
観世音菩薩と鳩摩羅什は訳され、玄奘三蔵は観自在菩薩と訳されたこの菩薩様は、常に世間を観じているとされています。馴染み深い観音様は、仏像としてもその美しさから、偶像崇拝と非難されようとそのお姿に心の安らぎを覚えます。
衆生に楽を与える慈悲、衆生の苦をぬくのが悲で、与楽と抜苦を観音様は慈悲をもって衆生の音声(おんじょう)を観(きい)ています。
ここで私は、「観」を「(きい)て)」としましたが、これは「聞く・聴く・訊く」の「きく」さらに「見る視る・観る・看る・診る」も含めてその代表として「きいて」としました。
「観音経」の説かれるこの菩薩様は、苦悩を受けて苦しんでいる世の中の多くの人々が、この菩薩の名を聞いて一心にその名を称するとき、即時にその音声を観じて、苦悩から解脱させてくれるということです。
鳩摩羅什は、原語のはない「世」をその働きから「世」を付けたのだそうです。そこには鳩摩羅什の生きた人生が表わされているそのような気がします。
世間の音声とは苦しみの音声であり、苦しみの音声は救いを求める音声でもあるわけで、この衆生の音声を常に観じておられる菩薩様なのです。
玄奘三蔵は、「自在」とされました。自在とは無滞(むたい)の義で、無滞とは障害がないことで、観音の救いはどんな障碍(しょうげ)にあっても、いささかの滞(とどこお)りもなく、その妙用を発揮することができることをいっているわけです。
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世の衆生はその苦しみの音声を誰に発するか、神や仏だけではなく、ブログでもわかるようにも音声を発します。対するものは誰なのか。全てを含んでいると思います。
昨日は和辻哲郎先生のことをお話しましたが、和辻先生は昨日紹介した著書の中で次のように言われています。
人が救いを期待するのは、ただその同類、すなわち他の人々、及び救いを与える者として信仰せられる超人者のみである。ところでこの後者は、救いを求める人間の要求に応じて形成されもしくは見いだされたものであるがゆえに、かかる超人が救いを求める声に応じれ救いの手を差しのべるであろうことは、その超人者の本質に属することとして当然なのである。しかるに前者、すなわち他の人々は、救いを与える者として作り出されたというわけではない。
しかも人がそこに救いを期待するのは何ゆえであろうか。人は危篤の際に、必ずしも親兄弟とか友人とかをのみ目ざして呼ぶのではない。ただ他の人々に向かって、すなわち一般に人に向かって呼ぶのである。そしてみれば人は、他の人々をすでに初めより救いの手として信頼しているゆえに呼ぶのである。他の人々は猛獣と同じく自分に危害を加え得る者であり、また自分の危急に際しても家畜と同じく無頓着であり得る者であるが、それのもかかわらず自分の危急に際して必ず救いの手を差し出す者として信頼されるのである。救いを呼ぶ声はこの信頼の表現である。 (『倫理学上』岩波書店P279)
「押尾学容疑者に逮捕状」というニュースが流れています。被害者女性の田中さんは、苦の音声を叫び、呼んでいただろうと思います。
それを何故に「きく」ことができなかったか、そこに三世諸仏の教えがあるのです。
この一連の事案の中にも観音菩薩の救いの音声の観ずるお姿があります。
田中さんは死んでいるではないか、そこに救いはないのかと思われるかとも当然おられますが、そこに無常という、この場合は「死」はいつでも音(おと)ずれる、ある面では音声でもあるわけです。
そこにそれを避けるための、縁起を智(し)っての身の正し方が観えますし、押尾容疑者には、女犯の悍(おぞま)しい姿が観えるのです。
女子大生が被害者になる殺人事件があります。その場の救いの叫び声(音声)を我々も観じなければなりません。
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親鸞上人のように悪人正機に引かれる者もあれば、道元さんのように観(みつ)める只をもとめる者もいます。
行きつくところは全て同じです。折り合いのできる宗教は全て同じなのです。
ブログ村の仏教ブログを見ていましたら「思考の消滅」という題名のブログがありました。何ゆえ思考の消滅に固執するのか、そこのは深い意味があるようですが、私は生きているうちは冷静に思考する癖をつけることが大事だと思います。
「直感を忘れないで」旨のコメントをいただきました。人それぞれに私自身がよいところだと思うところもあれば、これはいかがなものかというものがあります(教えを含む)。
それも全てこれまでの思考の積み重ねから生ずる直観です。ですので昨日は、昨日における直観の修正で、今後も直観を大切にしていきます。
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先ほど「思考の消滅」について書きましたが、大乗の世界の話を書きたいと思います。私は武道をするのでこのような話をします。
徳川家に仕えた江戸初期の剣客柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)に剣の哲学を教えた沢庵禅師(1573~1645)の著『不動智神妙録』の中に、次の言葉がある。
間髪を容ずと申す事の候。貴殿の兵法にたとへて申すべき候。
間とは、物を二つかさねて合ふたる間へは、髪筋も入らぬと申す義にて候。 たとへば手をはたと打つに、其儘(そのまま)はつしと声が出て候。打つ手の間へ、髪筋の入程(いるほど)の間もなく声が出て候。
間とは、物を二つ重ね合わせた間に、髪一筋も入る隙がないということである。たとえば、手をパンと叩くその瞬間に、ハッシと声が出る。打つ手と出る声の間には髪の毛一本入る余地がないのであるという。
手を叩いて、声を出すかどうか思案して、一瞬の間をおいて声が出るというのではない。打ったや否やそのままの声が出ることである。人が打ちこんできた太刀に心がとどまれば、そこに間ができる。その間にこちらの働きがおろそかになる。向こうが打ってきた太刀と我が働きとの間に、髪の毛一本も入らぬようなら、人の打つ太刀は自分の太刀となるはずである。というのが沢庵の考え方である。観音が応現するのもこれとまったく同じである。 (下記本P27から)
今朝のこのブログは鎌田茂雄の『観音のきた道(講談社現代新書)』をベースにしています。ここをクイックするといろいろな仏教の教えに出会います。