早朝から雪降りとなり、20センチほどの積雪となった。雪にもそれぞれ人間に性格があるように、降り方や降る時期によりその性質が異なる。今回の雪は、重く除雪に力を要した。「雪」といえば川端康成の「雪国」が思い出される。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
という名文で始まる小説である。
哲学者の梅原猛先生は、「官能と景色のまばゆい複合美」と川端美学の裏側について語り(講談社学術文庫 美と倫理の矛盾)、音相システム研究家黒川伊保子さんは、次のように語る。
さて、「雪国」の冒頭の名文を何度か吟じてみて欲しい。「国境」は、意味的にはクニザカイと読むのが正解かもしれないが、音相的にはコッキョーの方が成功する。「コッキョーノ ナガイトンネルヲ ヌケルト ユキグニデアッタ。ヨルノソコガ シロクナッタ」。まるで幻想の世界に導く呪文だ、と私は長く惹かれてきた。
この魅力に着目し、十二年前に音相理論によって明快に解いてみせたのは木通隆行先生である。先生の分析結果は緻密な論文になっていて見事だが、一部だけ切り出すことができないので、ここで私自身の要約で以下に紹介する。
コッキョーということばの音相の特徴は、非常に強い特殊感にある。意味の通り、遠い異郷を思わせる音なのだ。これが長くナガイトンネルは息の詰まるような鬱陶しさを持った音。これに華やかにして妖しげな音ヌケルトを重ね、あげく魔法のことばユキグニが受ける。
すなわち、コッキョーノでいきなり遠くに連れて行かれた読み手は、次のナガイトンネルヲでまさに別世界へ続く長い闇を経験し、やがてヌケルイトの妖しい華やかさに照らされて、ユキグニデアッタでイリュージョンの世界に辿り着く。
つまに二文目は、前文で辿り着いたイリュージョンの世界でこれから始まる物語への誘いのフレーズだ。壮大なシンフォニーの始まりにも似ている。
それにしても、実時間にして数秒足らずの奇跡である。川端は、どうやって、この奇跡を生み出したのであろう。
と、その専門的立場から解説している(筑摩書房 感じることば 情緒をめぐる思考の実験 P39から)。
同じこの雪国の出だしの短文だが、哲学・倫理学専攻の千葉大学文学部教授の永井均先生は別の視点から
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とは、誰かその経験と独立のある人物がたまたま持った経験を述べている文ではないのだ。もし強いて「私」という語を使うなら、国境の長いトンネルを抜けると雪国であったという、そのことそれ自体が「私」なのである。だから、その経験をする主体は存在しない。西田幾多郎の用語を使うなら、これは主体と客体が別れる以前の「純粋経験」の描写である。
と解説する(NHK出版 西田幾多郎 <絶対無>とは何か P12から)。
このように雪国の出だしの短い文章だが、人の思考の視点が変われば様々に解釈されるものである。
信州松本は、朝から雪国であった。
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純粋経験とは? 主体の二面性ではないのか? 到底 純粋とは?
主体ということばは、「認識主体」「知的主体」「身体的主体」「意識し思考する主体として」とか「意識するこころは、カントにより自己として、私として、主体として意識される」等と使用され、コメントの「主体の二面性ではないのか?」の主体を私、自己と同一として解釈しその二面性とした場合、純粋経験が「未だ知情意の分離なく」「未だ主観客観の対立もない」状況におけるもので、鎌田茂雄先生のことばを借りれば「自己が真の自己になりきること」であり二面性は成立しないと考え、また、純粋とは「真実在」と私は考えます。