と言われた。中には、お父さんが喜んだでしょうと言ってくれた人もいた。

単なる似ている程度では、そういう反応にはならない。
良く似ていると、似ていますねと言って感心してくれるが、ここまで似ていると笑ってしまうという人が多かった。
最初に笑ったのは、父本人である。


私のデッサンの前で、立ち止まって、近寄って覗き込んでいる人がたくさんいた。
実は、出品する前に、そうなるかなと予想した。ねらいが的中である。
今回の展覧会の話題作というものを提供しようというつもりがあった。

ただ、次を期待されると困るなあと思う。










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本当の日展

2012-02-05 | 画家の独り事
日展と聞くと、日本で一番すごい画家たちの展覧会という気がしますが、
どうも、現実はそうではないようです。

日展に出さないすごい画家たちがたくさんいて、日展に対抗するかのように、すごい展覧会を開いています。

例えば、独立美術展というものがあります。国画会というのもあります。
現代美術系の人たちは、そういう展覧会に出すようです。

だから、私は、できることなら、それらのすべての人たちが出品する本当の日本一を競う展覧会があればいいなあと思います。いわゆる「本当の日展」です。

実は、埼玉県展は、そうなっています。伝統的な具象絵画でも、現代的な抽象絵画でも出品されます。日展系と言われる公募団体も現代絵画の団体の画家も参加してきます。
本当の県の一番を決める県展が行われているのです。

日展も埼玉県展を見習って、具象絵画に限らず、現代的な絵画を受け入れて、総合的な展覧会になったらよいと思います。

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弘法筆を選ばずと言うが、

2010-07-15 | 画家の独り事
弘法筆を選ばずというが、それを信じ過ぎてはいけないと思う。

やはり、使いやすい道具を求めるべきだろう。

絵を描いていて、私は見えている、そしてどう描けば良いかも分かっている。
しかし、それを表す道具がない。あるにはあるが不十分である。

それで、それを表現できる道具を探そうと思っている。
今、求めているのは、細い筆である。しかも硬めのもので、できれば鉛筆くらい細い表現ができる物がいい。面相筆では、へなへなで駄目だ。硬くとがっていて、しかも先だけ柔らかく、筆先のコントロールがきく物がいい。

極端な例を引くのが好きな私は、「ナタで髭は剃れない」などと言ってしまう。
「大型のドライバーで、小さいねじは回せない」そんな感じだ。

見えていて、描ける力もあるが、道具がないのは、なんとももどかしい。
「弘法筆を選ばず」は、意味は分かる。しかし、その言葉を頭に置き過ぎた気がする。
もっと、使いやすい道具を求めるべきだった。

独り言でした。



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制作2

2010-02-16 | 画家の独り事
麓原会の講演会で、O先生は、同じ構図では二度と描かないと言われました。

すごいなあと思いました。

それは、この構図ならこれがベストと思える状態まで持っていけるからだろうと思います。

私などは同じ構図でも、もっとこういう方がいいかなとか、いろいろ思うことが出てくるので、何枚か描かないとその構図でのベストまで持っていけません。

また、どれがベストかわからないで、こういうのも良いと思うし、こういうのもあり得るなどといろいろな変化が思いついてしまいます。要するに、答えは一つじゃないということです。

駄目なのもたくさんあるし、正解もたくさんあるように思うのです。

昨夜の10号も4号と6号で描いた田んぼの絵です。大きさを変えてやってみました。
4号は水彩で、6号はアクリルで、10号はまた水彩でした。
比べてみると、それぞれ違いがあります。

気持ちの中では、同じ構図なので同じ絵を少し変化させて描くというつもりですが、描いていると、その都度違った気持ちが湧いてきます。絵を描くということが、絵と会話している気がします。ここをこうするなら、他の部分はこうなるというような、関係が出て来ます。

ここがこうなるなら、こちらはこうだなとか。その変化は場合分けをするなら、無限にあるんじゃないかなと思います。だから、同じ構図でも答えは無限のように思うのです。

ーーーー
麓原会に、風景を描かせたら日本一上手いと思われるM先生がいました。
その先生の描いている筆さばきは、とにかく気がきいていてかっこいいです。
しかし、その筆さばきをもう一度やってみてくださいと言えば、全く同じには二度とできないでしょう。似たようなものはいくらでも描けて、しかも常に気がきいていてかっこいい筆さばきになりますが、寸分狂わず同じものというのは作れないのです。

それを考えると、同じ構図でも描くたびに違ってくる。だから、答えが無限にあると思うのです。



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私の制作

2009-10-30 | 画家の独り事
画家であることを考えながら、書いてみたが、言い足りていないことに気づいて、更に書きたくなった。

先ほどの話では、私は一年間筆を持たなかったように誤解されかねないと思ったからだ。

私は、日頃から絵を描いている。私の制作は、いろいろな段階がある。
もし、完成が10だとするなら、1の段階、2の段階~5の段階、6の段階~8の段階などと、進み具合の違う作品が常に何枚も積み上げてある。
だから、一枚が終わったらつぎの制作になるわけではない。いつも他の作品と並行して進められていく。

時には、気が乗って来ると、一晩で30枚も手を加えることがある。それは、そのそれぞれを進めるのである。制作は、数字のようにスムーズに上に上がるとは限らない。場合によると逆戻りすることもある。

そんな感じで進められる。そして、ほぼ8の段階くらいになると、額に入れてみようかなと思ったりする。額に入れてみると、それまで気付かなかったことに気づく。そうすると、最後の仕上げが見えてくる。

私は、幸いなかまちというレストランに絵を飾らせて頂いているので、8の段階以上になったら、その額に入れてしばらく眺めることにしている。お店に飾って、他の自分の絵と比べるのである。そうすると、今回の絵がそれまでの自分の絵と比べてどうであるのかがわかる。

要するに、過去の自分と勝負をしているのである。

少しでも、勝っていたら嬉しいと思って、持って行く。

また、そんな制作の途中で、デッサン会の人たちのデッサンを直してやったり、自分のクロッキーを描いたり、絵の制作で初心者には手直しをしてやったりしている。また、構図の研究は、その人たちに指導しながら、それが自分の勉強にもなっている。

大きい作品は、結構構図の研究などで時間をかけるので、かなりの時間を要するが、最近は、県展のために一点、秋の展覧会のために一点仕上げることが多くなった。しかし、場合によると、一つの展覧会のために3点描こうと思って始めることがある。そして、大抵は1点仕上げるのがやっとである。

そんな感じで描いているのが、私の制作である。でも、たくさん描いている人から見たら、まだまだ日曜画家程度だ。




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