(つづき)
福岡県
筑紫野市の「柚須原」バス停。
もともとは西鉄バスの「
狭義の終点」だったが、現在は、ここから6つ下った「吉木」(
YOSHIKI)までが筑紫野バス「みかさ線」として、そして、「吉木」から先の
JR二日市~
西鉄二日市へは西鉄バスの「1-1番」として運行されている(路線としては直通している)。
「筑紫野バス」の区間は、西鉄の
従来のバス停を改造(?)したバス停が使用されている。
筑「
紫」野だから、
紫色なのだと思うが、個人的には、見るたびに、西鉄のバス停が無理やり覆面を被せられて苦しんでいるように見えてしまう…(あくまで個人的な感想です)。
(つづく)
記事中には「狭義の終点」とありましたが、古い道路地図にはこの「油須原」バス停は記載されておらず、少し上がったところに「三郡登山口」バス停があります。
さらにそこからは米ノ山峠を越えて、途中から現在の飯塚市コミュニティバス「筑穂地区米ノ山線」のルートを辿って大分坑に至る点線が引かれています。いつ頃までこの峠越えの区間は存在していたのでしょうか?
>わたくし、忍者コスプレに見えますw
たしかに言われてみれば。
後ろに刀を背負わせたら、さらにそれらしくなりそうですね。
山間部の一部区間だけにあって、「忍んでいる」ような感じもありますし。
晃太郎さん、こんにちは。
>「油須原」
>「三郡登山口」バス停
私の記憶もあいまいなので申し訳ないのですが、二日市方面からはもともと「本導寺」までしか行ってなかった気がします。
そして、「三郡登山口」は、二日市からではなく、飯塚からのバスの終点だったと思います。
さらに昔は二日市~米の山峠~飯塚を直通するバスがあったのか、そして、いつ頃まで峠を越えていたのか…などはわかりません。
ごめんなさい。
つまり、筑紫野市の両翼は、平等寺と本導寺という2つの寺のバス停によって閉じられていたわけです。
その頃は、その場所に小学校もありました。それぞれ平等寺小学校と、竜岩小学校です。どちらも分校のような存在で、それぞれその少し下に、山口小学校と吉木小学校という本校があります。ちょうど両手を横に広げた時の肘に相当するところが、山口と吉木ですね。分校はどちらもなくなりましたが、本校のほうはどちらも健在だと思いますが。
いつの間にか本導寺から少し伸びて油須原まで行くようになりました。握っていた指を1本伸ばしたという感じでしょうか。
でももっと前は、本導寺までも行っていなくて、吉木が終点だったと思います。また、西側も平等寺まで行っていなくて、堂仲が終点だったように記憶します。この辺りは少し曖昧です。
三郡登山口は、「福岡」でなく、「筑豊自動車事務所」に所属するバス停です。すなわち飯塚から走ってくるバスの終点でした。
米の山を越える定期バスは私の記憶する限り存在しませんが、正月に限って、筑豊地区から太宰府への初詣で客を狙った臨時バスが米の山経由で走っていました。これはかなり後まで、たぶん昭和の終わり頃までは走っていたのではないでしょうか。八木山バイパスがまだ完成していない頃ですから、太宰府へは米の山経由が最も近いのです。
教えていただいてありがとうございます。
もともとは、平等寺から先、基山町の小松のほうにバス路線がつながっていたのでは?などと勝手に考えていたこともあったのですが、そうではないようですね。
米の山峠を含む県道も近年は整備が進み走りやすくなっているので、飯塚から太宰府、五条地区への通学路線とか…、難しいですかね。