思考の部屋

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ハーバード白熱教室・Lecture7 土地略奪に正義はあるか (1)

2010年04月26日 | 哲学

 ハーバード白熱教室4回目が放送されました。かなり人気があるようで深夜再放送がなされていました。

 マイケル・サンデル教授のリバタリアンに対する問題点の指摘、今回はアメリカの建国、政治体制の確立に多大な影響をもたらし、リバタリアンの私的所有権の強固な思想基盤でもある、イギリスの政治哲学者ジョン・ロックの思想を中心に授業は進められました。
 
 NHKの総括説明には次のように書かれています。

第4回 「この土地は誰のもの?」

Lecture7 土地略奪に正義はあるか 哲学者ジョン・ロックは、個人はある一定の権利を持っており、その権利は非常に根源的なものであるため、いかなる政府も取り上げることができないと主張する。生命、自由、財産に関するこうした権利は、そもそも私たちひとりひとりに、「自然権」として政府や法律が作られる前の「自然状態」の中で与えられているというのだ。となれば、アメリカ大陸の先住民の土地を奪い、建国したアメリカの行為はどう考えればいいのだろうか。そこには正義があるのだろうか。議論は沸騰する。

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では、今回は、ここにハーバード白熱教室Lecture7の学生間の論議前のサンデル教授のリバタリアンの考えの根拠になるロックの政治哲学の講義内容について掲出します。

 市場主義者リバタリアンの強力な見方とみているジョン・ロックは、今日のリバタリアンが主張しているように、ある考え方を信じていた。
たとえ第二政府や民主的に選ばれた政府であっても政府が覆せないある種個人の基本的な権利が存在する。というものだ。

それだけではなく、彼はそういった基本的な権利には、生命・自由・財産に対する自然権が含まれていると信じていた。

 更に彼はこう論じている。

 財産権は、単なる政府や法律の創造物ではないと。

 財産を保有する権利は、政治以前の問題であるという意味で自然権である。
それは私たち一人一人が、人間として本来持っている権利であっても、政府が登場する前から、そして議会や立法者が法を制定して権利を定義する前から存在したものなのだ。

 ロックは、自然権を持つということを理解するためには、政府ができる前の状態、法律ができる前の状態を想像してみる必要がある。

 彼はその状態を自然状態と呼んだ。

 彼は自然状態をは、自由な状態だという。

 人間は自由で平等な存在だ。自然状態に階層性は存在しない。王様に生れる人もいれば農奴の生れる人もいる。というのは間違った考え方で、私たちはあくまでも自由で平等なのだ。

 それでも彼は自由であることと好き勝手に行動することは違うと主張した。
なぜなら自然状態であっても、ある種の方が存在するからだ。それは自然法と呼ばれるもので、立法者が制定するようなものではない。

 この自然法があるから私たちは自由であっても行動は制約される。
 ではどんな制約があるのか。自然法により制約される行動とは。私たちの誰もが持っている権利、自然権を自ら手放すこと、または他人から取り上げることだ。
 
 自然法のもとでは私たちは、他の人の生命、自由、財産を取り上げることはできないし、もちろん自分自身の生命・自由・財産をも取り上げることはできない。

 私たちは自由であっても自然法を侵害する自由はない。自分の人生を取り上げる自由も、自分を奴隷として売る自由も、誰かに自分を支配する絶対的力を与える自由もない。

君達から見れば、最低限の制約かもしれないが、なぜこのような制約があるのか、ロックはこうした疑問に対して二つの答えを出している。

 人間はすべて唯一神全知全能なる創造主の作品であり、彼の所有物であって他の誰のためでもなく、彼が喜ぶかぎりおいて生存するように作られている。
 
 つまり我々が、生命、自由、財産の自然権を手放すことができないのは、厳密には自分のものではないからである。
 
 結局我々は、神の創造物である。そして神はより大きな財産権、優先される権利を持っているというわけである。
 
 神を信じないものはこの答えに納得できないかもしれない。彼らにはどう説明すべきだろう。
 
 ロックは、ここで人々の理想に訴えた。

 こういう考え方だ。

 自由であることの意味をよく考えれば、それが望むことをなんでもしていいという意味でないことが自ずとわかってくる。
 
  この言葉を意味するロックの言葉が、

 自然状態にはそれを統治する自然法があり何人もそれに従わなければならない。
 その法である理性は人類にすべての人は平等で独立しており、他人の生命、健康、自由または財産を害するべきではないと教えている。

 これはロックの権利についての説明でも不可解で矛盾することにつながる。ある意味分かりやすいが、奇妙な考え方だ。

 彼は私達の自然権は不可譲なものだという。

 不可譲とはどういうことか。あげたり取引して売ったり、譲ったりできないということだ。例えば航空券は譲渡できない。各種のスポーツチケットもそうだ。

 わたしはそのチケットを自分で使うことはできるが売ることはできないという、限定された意味で所有している。

 だからある意味で不可譲の権利、譲渡できない権利のもとで、私が所有しているものは、完全に私のものではないともいえる。

 しかし不可譲の権利を別の意味で考えると、特に生命、自由、財産の場合には、権利が不可譲なものであればそれだけ深く、完全に私のものになる。

 それがロックのいうところの不可譲だ。

 トーマス・ジェファーソンは、アメリカ独立宣言にロックのこの考え方を生かした。

 アメリカ国民には生命、自由、そして幸福の追求に対する不可譲の権利がある。というものだ。

 不可譲の権利とは、本質的に自分だけのもので、誰にもわたすことのできない権利である。政府が存在する前から私たちが自然状態で、持ち合わせている権利だ。

 私たちは他人の命を取り上げることや奴隷にすることができないように自分の命を奪うことも、自分を奴隷として売ることもできない。
 
 では財産の場合はどうだろう。ロックの理論では、私たちは政府が存在する前から私有財産を保有する権利をもっていたことになる。

 しかし政府がない状態で、私有財産に対する権利などが発生することがあり得るだろうか。

 それに対するロックの答えは27章に出てくる。

 人は誰でも自らの一身に対する所有権を持っている。これについては彼以外の何ものも権利を有しない。彼の身体による労働、手による仕事は正しく彼のものであると言ってよい。

 そしてロックはリバタリアンと同じような論理を展開した。

 私たちは、自分自身を所有しているということは、自分自身の労働も所有していることになる。

 更に彼はこう主張した。

 所有していない者に私達の労働を加えると、それは私たち自身の所有物になる。

 自然が備えておいた状態から、取り出すものは何でも、自分の労働を交えたものであり、彼自身の何かを付け加えたものであるから彼の財産となる。なぜか。

 労働はその労働者の疑いの余地のない財産だから、よって彼以外の誰かが彼の労働が加えられたものに対する権利を持つことはない。

 だがこれには、重要なただし書きがある

 他者のために同じようなものが十分に残されているかぎり。

 私たちは収穫した果実や捕まえた鹿、採った魚に対してだけ所有権を持っているわけではない。

 土地を耕し周りを囲み、ジャガイモを育てるであれば、採れたジャガイモだけでなく、そして大地も所有しているのだ。

 人が耕し植物を育て改善した土地から得られるものを利用するかぎり、その土地は彼の所有物である。彼の労働が加わることでそれは一般とは区別される。

 権利は不可譲という考えは、ロックをリバタリアンから遠ざけるように思える。

 リバタリアンが言いたいのは、私たちには自分自身に対する絶対的な所有権があるから望むことは何でもできるということだが、ロックは、その考え方の完全な見方ではない。

 実際彼は、自然権について真剣に考えれば、私たちが自然権でできることには、制約があると気づくはずだと言っている。

 神あるいは、理性によって与えられる制約だ。自由であるとはどういうことか考えてみれば、権利は不可譲であり、そこには制約があることがわかるはずだと。

 これがロックとリバタリアンの違いだが、ロックの私有財産の説明に焦点を当てると再びリバタリアンのとてもよい味方に見えてくる。
 
 彼は私有財産についてこう考えていた。

 私たちは自分自身の所有者であり、その労働の所有者であり、労働の果実の所有者である。

 自然状態で集めたり、狩をしたりして手に入れたものだけではなく、囲い込み耕して改善した土地の所有者でもある。
 
 労働が加わったことで誰のものでもない何かが、その人の所有物になるという感覚が、道徳的に正当化される例はいくつかある。

 そしてそれは時には論争の的にもなる。

 裕福な国と発展途上国の間では貿易に関連する知的財産権の論争がある。

 最近の例をあげると薬の特許法についての論争だ。西側の国、特にアメリカは、私たちには新薬を開発する大きな製薬業界がある。世界のすべての国に特許を尊重してもらいたい。と言った。

 それから南アフリカでエイズ危機が起きた。アメリカのエイズ薬は余りにも高かったので、アフリカでは、それを買える人はほとんどいなかった。

 そこで南アフリカ政府は言った。「私たちは、アメリカの抗レトルウィルス薬と同じ成分の薬を、それよりずっと安い値段で手に入れるつもりだ。」その薬を作る方法を解明したインドの製薬会社を見つけたからだ。

 特許を尊重しなければはるかに少ない金額で、大勢の人の命を救うことができるのだ。

 するとアメリカ政府は言った。「それはダメだ。研究に投資しこの薬を作り出した会社はどうなる。ライセンス料を払わずに勝手に薬の大量生産をすることは許されない。」そうして論争が起きた。

 その製薬会社は南アフリカ政府を訴え、より安い彼らが海賊版と考えるエイズ薬を南アフリカ政府が買おうとするのを防ごうとした。

 この件は、最終的にはアメリカの製薬会社が折れて、解決することになる。 しかし、この所有権、知的財産権、薬の特許権についての論争は、ある意味自然状態における最後の未開拓分野ともいえるかもしれない。
 
 いまのところ特許権や所有権に関する国家間の一律の法律がないからだ。
 
 国際的な合意により規則が制定されるまでは、その合意の仕方はまちまちということになる。

 政府や法が存在しない状態でも、私有財産権が生ずるというロックの考え方はどうだろうか。
 
 成功しているだろうか、説得力があると思う人は・・・・・

とマイケル・サンデル教授は、ロックの思想と現代アメリカの基礎となっている考え方を説明し、学生達に議論を戦わせます。

 学生の意見の中には、アメリカが抱える、ネイティブアメリカの問題等に関する学生達の意識等の重要な意見が出されますが、出勤時間の制約によりここまでとし、次回にその論争状況を掲出します。

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