思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「無明」は根源的無知ではない

2014年06月20日 | 仏教

 哲学書などを読むとなるとある程度の言葉を理解するだけの知識を有しなければどうしようもないときもあるのですが、また自分有の理解の中にあったものが別もののように解せる場合があることを知ると、勉強不足を痛感します。

 印度哲学、仏教哲学では無知(無明)と言い、インド哲学では「無知はとは、迷いの根元であり、輪廻生存を引き起こすものである」とか「無知とは、単なる知識の欠如に他ならない。」などと説きます。

 仏教では「無明」という言葉が次のように12因縁説の説の中で使われています。

「無明に縁りて行が生ず。行に縁りて識が生ず。・・・かくの如くにしてこのすべての苦のあつまりが生起す。また無明が残りなく離滅せば、行が滅す。行が滅せば、識が滅す。・・・かくの如くにしてこのすべての苦のあつまりが滅尽す。」

 このように無知(無明)からの状態から始まる縁起の世界、当然に迷いがなくなれば苦は滅することになります。「成りの論理」に固執している仏教における無明が気になります。

 無明から始まり老死に至る道はあまりにも意味を解せず、「無明」を単純なる無知などと理解するよりも、働きのうちにあるものとして理解したほうが個人的にシックリします。

 大正期の仏教学者に木村泰賢という先生がおられて『原始仏教思想論』という書物を書かれています。その中で「無明」を次のように語っています。

 「煩悩の根元は言うまでもなく無明である。然るにその無明なるものは、之を知的に解すれば、要するに無始の無知を指すのであるけれども、之を生命論に関連して考察する時は、寧ろ情意的意義を有するものと見なければならぬ。即ちショーペンハウエルの言葉をかりて言えば生かさんとする面も盲目なる元本的意志を意味すると見るべきが至当であろう。」(同書p135)

 大正末期に無明論争というものがあったことを河出書房の道の手帖『中村元』の仏教学者の津田眞一先生の「中村先生の個性とその仏教学の永遠に反駁を許さぬ存在意義について」という小論に学びました。

 上記の「木村泰賢博士と宇井伯寿博士を後楯とする和辻哲郎博士との間にたたかわされた無明論争」で上記のように「生かさんとする面も盲目なる元本的意志を意味する」(※この部分を「生きんとする盲目的な、しかも元本的意志」と津田先生は記しています)という木村先生に対して和辻先生は無明を「単純な不知の意」と真っ向から反駁した、というのがその論争です。

 中村先生は宇井先生の正系であり和辻先生の語るところを継承することになるのですが、津田の上記の詳論によると中村先生は最後の一歩手前で「無明」の解説に次の言葉を付け加えたというのです。

 「この場合の無明は、知っていてもどうにもならない心の暗黒」(平成6年7月発行になる『中村元選書決定版』第十六巻『原始仏教の思想Ⅱ』p526)

 木村先生はこれをもって中村先生が最後の一歩手前で木村泰賢先生を支持した、というのです。

「心の暗黒」=「無明}

そこに無からの空からの「働き」という形成の性(さが)を個人的に理解します。

 「縁起というもの、----それをわれわれは空と説く、それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。」

というナーガールジュナの哲学詩『中論』の詩句がありますが、中道は中庸という思想にもつながるわけで、「無明」というものは「根元的無知」ではないように思います。


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