津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■隱見細倉記-2

2024-04-02 07:12:31 | 史料

1、越中守殿腰物御徒目付衆預り事 (記事不明)
1、越中守殿中ノ口ゟ平川通退出事
   一、御目付衆ゟ被仰付候ニ而細川殿供廻り平川口へ廻り候得と被仰渡■候 平川口へ廻り下乗ゟ中ノ口へ越中守乗物入れ

     中ノ口縁ゟ黒鍬衆受取御座敷へ輿上ケ細川殿家来供頭以下之侍御座敷へ上り越中守殿乗物ニ抱乗平川口ゟ退出也
     尤殿中ニ而御醫師衆被仰付直ニ大疵を縫被申由酢ニ而洗ヒ申儀最早元気も薄く候ヘハ決而難成由西玄哲本道御目見
     醫師岡田昌俊被申候間右之療治ハ無之候と也
   一、越中守殿下城之節御醫師衆附添参可申之由被仰渡外科西玄哲■本道武田叔庵■岡田昌俊■薬□碗持せ越中守殿駕脇
     二付添龍口屋敷ニ被参直ニ滞留ニ而越中守殿様躰段々御注進被申上候也
1、小用所繪圖之事       (省略)
1、水野監物殿江修理殿御預之事
   一、當日水野監物殿ニも登城之事也 則修理殿を為迎左之通人数平川口迄罷越候

   一、迎人数之次第    (省略)
     右之通之人数ニ而引取被申候 監物殿ニも退出ニ付而修理殿引取候跡ゟ押ニ而者無之忍かしめ退出あられ候由 右
     迎之外ニも遠見之もの被差出候由未実説をしるす
1、大御目附衆目附衆ゟ書上之事
   一、今朝五ッ半時大廣間に手負之者有之候由御徒目付部屋ニ居合候者共不残欠(懸)付私共も罷越見申候処大廣間口ノ
     間北ノ脇ニ手負申候者罷在候得共血顔并惣身血多付候而見分候付相尋候処細川越中守と挨拶仕候故相手之義尋申候
     処ニ見覚不申候 上下嫡之者之由申聞候 大廣間小用所其外所々為相尋候 尤早速御醫師外科懸り越中守養生為仕候 且
     又相手尋候内脇差抜刀ニ而小用所廊下ニ捨置有之候ニ付所々相尋候処ニ小用所奥雪隠ニ隠レ罷在候ニ付早速御徒目
     付御小人目付差添罷在候名承候處ニ板倉修理成由申聞候 其後何も立合修理様子相尋申候處誰共不知小用所江罷越
     候者脇差抜切り付申候間私頃も抜合打申候 其外一向覚不申併人ニ疵付申候間難相立存候而懐中ニ有之候鋏ニ而髪
     切雪隠ニ罷在候 脇差も持候而ハいかゝと存候而捨申候由申聞候 全乱心之躰ニ相見申候由 依之修理儀ハ蘇鉄ノ間脇
     小部屋ニ入置御徒目付御小人目付附置申候 以上

        八月十五日         石川土佐守
                      水野對馬守
                      中山五郎左衛門
                      神尾市左衛門
                      土屋長三郎
                      横田十郎兵衛
                      橋本阿波守
                      菅沼進三郎
                      八木十三郎
                   西丸御目付
                      神尾伊兵衛
                      中嶋彦右衛門
                      加藤喜左衛門
1、越中守殿手疵容躰之事
      手負
   一、首筋際横七寸程    一ヶ所
   一、左之肩七寸程     一ヶ所
   一、右之肩五寸程     一ヶ所
   一、背中右之脇腹ゟ左の脇腹迄壱尺五寸程
   一、鼻之上耳之脇     一ヶ所
   一、頭小疵        ニヶ所
   一、左右小疵       四五ヶ所
        八月十五日      御醫師
                     本道名
                     外科名
     右之通之由初發療治ニ相懸り申候御番醫師外科申聞候
        八月十五日      大目附
                   御目附
                御目見醫師
                   岡田昌俊
              右御礼ニ罷出居合申候付療治手傳仕候由

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Unknown (ツツミ)
2024-04-03 20:57:01
津々堂様
「越中守殿中ノ口ゟ平川通退出事」の記述を見ると、『隱見細倉記』編者は、当事者による一次史料である『生田又助覚書』の退出場面を参照しているものの、江戸城の構造や作法について疎かったためか、内容を正確には受け取れなかったように思います。

『生田又助覚書』によれば、事件発生当時、宗孝公の供回りの内、又助等側近は本丸御殿の外、乗物、陸尺と数人の供は下乗門外の下乗、残りの供回りは、将軍家重に謁見後藩主等が回る予定の大御所吉宗の居所である西丸下の下馬に控えています。
『隱見細倉記』には、「御目付衆ゟ被仰付候ニ而細川殿供廻り平川口へ廻り候得と被仰渡■候 平川口へ廻り下乗ゟ中ノ口へ越中守乗物入れ」となっていますが、覚書に見る実際は、最初に御殿の外に控えて居た又助と伊藤忠左衛門が呼び入れられ、宗孝公の介抱をした後、「御駕共両人〔又助、忠左衛門〕御呼被成候跡ニ手御徒目附衆此方様之御城使を召連れ下乗橋より表御門通り中之口江通候由之事」とあるので、すでに下乗から呼び入れられていた乗物に乗せ、殿中は公儀陸尺、御殿の外は黒鍬者が乗物を舁き、乗物は平川橋の橋際で細川家の陸尺に渡されています。西丸下馬に控えていた供回りは、「惣御供ハ西ノ御丸下馬江廻り居候ニ付平川江廻り候事難成漸刑部卿様御屋敷前ニ而馳付候事」というように、西丸下馬からの距離が相当に有るため平川口には到着しておらず、一ツ橋邸の辺りで宗孝一行と鉢合せのような形で合流した、という状況だったようです。

もしも、『生田又助覚書』が現存していなければ、『隱見細倉記』やその他の後代の書物にある誤解を含む記述が、史実として扱われたかもしれず、史実を正確に伝えていく事の難しさを感じます。事件の顛末を詳細に記録した生田又助と、その覚書を現代にまで残してきた永青文庫に感謝です。

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