思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「ある時」を考える

2012年10月20日 | 仏教

[思考] ブログ村キーワード

 今年の9.11アメリカ同時多発テロ記念日を前に、「9.11を前にV・E・フランクルの思想が語るもの」と題したブログを書きました。

 その際に植木雅俊著『仏教、本当の教え』(中公新書)に書かれていた「怨親平等(おんしんびょうどう)」にかかわるヴィクトール・フランクルの思想評価について書きました。フランクルについての言及であることから取り上げたのですが、この植木氏の著作『仏教、本当の教え』の中でどうしてもわからないところがあり、最近そのことに気がつきました。

 この本の第三章「漢訳仏典を通しての日本の仏教受容」にかかれた「恣意的な読み替え - 道元と親鸞」に書かれた内容についてです。

<植木雅俊著『仏教、本当の教え』(中公新書)から>

 恣意的な読み替え - 道元と親鸞
 あるいは、漢訳仏典の恣意的な解釈もしばしば行なわれた。それは、ストーリー全体から論じたものではなく、一字一字を区切ったり、一句を拾い出したりしての解釈である。その代表的なものが、道元の「有時(うじ)」の読み方である。これは、本来は「有る時」と読むところであり、英語で言えば、once upon a taime か one day である。道元は『正法眼蔵』有時の巻でその言葉に対して、「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」と意義付けした。確かに「有」というのは、バヴァ(bhava)の訳として、「存在」という意味で用いられることがある。ただ、もとの文章中の「有時」の箇所を「有はみな時なり」と読んでしまうと、その文章の前後関係はまったくつながらない。ところが道元は、その二文字だけを取り出して、「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」と解して、「有」と「時」が密接不可分であるとする時間論を展開した。その時間論は面白い。・・・・以下略

<以上同書p140>

 道元さんの『正法眼蔵』の「有時」について語るつもりはないのですが、この言っている意味がわからないのです。

>本来は「有る時」と読むところであり・・・

と書かれていて、その後の英語の記述からも「むかしむかし」=「あるとき」と読むべきところを恣意的に改変しているという箇所です。この「有」という漢字をやまと言葉の「ある(有る)」と読むところをそうしていないといっているように読めるのです。

 やまと言葉の「ある」とはどういう意味か、一般的な大修館書店の古語辞典には、

ある【有る】[自ラ変](連体)ラ行変格活用動詞「あり(有り)」の連体形。
 【有るが中に】たくさんある中でとりわけ。
 【有るか無きか】
  1 存在するか否かの意。
  2 存在がはっきりしない意。
   ア あるのかないのかはっきりわからないほどかすかだ。
   イ 生きているか死んでいるかわからないほど弱っている。
   ウ あるかないかわからないほどみすぼらしい。
   エ はかない、無常だ。

と書かれていて、いわゆる「昔々ある所に」の「場所も地名も定かでない所」の「所」を植木氏は、「時」に代えた表現にすべきで「存在」とするのはおかしいというわけです。

 「有時」を最初に目にしたときに「有(あ)る」「有(も)つ」の「有」で、やまと言葉よりも中国語の「有(you)※oの上部にVの付く発音表記」であると思っていました。従って「存在」「位置する」「持っている」などの意味概念が頭に浮かんでいました。

 西田哲学では「有(あ)る」「有(も)つ」が多用されすべては「存在」と「持つ」の意味に使われています。

 なぜ「むかしむかし」にしてしまうのか不思議です。そして続く文章中に、

<植木雅俊著『仏教、本当の教え』(中公新書)から>

 同じく道元は、『涅槃経』師子吼菩薩品の「悉有仏性」という言葉も読み替えている。もともとは「(一切衆生に)悉く仏性が有る」という意味だったが、道元は、『正法眼蔵』仏性の巻で「悉有は仏性なり」、すなわち「あらゆる存在は仏性である」と読んだ。生き物の「衆生」に限られていたのが、生き物以外のものにまで拡大された。主張している内容はいいことだけれども、それを言いたければ、何もこの言葉から論じなくてもいいのではないかという思いがつきまとう。

<以上同書p141>

ここでは「有」は存在であると解釈しています。結論的に植木氏は何を言いたいのかというと「道元の時間論は永遠性を見ているが、歴史性がない。それに対して、日蓮の時間論には歴史性があります。」という仏教学者の中村元先生が言及したという語りを強調したいわけです。

 ところがこの結論を紹介する経過の中で京都学派の哲学者の三木清先生の言葉を好意的評価で紹介しています。

 現在は力であり、未来は理想である。記録された過去は形骸に過ぎないものであろうが、我々の意識の中にある現実の過去は、現在の努力によって刻々に変化しつつある過去である。一瞬の現在に無限の過去を生かし、無限の未来の光を注ぐことによって、一瞬の現在はやがて永遠となるべきものである。(1917年「友情 ー 向陵生活回顧の一節」)

 個人的にこの言葉には納得しました。端的に禅的な時の存在が語られ京都学派らしさが出ていると思います。

 ここで思い出すのがフランクルの次の言葉です。

「もはや何ものもそれらに手出しすることはできません。ひとたび起ったこと、ひとたび過去になったことは、もはやこの世から消し去ることはできないのです。ひとたび過去になったこと、それは一回的かつ《永遠》過去になったのです」(V・E・フランクル著山田邦男監訳『意味への意志』春秋社p70から)

まさに仏教的な「永遠の今」の言及です。「歴史性」とは何か、西田哲学には歴史的行為という言葉がありましたが、歴史性がなければ意味なき行為の連続の存在しかありません。

 「有」という「存在」と「時」という「時間」すなわちハイデガーの『存在と時間』に「有時」という言葉が比較されることに植木氏は「無理な読み方」としていますが(p141)、その方が疑問です。

 ここまで来ると原始仏典の「一夜賢者の偈」を思い出すのが普通で、植木氏も上記の三木先生の一節の次に次のように書いています。

<植木雅俊著『仏教、本当の教え』(中公新書)から>

 原始仏典の『マッジマ・ニカーヤ』においても、釈尊は現在の重要性を次のように語って、

 過去を追わざれ。未来を願わざれ。およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである。また未来は未だ到達していない。そして現在のことがらを、各々の処においてよく観察し、揺らぐことなく、また動ずることなく、それを知った人は、その境地を増大せしめよ。ただ今日まさに為すべきことを熱心になせ。(中村元訳)

 このように、仏教が志向したのは、<水遠の今>である現在の瞬間であり、そこに無作の仏の命をいかに開き、顕現するかということだったということを日蓮は主張しているのであろう。
 以上のことを踏まえると、成仏とは、この「我が身」を離れることではなく、今自分がいる「ここ」を離れるものでもない。要するに、「今」、「ここ」 にいる「我が身」に無作の仏を開き、具現するということである。
 以上が日蓮の時間論の一端であるが、これも読み替えによる実り豊かな結果である。

<以上同書p150>

 これについて否定するつもりは毛頭ないのですが、この後に上記の「道元の時間論は永遠性を見ているが、歴史性がない。それに対して、日蓮の時間論には歴史性があります」という話が続くのですが疑問を持ってしまうのです。

 ここでは具体的に言及しませんが植木氏は親鸞さんについても時間論ではありませんが恣意的な読み替えを批評します。

 仏教思想の根底に流れるものはみな同じだと思うのです。中でも時間論という現在、過去、未来の取り扱い認識は、すべて一緒だと思うのです。

 今朝どうしてこの話を書こうかと思ったのかということですが、ちくま学芸文庫から『阿含経典』(増谷文雄編訳)の第三巻が最近出版され、ここに上記の「南伝 中部経典 131 一夜賢者経」が書かれていて上記の恣意的読み替えの話を思い出したのです。

上記の植木氏の文章の中に、

>「今」、「ここ」 にいる「我が身」に無作の仏を開き、具現する。

言葉があります。これはどう見ても「自然(じねん)」の思想的背景の現れだと思うのです。

「みずから」然り。

「おのずから」然り。

すなわち「自ら然り」「自然」という存在の顕現です。法の現れです。そこには過去という体験の財産があるわけで、その一つ一つが現れの集積で今の様(ざま)になる。

 そこには耐え抜いたこともあれば避けたこともある。生れること自体が「生ること」、時々このことを言いますがやまと言葉には「ある」に「生(あ)る」という言い方があります。

 「生(あ)る」は、「神や天皇など神聖なものが出現する」ことを意味します。それが現在まで引き継がれている「生(う)まれる」なのです。

 時も瞬間瞬間に立ち現れます。すなわち生れ続けるわけです。それが「有る」という存在になるわけで、やまと言葉の「ある(有)」をこのような視点から思考すると「有るや無しや」が一元一体的であることがわかります。「あるところに」といわれると脳裏には自然と「リアルな証明」や「厳格な証明」で立証されるものではありませんが存在が浮かびます。

 一つ忘れていましたが、上記のことから経験ということも当然のように生まれることに重なることがわかります。

 「ある」というものが、何であるのか。「有る」「在る」「生る」「由る」と日本語の不思議でもあります。

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