李恢成『流域へ』(講談社、1992年)を読む。最近講談社文芸文庫版で復刊されたが、上下巻でそれなりに高いため、単行本を古本で買った。
中央アジア、カザフスタンやウズベキスタンには、多くのコリアンが住んでいる。本作は、彼らの現在と歴史を追って中央アジアへと旅立つ在日コリアンの小説家の物語であり、サハリン出身ということからも、李恢成本人が反映されているように思われる。かつて朝鮮半島から中国東北部、またソ連へと多くの人々が移り住んだ歴史がある。1937年、スターリンは国防と管理のしやすさのため、獄寒の荒地へと、コリアン17万人を強制移住させた。まさにディアスポラであった。本作でも「三七年問題」として繰り返し追及されている。
確かに冗長な小説である。しかし、そうでなければならない小説でもある。中央アジアに住む「コレサレム」にとっても、サハリンを逃れ日本に住む在日コリアンにとっても、また彼らが想いを馳せる、北朝鮮や韓国に渡った人々にとっても、ここで言う「民族」とは何か、「異郷」とは、「故郷」とは何か、人が生きるとは何か、そんなことを問うには、冗長でなければならないからだ。
勿論、共産主義というイデオロギーの嘘も、日本にもソ連にも遍く違う形で存在する差別感情も衝く。
「日本のテレビや新聞の世論調査では、「日本人に生れてよかった」というのが国民的常識に近いらしい。しかし、「日本に生れてよかった」といっている日本人のかなりの層は「日本に生れて困った」とか「日本でくらしていてつらい」と思っている在日外国人のことを知らない国民でもあった。」
しかし到達するのは、民族や血や土地という呪縛をやや超えようとする人間観のようなものであった。ここに登場するクリミア・タタール人の独立運動家は、この複雑な流域にあって、在日コリアンの小説家にパレスチナのことを問われ、ロシア人の妻をふりかってから、「わたしにはいつも人間しか存在していません」と静かに言う。
意識しようとしまいと、誰もが流域に、流刑地に存在する。そこに居るとは、たまたまそこに居るに過ぎない。
「「わたしはひとの立場になって人間は考えることができない存在だと思っているのですが・・・・・・」 愈真が考えこみながら行った。 「・・・・・・でも、こうも思いますね。他人の立場がわからなければ自分の存在も知ることはできないもんです」
「どういうことでしょう?」
「ええ。人間の苦しみはそれほど深いということでしょうか。それを理解し、なにかを乗りこえるのは至難のわざです。恋というのも双方の立場が理解されないとうまくいかないものですからね。失礼だけど、あなた方の場合も、そうだったんじゃありませんか」
小説家はホテルのベッドで寝ることができない。ベッドが、長年にわたり苛烈な目をみたであろう人の形に変わり、「万人用の鋳型」になっている「寝棺」であったからだ。彼はこの「寝棺」を、「三七年問題」の象徴のように考えつつも、その考えを超えようとする。結論など出ることはない。迷い悩まなければならない。
「だが、寝られぬ理由を、ひとえにこの「寝棺」のせいにしてしまうのはなんと安易なことだろう。ひとはそんなに神々しくはない。生きていくときの良心の疼きが悪夢を生み出しているのもたしかだった。ひとは他人のことばかり思って夜をすごすほど人間に忠実でもないのだ。このベッド、「寝棺」になにもかも押しつけてしまうとき、人間のあらたな偽善や不幸がはじまるのかもしれない。」
●参照
○李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
○李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
○李恢成『伽�塩子のために』
○朴三石『海外コリアン』、カザフのコリアンに関するドキュメンタリー ラウレンティー・ソン『フルンゼ実験農場』『コレサラム』
高いですよね。河出文庫の『千のプラトー』も1,200円が3冊です。ちくま文庫はあのベタベタしてすぐ駄目になるカバーなのに高いのがどうも解せません。小さいのが付加価値?