思考の部屋

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V・E・フランクルの『夜と霧』の第三回・態度価値に思うこと

2013年03月21日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 昨夜Eテレ100分de名著でV・E・フランクルの『夜と霧』の第三回の再放送がありました。「運命と向き合って生きる」と題して「生きる力を与えてくれる“3つの価値”ある」というフランクルの創造価値、体験価値、態度価値が解説され、姜さんが「ある種のバイブル」と語った「態度価値」が最後に語られました。

 昨夜のブログに書きましたが新版『夜と霧』の池田香代子さんの「私はこう読んだ」という言葉に感銘し個人的に態度価値については考えさせられるところが多い概念です。あくまでも個人として・・・・夏目漱石が自己本位で苦悩から脱却できたと語っていましたが、・・・・その意味では自己本位のフランクルの教えを受けて別の意味理解を受けて私にとっての態度価値観を持たせてくれました。

 まえがきが長くなりそうなのでここまでとし、今月の初めごろに「震災遺産」について書きました。その中で3.11東日本大震災で最愛なる子供さんを失くされた方の、小学校の「震災遺産」と残すべきか否か、遺産ではなく最近では「震災遺構」と言うのだそうですが、その残したいという親御さんの「親の思い(情意)」について言及しました。

「親は子の苦痛が消え去ることを望まない」

という言葉を書きました。書いてしまってから言葉の足りなさを痛感するのですが、実際に子供さんを失くされたご両親は子どもさんの死んだことを忘れないし、苦痛の中で死んで行ったことをも決して忘れられるものでもなく、それはある意味「消え去ることを望まない」という裏返しの心があるように思います。

 そのような心情の中で今でも後追い自殺をしたいほどに精神的な苦痛になられている方も多いのではないかと思います。まさに人生の悲哀を考えずにはいられません。「悲哀」と書くと「悲しく哀れなこと」と「哀れ」が今日的な「みじめさ」に誤解されると困るのですが、「人生や人の世に対して感じる儚さや無常観」と言った意味のものです。

 人の世とはどうしてそうなのだろうか。こんな人生に何の意味があるのか、ただ苦しいだけではないか。しかし、フランクルは、「人生には無条件に意味がある」と言います。

 第三回のこの番組では講師の諸富祥彦さんは、創造価値、体験価値そしてが「どんな時にあっても人生には意味があると言える最終的な根拠」という態度価値について語られます。

この番組については私は昨年、第三回目だけでも、

フランクルの『夜と霧』第三回目を見て(1)フッと花ひらく[2012年08月16日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/0b29b5334763d84a58d04562d853232e


フランクルの『夜と霧』第三回目を見て(2)体験価値と現存在[2012年08月17日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/62d360e654c7079d630e7dc7269ae196

フランクルの『夜と霧』第三回目を見て(2-2)体験価値「美しいという体験」[2012年08月19日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/bf355557f8e7d7e2ae306b27cae4417f


『夜と霧』第三回目を見て(3)創造価値・代理不可能な存在[2012年08月18日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/56c9a75d967999e887de1c154e762607


フランクルの『夜と霧』第三回目を見て(4)態度価値・運命愛[2012年08月20日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/93d5d13a7b7beade9341ec1279f2534b

と今から思うとよく書いたものだと思うほど書きました。番組を見て感じるままに書いているだけですが、その中で体験価値で語られた中でいまだに私自身が考え続けている話があります。それが今回話されている「最愛なるものの死」に関係するもので、番組では、収容所の早朝、極寒の中での作業場へ向かうある男性とフランクルとの会話の中で語られるものです。

 この会話については、旧版『夜と霧』(霜山徳爾訳・みすず書房p122)に記載されている話で、テキストではp64-p68に解説も含め詳細に書かれています。

「なあ君、もしわれわれの女房が、今われわれの姿を見ていたとしたら! 多分彼女の収容所はもっといいだろう。彼女が今われわれの状態を少しも知らないといいんだが。」とそれに続くフランクルの9ヶ月の短い夫婦生活の思い出しかなかった妻との思い出からの態度価値についての説明です。『夜と霧』を読まれた多くの女性が一番感動する部分ですが、取り上げる問題はこの話に続く部分で、フランクルの言葉の紹介の後諸富先生の次の話しからです。

【諸富祥彦】 心から愛した思い出があれば、それが単なる思い出であっても人の人生を一生支え続ける力を持っている、ということだと思います。

【伊藤敏恵アナ】 軽々しくは言えないことかもしれませんが、今回の東日本大震災で多くの方が大切な人や家族を失った、そうした人たちにも過去に愛した記憶がきっと支えになるよというメッセージかも知れないですね。

【諸富祥彦】 過去にご家族と触れ合ったその体験は、永遠に現にそこにあり続けるんだと、フランクルの診療のエピソードの中にこんな話があるんです。御高齢の夫妻だったのですけれども、奥様が亡くなってしまった。奥様がなくなった後に日本でも残された男性がうつ病で苦しむ方が多いんですね。やはり打ちひしがれたこの方がフランクルのところに相談に来て「愛し合った妻もいない。こんな只々時間がもうカラカラと過ぎて行くだけ。こんな私の人生にこれ以上生き続けて意味があるんでしょうか」と、フランクルはこう問うたのです。「もしあなたが先に死んで奥様が残されていたらどうだったでしょうね?」と、「おそらく妻もわたしを失ったことに同じように苦しんでいるとおもいます。」とその方が言ったんですね。するとフランクルは「そこにあなたの生きている意味があるんです」と、つまり「あなたが今辛い体験をしているためにですね、奥様が辛い体験をせずに済んだんだ」と、「そこにあなたの生きる意味がある」というふうに言ったんですね。

【伊集院光】 例えば、後追い自殺しちゃおうかと思っても、この自分の命があることを一番喜んでいてくれていた人が、その愛してくれた人だったからなんだと考えると、頑張るという・・・・うぅ~ん。我々はこの境地になれますかね、どうですかね。信じたいのは、それは今空気があると、思わないといっしょだから、究極の苦しさの時に発見できるけれど、今持ってんもんだったらいいなぁ~と今ちょっと・・・・(思っています)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上のように諸富先生のフランクルの診療時のエピソードから始まる話です。ここで諸富先生はフランクルの言葉「もしあなたが先に死んで奥様が残されていたらどうだったでしょうね?」と、妻を亡くして苦悩する男性に問い、その男性は、「おそらく妻もわたしを失ったことに同じように苦しんでいると思います。」と答えます。するとフランクルは「そこにあなたの生きている意味があるんです」と答えたという話です。そこで諸富先生は、

>つまり「あなたが今辛い体験をしているためにですね、奥様が辛い体験をせずに済んだんだ」

と言う解説をしています。「あなたが今辛い体験をしている」ことによって「奥様が辛い体験をせずに済んだんだ」という語りに観点の転回があるのでしょうが、どうも私は理解が浅くなぜかこの点に違和感を感じるのです。今現在の事実は、最愛なる妻はこの世にいません。それを居るものとして想いを創るのか。

 そんなに難しい話ではないのですが、どうしても「奥様が辛い体験をせずに済んだんだ」というところがよく分からないのです。妻は既に亡くなっているのですからつらい経験とは無関係ですから、このような観点の転回でいいのか、「つらい経験」にはさらなる根源的な意味があるのではないかと思うのです。

 番組では、諸富先生の上記の話に伊集院さんが「自分の命があることを一番喜んでいてくれていた人」と言います。「自分を一番愛してくれていた人」と言っていいと思いますが、その妻がもういないその立場が変わって自分が死に、その一番愛してくれた人が苦悩することを思う。そこにあるのは「互いが愛する者同士」という関係にともなう「相手を忘れることのない永遠の愛」です。

 今現在亡くなってしまって現実には存在しない人、その魂は個人の心の内に存在し「私の苦しみは永遠の愛が消え去ることを望まない」という心の現れであると思うのです。

 これはあくまでも私個人の自己本位の理解ですが、実際フランクルはどう話しているのか、諸富先生の話を信用し出来ないという話ではありませんが、その実際のフランクルの語りを紹介したいと思います。この話は『夜と霧』ではなく『苦悩する人間』の中で語られています。

<『苦悩する人間』「第二章意味否定から意味理解へ」から>

 このことは、一つの具体的な症例によって説明できるでしょう。ある日のこと、一人の年配の紳士が来訪します。職業は開業医です。彼は、重い抑鬱状態にかかっています。その抑鬱状態は、内因性ではなく、外因性、心因性、反応性であることがただちに判明します。その男性の抑鬱は、妻の死に始まります。彼は妻と共にこの上なく幸せな結婚生活を送ってきたのです。ところが今や、彼には人生がまったく無意味に思われるのです。彼自身、自分の状態が病的なものではないことに気づいています。私もそれが正しいと認めざるをえません。確かに、彼の悲歎は異常に長く続いていますが、それだけ彼の結婚生活は「異常に」幸せだったのです。したがって、彼の悲歎は、その長引く経過にもかかわらず、適切な情動なのです。

 さて、この患者(「病人」と言うのは言い過ぎでしょう)は、自分がどうしたらよいのかを知りたがっています。ただし、はじめに彼はこう断っています。「薬は要りません。薬ならお手をわずらわせるまでもありません。自分で処方できますので」。薬物療法を受けることを彼が断ったのはもっともです。つまり、それは、目をつぶることになりましょうから。「それでは何にもならないのです。私の人生が無意味になったことを意識しないようにしても、私の人生が有意味になることはないでしょうから」。

 まず、彼が体験したこと、つまり幸せな結婚生活は、何であれ誰であれ、それを彼から奪うことができないことに患者に気づいてもらわなければなりません。たとえ、結婚生活が、彼の人生を有意味にした唯一のものであったとしても、その幸福だけでも彼の人生は有意味だったし、有意味であり続けるでしょう。言い換えれば、私が他のところで繰り返し説明してきた次のことを彼にわかってもらわねばなりません。つまり、過去の刈田だけを見て、過去の満杯の穀物倉を見ないのは間違っている、ということです。〔時間について〕あたかも一種の侵食作用だけが有効であるかのように「侵食する時間の歯」とだけ言うのは間違っています。むしろ私たちは実際には、もう一度地理学の用語を借りるなら、絶えざる沖積層の中に住んでいるのです。過去となって失われ取り返しがつかなくなるようなものは何もありません。すべてのものは過去存在のうちに蔵されていて消し去ることができないのです。時間は流れ去ります。しかし、出来事は凝固して歴史になります。エルヴィン・シュトラウスが「歴史とは過ぎ去ったもの」と呼んでいるのは、「過ぎ去ったものが現実となったものとして消滅に逆らう」限りにおいてのことです。そうだとすれば、このことは先の患者にもあてはまります。彼の人生の意味は消滅に逆らうのです。それは彼の妻への愛が妻の死に逆らうのとちょうど同じなのです。

 けれども、彼が私の助言を求めていた本来の問題は、別のことにあります。彼が苦悩しているのは、彼自身が表現したように、彼のその苦悩によって「誰の役にも立たない」ということなのです。もしその人のために苦悩することができるような、そういう人がいるとするなら、もし自分の苦悩を犠牲として捧げることができる誰かがいるなら、彼はどんなに喜んで苦悩することでしょう。
 
 一つの単純な考え方をすることによって、彼の苦悩にもそのような意味がないわけではないことに彼は気づきます。その意味を明示するには、ただ、仮に彼が妻よりも先に死に、妻の方が長生きしていたらどうなっていたかを考えてもらいさえすればよいのです。妻が彼の死を悲しまなければならないという逆の場合の方が彼にとってよかったのだろうか、ということを考えてもらうのです。そうすれば、妻が苦しまず悲しまずにすんだこと、ただその代わりに自分自身が悲しみ苦しむことで代償を支払わなければならないことがすぐに彼にわかります。

 その瞬間、彼の人生、彼の苦悩は、突如として意味を取りもどしました。「意味を授け」られたのです。悲しみは誰かに「代わって」の犠牲となり、その誰か「のための」犠牲となったのです。
 それは、数分の対話のことでした。その数分の間に、患者によってコペルニクス的転回が成し遂げられたのです。彼の苦悩がすっかりなくなったわけではありません。しかし、少なくとも苦悩の無意味さが解消されえたのなら、それはつまらないことでしょうか。

<以上同書p138-p140> 

 諸富先生の「奥様が辛い体験をせずに済んだんだ」はフランクルの上記の言葉から間違いなく解説されているもので、確かにフランクルは「代わって」の犠牲という意味で「妻が苦しまず悲しまずにすんだこと、ただその代わりに自分自身が悲しみ苦しむことで代償を支払わなければならないことがすぐに彼にわかります。」と説いています。

 この点について哲学者でフランクル研究家の山田邦男先生は以前にもブログに書きましたが「死者に対しての心づくし」としての苦悩する西田幾多郎先生の言葉から解説しています。ここに山田先生の「私はこう読んだ」があるのだと思うのです。

 西田先生の言葉は「震災遺産に思うこと」ブログの中で引用した言葉でダブりますが紹介します。その話は山田先生の最新の著書『フランクルとの<対話>』(春秋社・2013.1.25)に掲載されています。西田先生が最愛なるお子さんを失くされた時の話です。

<山田邦男著『フランクルとの<対話>』(春秋社)から>

 西田が40歳ぐらいの頃、まだ三、四歳だった愛娘が突然亡くなります。そのときの悲痛な気持ちが記されていますので、少し長くなりますが、まずそれを引用させていただきます。

 亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。(中略)飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親にとっては堪え難き苦痛である。時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵みであって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。(中略)折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉(いしゃ)である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。(『思索と体験』岩波文庫、p229-p230)

 この西田の文章には、愛する我が子を亡くした深い悲しみが切々と記されています。その悲しみを見て、知人たちは、恐らく励ましや慰めの気持ちからでしょうが、「諦めよ、忘れよ」と言う。しかし、そうすることは親にとっては「堪え難き苦痛」なのです。確かに、愛する人の死を思い出すのは苦しい。しかし親はその苦しみが消えてゆくのを望まないのです。せめて自分が生きている間だけでも、所に触れて思い出してやりたい。それが人間としての自然の情であり、親の誠・真心であり、死者に対する「心づくし」である。

この悲しみは、確かに苦痛ではあるが、しかし親はこの苦痛が消え去ることを望まないのである、というのですね。・・・・略・・・・それは、たとえば仏教のような立場から見れば、執着であり煩悩であるわけですから、それを断ち切る、思い切るということも大切かもしれませんが、しかし仏教は他方で「煩悩即菩提」とも言うわけですね。この煩悩即菩提というのは難しい言葉ですが、煩悩の底を突き抜けると、そこに、煩悩がそのまま菩提である、苦しみであるという地平が開かれてということではないかと思います。

<以上上記書p176-p178>


ここで語られている西田先生の「死者に対しての心づくしである。」がとても印象的です。死者をいつまでも弔うことができることが「苦悩する意味」重要性を示し、最愛なる子が自分に懐にいつまでも抱ける喜びでもあるように思うのです。

 「弔うことの死者に対する心づくし」(※表現が難しいのですが)

 これが最愛なるもの死に苦悩する自分の態度価値の現れ意味するところであると思うのです。

>「あなたが今辛い体験をしているためにですね、奥様が辛い体験をせずに済んだんだ」

>妻が苦しまず悲しまずにすんだこと、ただその代わりに自分自身が悲しみ苦しむことで・・・

が誤りであるという話ではありません。「私はこう理解したい」という話です。

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