早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ 東南アジア史のなかの第一次世界大戦』(人文書院、2012年)を読む。
本書は、第一次世界大戦前後に、東南アジア諸地域(シャム=タイ、仏領インドシナ=ベトナム・カンボジア・ラオス、英領ビルマ、英領マラヤ=マレーシア・シンガポール、オランダ領東インド=インドネシア、アメリカ領フィリピン)における植民地化と国家形成への模索についてまとめたものである。
確かに、欧米諸国による領土争いが熾烈であり、日本は後発の侵略国に過ぎなかったことを俯瞰できる。もっとも、日本は資源獲得という本音を、大東亜共栄圏や欧米列強からの解放などといった欺瞞で包んでいた。
気付かされたことは、こうした近代植民地化のプロセスのなかで、各地域のモノカルチャー化が進んだということだ。コメはその代表的な存在であった。東南アジアの水田を視て、手仕事の見事さや、水循環の実感を印象として持っていたのだったが、そのような現在の切り口だけでは明らかに不十分なのだった。そうではなく、この100-200年の権力や世界市場による変化を幻視しなければならない。
たとえば英領下のビルマでは、インド大反乱(セポイの乱)(1857年)やアメリカ南北戦争(1861-65年)による世界コメ市場の逼迫を受け、コメの生産・加工を中心とするモノカルチャー型輸出経済が進展した。
また、第一次大戦中に、英国は植民地のビルマからインドに大量のコメをまわし、ビルマから英領マラヤへの輸出が急減し、マラヤはやはりコメ輸出を最重要な輸出作物にしていたシャムにそれを求め、その結果、コメ価格の急騰やペナンでの暴動を招いた。
このコメ不足や、オランダ経由でドイツにコメが入らないための英仏による禁輸、シャムの参戦(1917年)などにより、オランダ領東インドではトウモロコシなどへの転作を増やし、水田と畑地の割合を逆転させた。
世界大恐慌(1929年)では、ナショナリズムをともなわなかったインドシナ経済は大打撃を受け、コメ価格暴落により失業者が溢れた。
このように、コメだけを取ってみても、如何に植民地東南アジアでのモノカルチャー化が地元の柔軟性を減じ、経済や大国の意向に左右されやすくなったかがわかる。アジア諸国を訪れて行うべき幻視とは、そのような歴史から、根っ子たる風景がどのように変貌したのかを想像することなのだろう。