津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■なんば走り

2024-03-10 14:51:41 | 歴史

 名古屋ウイメンズ・マラソンで安藤友香選手の優勝は、大変うれしいものだった。
私はTVでは15キロ過ぎ程から見始めたが、安藤選手の独特のフォームでその位置を確認することができ、後半の追い上げが見事だった。
肩の動きが少ない「なんば走り」、我々熊本人にはかっての100mランナー末續選手の走りを思い出す。
私は、5階に住んでいるが、時折階段で上り下りをすることがあるが、特に登りでは「なんば」で上ることにしている。
足の運びと肩の運びを一緒にすると、80段程上るのには82爺様でもそう苦にはならない。

 私がいつも感心するのは参勤交代の道中のことだが、毎日40キロを船旅5日として20~25日間歩き続け、良く落伍者も出さずに歩けるものだと思うのだが、たぶん「なんば歩き」ではなかったかと密かに思っている。
現代の走法では足の動きとは真逆に両手を強く振って推進力にしている。
走ることが苦手な私などは、腕を持ち上げておくのに疲れてだんだん手が下がってくると、推進力を失い学生時代の長距離走ではいつも100人中60位くらいという鈍足であった。
もし、江戸時代に生まれていれば、とても江戸にはたどり着けない気がする。
参勤交代の人々は、体力を消耗しない「なんば」で歩いていると、私はひそかに思っているのだが、残念ながら「なんば」という言葉は江戸時代には存在していないようだし、「参勤の歩き方」の論考などもみうけられないし、さて本当かどうかは神のみぞ知るである。
参勤では「足半」という、あど部分が欠けた草履で歩いたとも聞くし、そうであればやや前傾で足早に歩いていたのではなかろうか。
今日の安藤選手の「なんば走り」の堂々たる姿を見て、「なんば歩き」に間違いないと確信に近くなりつつある。
おめでとう、安藤友香さん。

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■手討達之扣-(19-2)清原寿吉郎・貴田小十郎手討不覺

2024-03-10 08:27:55 | 史料

  文化七年午二月尾藤多賀丞組
       口上之覚
   私育之従弟久光丑蔵儀去る十日夕八半比永山八郎助是法村抱屋敷江罷越居候由ニ而罷出途中
   より能勢佐左衛門嫡子能勢熊之允・伊藤平左衛門二男伊藤忠馬・奥村次郎助二男奥村安平・明石孫右衛門
   二男明石鉄弥・畑尾惣兵衛三男畑尾佐蔵・水足平九郎二男水足正記同道仕候間右八郎助抱屋敷江
   立寄申候而連之内奥村安平・明石鉄弥両人は滞其余は未タ水前寺稲荷ニ参詣仕猶又かへりに
   八郎助抱屋敷江罷越八郎助嫡子永山富八参り居候間酒杯振舞之内七ツ半ニ相成奥村安平・伊藤忠馬
   両人は追々と先キニ罷帰候 其後暮六ツ時まへ能勢熊之允・明石鉄弥・水足正記儀もまかりたち
   候節丑蔵儀隣家お掃除觸次郎兵衛と申者宅江居申候間呼出シ右三人ゟ帰り可申と再三進メ
   申候得共承引不仕内的場甚右衛門二男的場泰次八郎助屋敷ゟ帰り懸り是又帰候様相進候得共罷立不申
   候ニ付左候ハゝ自分ニ任置候而熊之允・鉄弥・正記は先ニ罷帰り候様申聞候間三人は引取ニ相成猶又泰次ゟ
   罷かへり候様申聞候処其場ゟ走出シ申候間藪影暗キ場所にて見失申候あいだ先ニも参り平野七兵衛
   ニ男平野前(?)次・木庭傳右衛門嫡子木庭勝次同道仕村中を余程まいn尉り候跡ニ騒敷御座候間たちかへり
   候得共畑尾惣兵衛二男畑尾牛兵衛丑蔵刀を押取居候所迄まハりかゝり申候處丑蔵脇差迄ニ而罷
   在自分は人を疵付申候而切腹仕度由始末之儀承り候得共相分不申候ニ付病乱と見受其旨不申納
   木庭傳右衛門嫡子木庭勝次・平野七兵衛二男平野前次・渡辺加藤太ニ男渡辺軍記抔まいり合丑蔵
   儀は八郎助抱屋敷隣家次郎兵衛宅へ手堅ク仕置申候 尤疵付申候相(両)人は清原寿吉郎・貴田権内名
   跡相続貴田小十郎ニ而御座候 其後十一日暁八ツ比緒方新右衛門・田添源太左衛門嫡子田添源之進的場甚左衛門
   嫡子的場傳太五列中嶋次郎作宅えはいり丑蔵様子為知申候間早速丑蔵父久光善兵衛且五列
   末松佐助江知せ申候処無程善兵衛・佐助儀も次郎作岳江まいり右之様子知せ参り申候三人ゟ丑蔵始末
   押糺候処弥病乱ニ紛無之由ニ御座候間善兵衛儀はまかりかへり七ツ半比私在宅江人を立申候あいだ
   無程夜明ヶ申候間中嶋次郎作・末松佐助并一類荒瀬市之允・熊谷十郎是法村江罷越丑蔵様子且
   清原寿吉郎・貴田小十郎容躰をも見届十一日五ツ時分丑蔵儀は夜前ゟ付添候面々ゟ受取候而右次郎作・
   市之允・十助手錠を囲あんだにて出府所江連越候て手堅ク仕置申候 尤前文之次第御座候得は丑蔵儀
   清原寿三郎・貴田小十郎遺恨無之儀ニ而病乱之様子ニ相聞申候へ共河野桃寿と申醫師ニ見せ申候ところ
   弥病乱ニ相違無之由ニ御座候 私儀在宅ゟ罷出候時分は十一日九ツ時分ニ而丑蔵儀は出府所江連越ニ相成居候間
   今以弥手堅仕置申候 前文之儀は丑蔵病乱ニ付其節之連レ其外之面々ゟ承届申候趣ニ御座候 此段
   早速御達可仕筈ニ御座候処其節丑蔵連レ其節懸合之面々大勢ニ付問合彼是延引ニ相成申候 此段
   御達仕候 以上
      二月十六日        久光八助
        完なし

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■三月十日細川忠利絶筆

2024-03-10 06:57:23 | ご挨拶

              細川忠利 - Wikipedia ウイキペディアから引用

祐筆がしたためた表面の文章ではひどい下血に状態などが記されていて、何とか廿日ころには熊本を出立したいと記している。
良く知られる忠利の絶筆とされる文面(下段写真)は、裏面に書かれているものだが、表面にあるようにまだまだ気力がある中で最後の書面になるとは本人迚御折ってもいなかったことであろう。
それ故に、この書面の表裏を眺めると、いささか感傷的にならざるを得ない。
知らせを受けて八代から駆け付けた父・三斎は対面してすぐ「これはもう駄目だ」と感じて、江戸の光尚に書状を出している。
三月十七日花畑邸で死去する。

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       三月十日書状(1411)全文

   我等煩之儀ニ付而、御老中へ松下掃部・熊谷孫兵衛下候間、申候
 一、昨日も以飛脚申候つる、疝氣、昨朝事之外能候ニ付而、其段昨日之書状ニ、自筆ニ而は
   しかきニ申候、昨晝こしゆニ入候ヘハ、それ故候哉、上氣候而、右之手足なへ、舌内難叶
   候、然は、去ル七日より大便ニ血下り候、七日ニ四度之内夜ル三度、八日ニ九度之内夜三
   度、九日ニ九度之内夜七度、今日十日四ツ過迄ニ一度、下り候、今迄三十六度血下り申
   候、血下り様之儀、多ク下り候時ハ、つねのさかつきニ一度ニ三盃ほと、又ハ二はい一は
   いほと下り候、少つゝハうすく成候事
 一、御年寄衆へも状を進候間、伊順齋・曾丹州へ談合候而、御老中へ右之趣可被申候、かすか
   殿へも文を進候間、是へもくハしく可被申候、御年寄衆へ之状之寫進候事
 一、何とそ仕、廿日ニ立申度覺悟ニ候、田舎ニてハ養生不成候間、成ほとニ候ハゝ、上り可申
   と存候事
 一、細川家之系圖之儀、おそからぬ儀ニ候間、よく/\相改、従是可申入候事
 一、食事ニ替事なく、氣相ニ別ニさゝハる儀も無之候、猶両人口上ニ可申入候、恐々謹言
                         越中
    三月十日                  忠利(ローマ字印)
       肥後殿
         進之候 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          裏面(忠利自筆)
                                         

                  右のてくひより
                  手なへ申計ニて候
                  シに可申様ニハ
                  無之候可心安
                  候
                      以上

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