スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑦-5&第一部定理三二系二

2014-07-15 19:08:19 | ポカと妙手etc
 ⑦-4の第3図から,先手は☗2六角と打ちました。
                         
 ここから☖3九王☗1七角☖4八王☗2六角☖3九王☗1七角☖4八王と進んで第2図。
                         
 将棋のルールは不変と思われがちですが,細部は変化しています。千日手はそのひとつ。僕の将棋キャリアが始まったとき,千日手は同一手順が3回繰り返されると成立でした。それが今は同一局面が4度出現すると成立に変わっています。同一手順によって同一局面が出現するとは限りませんから,現行ルールの方が合理的で,この改正を僕は高く評価しています。この将棋が指されたのは1993年で,当時はどちらのルールであったか僕には定かではありません。
 ただ,王手の連続で千日手が成立すると,攻撃側の反則負けになるのは,旧ルールでも新ルールでも同じ。上述の手順はそれに該当するので,王手をしている先手から手を変える必要があります。このように進んだのは4の第2図以降,☗4六銀と打たずに☗3七同香と取ったためですが,その手順はこの千日手ルールによって後手が逃れていたということになります。
 それを含みに逃れることはあると思うのですが,実際に手順が盤上に表現されたのは珍しいケースといえます。これもこの将棋が印象に残った理由のひとつになっています。

 第一部定理三二系二という,系Corollariumとその証明Demonstratioあるいは説明が一体化したような長文が『エチカ』にはあります。
 「第二に,意志および知性が神の本性に対する関係は,運動および静止,または一般的に言えば,一定の仕方で存在し作用するように神から決定されなければならぬすべての自然物(定理二九により)が神に対する関係と同様であるということになる」。
 ここまでがこの系の主旨といえます。第一部定理二九は,自然のうちに存在するすべては必然の第二のタイプにおいて必然的necessariusであるということを示します。つまりここでは知性intellectusも意志voluntasもそうしたものとして解されなければならないと主張されていることになります。第一部定理三二は意志が自由liberaなものではなく,第二と第三のタイプで必然的であることを示し,第一部定理三二系一は意志が神の本性essentiaには属さないことを示していて,それを受けてこの系が示されているというのが,配置の意図からみた読解になります。
 上述の主旨の後の長文の説明の中に,次のようなものがあります。
 「与えられた意志あるいは知性から無限に多くのものが生起するとしても,神はそのために意志の自由によって働くと言われえないことは,運動および静止から生起するもののために(というのはこれからもまた無限に多くのものが生起する)神は運動および静止の自由によって働くと言われえないのと同様である」。
 これでみれば少なくともスピノザが,延長の属性Extensionis attributumの直接無限様態である運動motusと静止quiesから,無限に多くのinfinitaものが生起すると考えていたことが窺えます。そしてこの無限に多くのものは,当然ながら延長の属性の有限様態すなわち個物res singularisである物体corpusと考えて間違いないでしょう。もちろんこのこと自体は,系の主旨から鑑みて,スピノザがここで主張したかったこととは無関係であるといわなければなりません。でも,運動と静止が与えられれば,そこからは無限に多くの物体が生起することをスピノザが認めていたということだけは,確かだと思われます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする