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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

智慧・無智・ありのまま・ため息

2011年07月03日 | 仏教

(写真:2011.6.12Eテレ「こころの時代 山折哲雄~共に生きり覚悟~」から)

 昨夜2日午後11時43分のいつもの松本市の南を震源地とする震度1(M1.6)の地震後、松本大谷は今のところ地震は発生していませんが、房総半島南方沖近辺では震度1(M3.4)の地震が3日午前3時54分に発生しています。地図で見ると野崎半島の真南約40km先の太平洋上です。

 友人から「いつになったら地球は静かになるのだろう」というとても深い声を聞いた。長大息(ちょうたいそく)という天を仰いで、ため息のするさまを表した言葉がありますが、誠に天を仰ぎたくなる心境です。

 「鎮まることはないんだよ」という言葉を吐きたくなりますが、そもそも現代人はその知識から、絶対にありえないことを知っているのではないでしょうか。

 震度1などは体には感じない地震です。地震国プレートが入り込みそのプレートもいくつかが複雑に絡み合い、全国的に活動中の断層、制止中の断層があり、また活動中の火山がある日本。これは日本だけではなく世界にはいくつもそのような場所があり、有機体的に常に動いているわけで、知識からすれば無機物も崩壊していきますから、この世に変わらないものはない、ともいえるわけです。

 知識としてこのような、ことを知っていれば「いつになったら地球は静かになるのだろう」という長大息はあり得ないのですが、しかし人間は知っていてもそう叫びたいのがありのままの姿としてあります。

 そう叫ばない人間は、想像しただけで血の通いがない人間のように思われます。無常感から来る吐露、独白は、悲観ではありません。

 「無常を語る文化が根付いているから日本人は無常をよく知っているかというと、そうではありません。やはり観察能力が乏しくて、無常の一部だけを好きなようにハイライトしているのです。」という言葉を繰り返す人がいますが、戦後の復興や阪神大震災、今現在の東北の復興の民間の復興の意欲を見ていると決してそうではないことがわかります。

 如実知見という言葉があります。「ありのままに見ること」という意味で、仏教ではその初期段階から、

 自然現象の実情をあるがままに見ること。

 人間の真理をあるがままに見ること。

という立場が看取されると言います(原始仏教の思想Ⅱ 中村元選集大16巻 春秋社p29)。

 無常感とはこれに直結するものだと思います。

 時々「知っている」ということはどういうことなのか考えるときがあります。

 特に夜間静かな夜道を車で走っていると、走行車線の遠方に黄色から赤に変わる信号を目にします。

 その時私は「あれは信号機で、道路交通に関する法律で設置され、黄色は赤になるので注意しなさい。そうように世の中のルールとしてみんなが守っていますので、それにしたがって行動してください」などとは、心の片隅語ってはいません。

 しかし私はそのように行動します。なぜか・・・・。

 ご飯を食べるときに茶碗と箸を使います。一々「これはご飯を食べるときの器でこれが箸、そして日本人はこういう時にはナイフとフォークは使いません。」とは決して心の中で語ってはいません。

 ところが、まったく信号機を見たときのない、外国の人が来たとします。信号機や茶碗や箸を見て何と思うでしょう。「器」という概念は今では普遍的な要素があり、細かな説明は必要ではなく、「ありのまま」その茶碗は「そのように使うかもしれない」という思いを持つことができます。

 そこで、信号機や茶わんや箸を「無知」な人間と非難するであろうか・・・・。

 最近仏教の用語の「智慧」という言葉が説明され「無常」ということも含めて語られている文章を読みました。

<『バカの理由 役立つ初期仏教法12』(スリランカ初期仏教長老アルボムッレ・スマサーラ サンガ新書から>

智慧を定義する

 それでは「智慧とはなにか」という定義をご説明します。智慧とは物事をありのままに知ることです。まず、六根にデータが入りますね。眼耳鼻舌身意に情報が触れます。その情報を瞬時に主観で合成して概念になる前に、そのデータを明確に観察すると、データというものは常に流れて消えていくものだと発見できるのです。

 データの流れにあわせて感覚も、六識も、変わっていくことを発見する。それで普遍的な真理はなにかと求めると、「ものがある、ものが存在する」という決まりは間違いだと見えるのです。せめていえるのは「すべては無常だ」ということです。無常たるものは、苦か、楽かと判断すると、苦になります。すべて変わるので、変わらない実体があり得ないということで、無我というのです。六根にデータが触れると、すべての現象に対して無常か、苦か、無我のいずれかを発見することが智慧なのです。
                                 
 また、生きるとはなにかという疑問に対して、ブッダは四聖諦(ししょうたい)を発見したのです。「生きることは苦の連続である」という「苦聖諦」があります。そして苦を発見しない人が「生きつづけたい」と思うので、その衝動は渇愛というエネルギーに変わるのです。これは苦の原因です。「苦集聖諦(くじゅうしょうたい)」といいます。しかし渇愛という衝動をなくすことができれば、苦も消えるのです。この事実は「苦滅聖諦(くめつしゅうたい)」といいます。さらに渇愛という衛動をなくす方法もあります。その道は「苦滅道聖諦(くめつどうしゅうたい)」といいます。

 この四つは生きることにかかわる普遍的な真理なのです。一般人には発見できない事実なので、聖諦と名づけています。もし人が「生きることは認識しつづけること以外なにもない」と発見し、それから「認識しつづけることは苦の連続である」と発見していけば、それは智慧があらわれたということなのです。

 この説明を定義として短い文章にしましょう。「智慧とは、四聖諦を発見すること」です。もうひとつの定義は、「智慧とは、現象の無常、苦、無我を発見すること」です。これで智慧の定義を終わります。

 では次に、無智の定義をつくりましょう。「物事を認識しても、四聖諦を発見しないこと、現象の無常、苦、無我を発見しないことを無智という」です。

 納得がいかない定義かもしれませんが仕方がありません。私たちの認識ではものがある、ものが存在する、という結論に立つことは避けられないのです。「しかしその結論は事実ではありません」といっても、私たちには理解できません。ですから「目の前に花があるではないか。それが私には見えるではないか。花があるという概念は正しいのではないか」と、普通はこのような反論が心に生まれるのです。私たちの日常の認識の働きが無智なのです。そう簡単に納得できるものだとは思いません。

<以上同書p94~p97から>

とても印象深い原始仏教の解説で引用させていただきました(700円+税で購入しました)。

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 脳内活動も含めて身体というものはすごいもので、一刹那にある時、あるがままに私の目の前にある現象は、悠久の歴史の蓄積が一気に立ち現れて認識させてくれます。

 知らないものは知らないとして、単なる形(信号機・茶わん・箸:言葉・言語にすると知っているということになりますが便宜上)の認識で終わります。

 私が身体で覚えていること、意識しないでなって立ち現れる感覚でもなく、雰囲気でもなくそのままであること。

 花が語ることはなく花は笑うことはないのは当たり前ですが、擬人化するのでもなく、思いを寄せるでもないが、花が咲いているのと君・妹が微笑むのも同じに分かる。

 山折哲雄先生が被災地の瓦礫の山のかなたに見える、輝く太陽、照らされ輝きないでいる風景を見たときの感想を述べられていましたが、静かなのです。

<「いつになったら地球は静かになるのだろう」>

分かっているのですが、天を仰ぎため息をつきたくなる時もあります。

 

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