サラの苑 院代崇正のブログ

熊本県ペットのお寺“沙羅の苑”。現在、沙羅の苑の院代を勤めている 蔵本崇正のプライベート日記を公開しています。

愛をもって

2007-05-26 12:23:36 | 崇正の独り言
人や物、山川草木におけるまで仏性、つまり仏様であると仏教は考えます。

仏様とは慈悲であります。わかりやすく言えば愛。ただし、無条件の愛であると

思います。

だから私たちは、たくさんの慈悲、愛の中で生かされているのだと思います。

そのことが最近、とても大切なことなんだと思います。

今朝のお勤めの中で、仏様を見ていると本当に無量の愛に包まれているのを

感じました。その中に包まれていく心地よさを感じました。

世の中、いろんな心があります。

相手を愛する心。憎む心。相手を思いやる心。悪く思う心。

数え切れないほどの心が起こっています。

でも、本当は、よく見てみるとたくさんの愛で包まれているとは思いませんか?

私は最近ものすごく感じます。

私も腹を立てたりもします。でも、愛に包まれていることが素晴らしいなあと

その心もおさまります。

マザーテレサは、愛の反対は?とおっしゃいました。

皆さま何かわかりますか?住職のブログを見られた方はおわかりですか。

無関心

とおっしゃいました。

私は、この言葉を結婚式のとき師匠より教えていただきました。

本当にそうだと思いました。

無関心と言う罪は重い。

愛の反対であるから。

今の様々な事件等はこの無関心から来るものではないですか?

親・友達・動物・仕事・年金・国・命・・・

あげればきりがない。全部無関心なんです。

私たちは、本蔵院・菩提樹苑・沙羅の苑という三つをお預かりしている立場でございます。

仕事と言う表現をとれば語弊がありますが、ただ無関心に過ごし、お預かりすると言うこと

がどれだけ罪深いことかと言うことを考えさせられます。

ある意味で言えば、無関心ほど楽なものはありません。

関係のないことだから。

私は、職場でも失敗を責めません。ただ、無関心に放置したことに対しては

とても厳しく処置します。これは、愛の慈悲の反対なんです。

私は、愛をもって何事も行っていくと言うことがどれだけ尊いことであるかと言うことを

大切にしたいです。

この世の中は愛に包まれています。

そう感じませんか?

私の最近の反省より、このように感じました。

知らぬ間にいろんな人を傷つけていたり、苦しめていたりするかもしれません。

仏の慈悲に包まれているにもかかわらず、なんと申し訳ないことか。

懺悔いたします。

仏の慈悲に包まれているからこそ、反省もできるし懺悔もできます。

お寺とはそういう場所ですね。

仏の慈悲を感じ、反省し懺悔し、新しく生まれ変わりまた世に出て行くと。

人間にはそういう場所必要ではないでしょうか?

博士の愛した数式

2007-05-19 23:13:28 | 崇正の独り言
今日テレビでやってました。

二回目だったですが、やっぱり素晴らしかった。

「永遠の真実は、眼に見えない」

まさに。

眼に見えないことが見える人間本来の力を甦らせること。

でも、あんな人格になりたいなー。

真実をいろんな表現で表してくれる。

いやーまだまだだな。

もっと敏感な感覚を持ちたい。


天下一品

2007-05-18 22:33:33 | 崇正の独り言
今日は、待ちに待った私の大好きなラーメン屋の開店の日でした。

その名は「天下一品」!!

関西の方はよくご存知かと思いますが、それが何と今日熊本に

オープンしたんです。

今日は遅くまで打ち合わせが続いてちょと心配だったけど間に合いました。

限定800食!!

着いたときには行列で、残り100食になってました。

行く途中なぜか緊張してきて・・・。

まっそれだけ楽しみに待っていたわけです。

まさか熊本で食べれるとは思っていなかったので、

ほんまにうれしかってんーー!!

ってくらい好きです。

大盛りがなかったので、並を二杯も食べてしまいました。

皆さんも是非行ってくださいね。

盛り上げないとなくなってしまったら、嫌ですからね。

あーーもう食べたい。

老人ホームへ

2007-05-10 18:15:22 | 崇正の独り言
今日は、住職が京都へ出張ということで、私は大忙しでした。

今日は、ある大きな老人ホームに月例のお参りに行かせていただきました。

本蔵院とは縁が深く、私の祖祖父の代からのご縁だそうです。

もう私で四代目です。職員の方々もすごく温かい方ばかりで明るいホームです。

毎月、そこでお亡くなりになった方々のご供養に参らせていただいていまして、

過去帖に記帳するのですが、前のページをめくると、先代の字が残っているわけです。

それに私はとても感動しました。

お勤めが終わると、皆さまの前でお話をさせていただくのですが、聞いていらっしゃる方は

80歳から90歳くらいのとても高齢な方ばかりでした。

正直私は、「私の言葉で何が伝えられるのだろう」と戸惑いました。

何も勉強していない私に、人生の厳しさをすべてご存知の方々に私が何をできるか。

結局、自己紹介とこれからもよろしくお願いいたしますと深々と頭を下げ部屋に

もどりました。

そこで理事の方とお話をさせていただきました。

「勉強だと思ってしっかり勤めてください。」とのお言葉をいただきました。

本当にその通りだとお思いました。

あのご高齢の方々に何ができるか。何もできないんですよ、きっと。

でも、衣も着ている以上はその風貌、所作が私そのものだと思います。

言葉ではなく、僧侶と言う自覚と謙虚さ、それが必要ではないかと思いました。

「信は荘厳から」と言う言葉があるように、信仰心と言うのは荘厳された世界において

成り立つのだと。私の仕事はその世界を作り出すことではないか。

身だしなみ、合掌の姿、衣より香るほのかな香の香り、経の声、すべてから

荘厳された世界を作り出す。

それが私に求められているように思いました。

今日はご高齢にもかかわらず、お参りに来ていただきありがとうございました。

中には認知症のかたもおられたとお聞きしました。しかし、私にとりましては、

すべてが仏様だったんだと感じました。

どうか、いつまでもお元気で。

また必ずお参りさせていただきます。