
仏教を「人を惑わす邪教だ」というブログ記事が目に留まったので読んでみました。なるほど人はいろいろと悩み求めるうちに落ち着くべきところに落ち着いているなと思いました。
それぞれの思い入れがあってそれぞれに落ち着く、決するのは自分自身であり、その時点でのその者はそのように自分がその意志で結論づけたと納得しているものと思います。
それを公言することで自分が落ち着く、自分ではそうは思わないかもしれませんがある面精神の深層部にそれがあるのではないかと思います。その証はこの私自身がそうであるからです。
私自身は、精神的な悩みを抱えているわけではありませんが、物事を知りたいただその一念だけで毎日せっせと自分を見つめながらブログを書き綴っているわけですが、人様のブログを読むと大変自分自身の勉強にもなり、世の中の進歩、IT革命に感謝です。
書物を何万冊読んでも、やはり人様の生の声やそれに準ずる告白、表明、主張の声を聴かないと何か手落ちのように思えてなりません。
「納得とは自分に言い聞かせること」ではないかと思います。「親のいうことを聞きなさい」と言われそれに従う納得する場合もありますがどちらにしろ「そうする(したがう)」ことは自認し決断した行為なのだと思います。
上記の「人を惑わす邪教だ」という主張は、その根底に「日本の宗教は神道である」という信念があるからで、一神(ヤーベ・エホバ・アラー)教や森羅万象に神々が宿るという多神教それらの相対的な観念からそのことが導き出されています。
「神道の基本は自然崇拝である」という結論になり、視点を変えると神道を本来日本に存在していた宗教と位置づけ外来宗教である仏教は異端であるという仏教に対する排他的な考えに主張しているようです。
論拠や証拠に不十分さはあるにしてもそのように結論づける人はいないわけでもなく、その場に立っておればそのような結論になるのはごく自然であると思います。
そんなブログを読んでいてふと二宮尊徳(金次郎)先生(尊徳先生の学びの「力への意志」)を思い出してしまいました。薪を背負いながら書物を読んでいる姿、回顧主義的に望郷(心のふるさとという意で)の念でいうのではありませんが(といいながらこころの深層にはそういう念が存在しています、したがって私は素直ではありません)、尊徳先生の『二宮翁夜話』の
「世の中の誠の大道はただ一節なり。神といい、儒といい、仏という。みな同じく大道に入るべき入口の名なり。或は天台といい、法華といい、禅というも、同じく小路の名なり。」
という言葉を思い出してしまいました。
二宮先生が読んでいた本は何か、これについては『大学』(宇野哲人全訳注 講談社学術文庫)の「序文」に宇野哲人の息子さんで中国哲学者宇野誠一先生が次のように書かれています。
<引用>
このごろはあまり見かけないが、以前は小学校の校庭や玄関先に、必ずといってもよいくらい、薪を背負い本を読みながら歩いている二宮金次郎の石像が置いてあった。あの二宮金次郎の読んでいる本は何か、ということも、昔の人は大抵知っていたが、今では知る人も少ないのではなかろうか。
実はあれこそこの『大学』なのである。あの偉大な二宮尊徳の思想と功業も、その基礎はこの『大学』にあるのである。『大学』という書物は、今こそ一冊の書物になっているが、元来は五経の一つである『礼記』という大部の書の一篇であって、原文は僅か一七五三字、字種は三九四(森本角蔵先生『四書索引』による)である。四百字詰の原稿用紙に書けば、四枚半に満たないわけだ。
しかしこの書物は、儒教の政治思想の根幹を極めて要領よくまとめたものである。
さればこそ、二宮尊徳はこの書物を熟読玩味(じゅくどくがんみ)することによって、(もちろんそれだけではないけれども)あれだけの仕事をなしとげることができたのである。
ニュートンは林檎の実の落ちるのを見て万有引力の法則を発見したといわれるが、書物にしても、それを読む人の心構えによっては、どれほど偉大なものを産み出すすことであろうか。
この書物が政治思想の根幹であるといえば、自分は政治に関心がないとか、政治家ではないからとか思う人もあろうが、儒家の思想は身近なところから始めて遠くに及ぼすという主張である。修身・斉家・治国・平天下といえば聞いたことがある人が多いであろう。
つまりこれはいわゆる政治だけの問題ではなく、否むしろ身近な問題を論じているのである。二宮尊徳ほどではなくとも、自ら求めるものがあって読めば、必ずや得るところがあるはずである。真理は常に簡単なものであり、身近なところにあると信ずる。
<引用終わり>
この『大学』に「小人居して不善をなす」で始まる言葉があります。
小人居(かんきょ)して不善をなす。至らざるところ無し。君子を見ると、厭然(えんぜん)としてその不善をおおい、その善を著(あらわ)そうとする。しかし、人が自分を見ること、その肺や肝臓をみるようであるため、それは何の益にもならないだろう。これが中(うち)に誠であれば外に形(あら)われるということだ。だから君子は必ずその独を慎む。
この言葉から公共哲学における「中国思想における公共空間の論じ方」の中で中国哲学研究者中島隆博(なかじま・たかひろ)東京大学総合文化研究科准教授(表象文化論)は次のように述べています。(『公共哲学古典と将来』(東京大学出版p104~p106)
<引用>
ここに朱熹は、次のように註釈を付した。
閑居とは、独りでいること。厭然とは、意気阻喪した有り様のこと。ここで言っているのは次のことである。小人が裏で不善をなしているのに、表でそれを隠そうとするのは、善をなして悪を去るべきであることを知らないからではない。ただ、その力を実に[実際に/充実した仕方で]用いることができないから、そうなっているにすぎない。しかし、その悪を隠そうとしても結局は隠せないし、善をなしていると偽っても結局は偽れない以上、無益である。このことを君子は重ねて戒めて、その独を慎むのである。(『大学章句」)
つまり、小人の「閑居」を、君子の「独」と対比させて、前者の「独りでいること」がもたらす弊害を避けるように、後者の「独りでいること」を慎まなければならないと解釈したのである。
この直前の一節も見ておこう。
いわゆるその意を誠にするとは、自分を欺かないことである。悪臭を悪み、好色を好むようなものである。これは自らに満足するということだ。だから、君子は必ずその独を慎む。(『大学』)
ここに付した朱熹の注釈はこうである。
自分を修めようとする者は、善をなして悪を去るべきだと知っているので、その力を実に[実際に/充実した仕方で]用いて、自ら欺くことを禁止するべきである。悪を悪むこと、悪臭を悪むようであり、善を好むこと、好色を好むようにするならば、[悪を]努めて去り、[善を]求めて必ず得ることができ、自らに快く、自足するのである。わずかでも外に従い、人のためにすることがあってはならない。ところで、充実しているか充実していないかは、他人が知り及ぶものではなく、自分だけが知っていることである。だから、必ずそれを独において慎み、兆(きざ)しを明らかにするのである。(『大学章句』)
この二つの節は、『大学』の「誠意」の条に含まれている。「誠意(意を誠にする)」とは、自分の内面において、意図を充実し虚偽を根絶することによって、悪の原点である「自欺(自ら欺く)」を禁止しょうとすることである。そして、この禁止は実に徹底していて、「自欺」をその萌芽から禁止することが目指される。
ここで重要なことは二つある。一つは、悪の場所が、内面における「自欺」に求められたことである。もう一つは、その悪を取り去る「誠意」が「独」においてのみ実現されるということである。
<引用終わり>
どうして『大学』の「小人居して不善をなす・・・・」の解説に宇野哲人先生の解説を使用せずに、中島隆博先生の解説に「公共哲学」を視点においた論述があるからで、そこには二宮尊徳の視点、君主たるしてから子たる視点への移行が重なるからです。
何でもそうなのですが、理解というのは自分の力量に負うところがほとんどです。足りないところは指導を受けるべきですが身体で読み取ることをしないと、自分の糧(かて)には成らないように思います。
今日も高所から、上から目線と批判されそうですが、「人を惑わす邪教だ」に対する批判ではありません。思考の目線についての話です。
写真は美ヶ原高原方面をズームして撮影しました。右側にテレビ塔がシルエットで見えました。 に参加しています。
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