スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

宇都宮ワンダーランドカップ&自己

2017-05-16 19:05:13 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された宇都宮記念の決勝。並びは武田‐神山‐牛山の茨城栃木,山田‐稲川‐北野の近畿中部,北津留‐園田の福岡で渡辺は単騎。
 稲川がスタートを取って山田の前受け。4番手に武田,7番手に北津留,最後尾に渡辺という周回に。残り2周のホームに入る手前から北津留が上昇開始。ホームで山田を抑えました。このラインに続いていた武田はバックまで山田の外で牽制。打鐘の少し前に北津留をゆっくりと叩き,誘導も追い抜いて先行態勢に。ですが山田がすぐさま外から巻き返していったために,ホームの入口では先行争い。これを山田が叩いて武田は稲川の内で粘ることになりました。この競りに決着がつかないままバック。引いていた北津留が満を持して発進すると短くなっていた隊列をあっさりと捲り切り,マークの園田と抜け出しました。直線では園田も迫りましたが北津留が粘りきって優勝。マークの園田が半車身差の2着で福岡のワンツー。最後尾だった渡辺もこのラインを追うような形で3車身差の3着。
 優勝した福岡の北津留翼選手は立川記念以来となる記念競輪5勝目。宇都宮記念は初優勝。このレースは茨城栃木勢が人気になっていましたが,最近の武田は自力ではあまり結果が出ていないこと,また山田にも先行意欲がありそうなことから,福岡両者の方が有利ではないかと見立てていました。武田のイン粘りは予想外でしたが,展開上は致し方ないところ。そのために僕が想定していた以上のいい展開となったため,福岡勢だけで抜け出すことになったものと思います。北津留はイン捲りのようなレースで好走することが多くなっていましたから,絶好の展開とはいえ外を捲っての快勝というのは今後に向けて収穫だったのではないでしょうか。

 人間の精神mens humanaが第三種の認識cognitio tertii generisによって認識できる個物res singularisが,自分の精神だけに限定されるわけではないことは,第五部定理二五からなお明らかだといえます。この定理Propositioではものを第三種の認識によって認識するcognoscereことが精神の最高の徳summaque virtusであるとされています。このとき,ものといわれているのが自分の精神だけに限定され得ないことは明白です。さらにそれが精神の最高の徳といわれ得るのは,現に人間の精神が第三種の認識によってものを認識することができるからにほかならないからです。
                                     
 よって,第二部定理二四の意味から,人間の精神が個物を第三種の認識で認識することは,単に人間の精神による個物の認識であるというよりは,神Deumの認識です。なので現実的に存在する思惟の属性Cogitationis attributumの個物である自分の精神を第三種の認識で認識するということは,人間の精神による自己の認識ではなく神の認識であるということになります。すでにこの様式でのみ人間の精神は自分の精神を十全に認識することが可能であるということは明らかになっています。よって人間の精神による自己認識は,十全な認識であることができないと僕は解します。他面からいえば,人間の精神が自分の精神について十全に認識するときには,実際には自分の精神について何かを認識しているのではなくて,神について十全に認識しているのだと僕は解します。
 一方,現実的に存在する人間が,自分の身体corpusや自分の精神について,それらが現実的に存在するものと認識することはあります。というか,そのような認識は人間が現実的に存在している以上は,必然的にnecessario生じなければならないといえます。ですがこの認識というのはすでにみたように十全な認識ではなく,表象imaginatioです。そしてこれについては僕は人間の精神による自己認識であると解します。つまり人間の精神による自己認識として発生する観念ideaは表象像imagoであると解します。したがって,人間による自己認識は,すべて混乱したものであるというのが僕の結論になります。つまり,自己原因causa suiといわれるときの自己は,僕たちが一般的に認識しているような自己とは,単に語句として一致しているだけであり,実情には相当の差異があると考えます。
コメント
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