人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

主一、全一の祈り

2022-02-20 10:55:29 | 祈りと瞑想
長年、神を求めているのに、中々神が生きているという実感というか、神の臨在といったものが感じられない、という向きもおられるかもしれません。
私は本当に神そのものを求めているならば、神の方からこちらに迫り、ハタラキかけて下さらないことはないのではないか?、といつも感じてならないのです。
そりゃあ、勿論そういうことは、いくらこちらが努力したって、神のみ心次第ってことはありますよ。
しかし、それは逆に言えば、どんなに努力しても及ばないことも、それを超えたみ心によって開かれることはある、ってことじゃありませんか?...ああ、もうダメですi...何がって...イってまうやろi
ええっと...ですから改めて本当に神を求めているのか、その実別のものに取って代わられているのか、自分の本心に尋ねてみてはどうでしょうか?...と、もう、そういうこと自体が神の道を開くことと言っていいのですが...
あなたが求めているのは宗教、教師の説く神の教えなのか、神の道についての技法なのか、色々観念的に考えているだけなのか..."神は愛だ、と信じてる、しかし、神に裁かれたりして恐ろしい...神には正しいものと邪なものがある...神と自分自身は同じなのか、別なのか..."
観念の世界は、このように堂々巡りの繰り返し...挙げ句は心は真っ直ぐにならない、深く、広がって行かず、どんどん分裂してゆくばかりなのです。
本心ったって、何だか分からないかもしれない...だから祈るのですi
ごちゃごちゃと、普通に生きる上で、何の足しにもならない観念を祈りに持ち込むことなど出来ませんi...何十年祈っているつもりで、自分が勝手にハマった固定観念に囚われ続けている御仁も居る...そういう人はそもそも祈る気も、神を求める気もない、ってことでしょう。
ごちゃごちゃ迷い続けるか、祈るかどっちかしかないi
祈る、神を求めることは、考えている自分に見切りがつけられる、ということ...それが思いを超えた神そのものを受け入れる、ということに他なりません。
神そのものとは、あなたの主なる神、あなたを在らしめる神である...神の道を開くことは、本心を開くことと不可離のものです。
神と私は不可離のもの...
何ゆえに、主なる神に真っ直ぐに向き合うものに、神の導き、恩寵がもたらされない理由などあろうか?
何ゆえに、神を恐れ、疑い、二心をもって迷い、心を分裂し続けなければならないのか?
迷いの思いを乗り超えるものは、信愛ではないでしょうか?
神への信愛は、自分自身への信愛でもあることを示されれば、ぐっと遠きものと思われた神は、近しいものに感じられて来ないでしょうか?
心が分裂している状態は、愛というものが分からない、ということです。恐れ、疑いながら愛するなんてことがあるでしょうか?
どこまでも主なる神に意識が向けられる、主こそは私のすべて...
祈りは主一、全一のものとならざるを得ません。
そして、神に信愛を向ければ、自ずとこちらも信愛が向けられていることが感じられてくるでしょう。
神の方がこちらをつなげようとされている...それがみ心のように感じてなりません。
だから、だんだん私に間近なものに、アリアリと臨んで来るのを覚えずにいられないのです。

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