
今月17日に自宅で倒れて病院に搬送され、手術を受けていた。女優の南田洋子さんが亡くなられました。平成18年に引退。「認知症の兆候がある」と診断され、自宅で長門裕之さんの献身的な介護を受けて、数日前に昔の記憶を取り戻した状況が映し出されていただけに驚きました。
倒れて入院したことでインタビューに答えていた長門さん。これまで介護の状況について番組で話されていた時とは異なり、重なる事態に覚悟をしているという話し方でした。
そのときポツリと「無常だね」と小さな声で話されたのがとても印象的でした。
長門さんが俳優だから言うのではありませんが、人生とはシナリオのなき舞台ではないかと感じました。
演じる主役はその場で即興で演じなければならない。展開される事象に即座の対応して行く演技、それが主役に課せられた役柄です。
うまく演じるも下手もない、淡々と課せられた役柄を演じてゆく。長門さんは壮絶でした。シナリオのない舞台での演技、これが人生ではないかと長門さんを見て思いました。
役を演じる私なるものを形づくるものは、その瞬間の素養の集大成ではないか。
最近無常ということばについて、人はどのように表現して解説しているのかと、調べ続けているのですが、仏教学における縁起説に批判的な宗教学者の三枝充悳先生のインド仏教思想史における「無常」について、細密な原始仏教典の調査から「無常」について書かれている次のことばが印象的です(仏教入門岩波新書P90~91から)。
死も老いも病も、それらをふくむ内なるものも無常も、そして外なるものも無常も、そのどれもが、それとは別の他者が襲いかかってくるのではなくて、みずからがみずからに招きよせていると説く。しかもそれは、土の器がみずから壊れ、鉄が錆びるがごとくにと喩えられる。
このことに関連しながら。これらのおびただしい数の例文を詳しく調査して特徴的なことは、無常と示す語が、いつでも、どこでもなんらの前置きもなく、なぜ無常であるかなどのいわゆる理論的な根拠はいっさい問われることなく、いわば突如としてとびだしてくる。このように、無常という語には、原因も理由も根拠も、またその起原も、まったく追究されことがない。
このような用例の特徴から明らかなように、無常は、人間存在(実存)の最も赤裸々な事実・現実をそのあるがままに直接に感性が受けとめ、受けいれ、それに触発されて生じ、またとりわけ深い関心と共感とを伴いつつ湧き出た、ある種の詠歎としか表現しようがない。
長門さんは、南田さんの介護をされているときに「若いときに洋子に苦労をかけたから、今度は私が洋子の面倒を見るのだ」といわれていましたが、入院の際の「無常」ということばには、縁起では語れない壮絶さが感じられます。三枝先生の上記の
無常と示す語が、いつでも、どこでもなんらの前置きもなく、なぜ無常であるかなどのいわゆる理論的な根拠はいっさい問われることなく、いわば突如としてとびだしてくる。
これがお釈迦様のおさとりのように思います。シナリオなき舞台でどのように演じてゆくのか、魂の試されるときでもなんでもない。赤裸々な自分で、丸裸の自分で演じなければならない。
長門ご夫婦の壮絶な生き方に、「自分で自分を自分するしかない。」ことを強く感じさせられました。