続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

実証主義。

2016-04-30 07:23:24 | 日常

 『ロゴスドン』の投稿テーマは『実証主義とは何か』だった。

 辞書を引くと「いっさいの思弁を排し、認識を経験的事実にだけ限る立場。また経験によって検証されない命題は無意味とする立場」とある。

 これって、わたしのような不勉強なものが唯一手段として用いている立場ではないか。
 考えれば考えるほど、わたしはこのような手法で単に書き散らしているだけであることを告白するようなものに思えて、どうしても自身に帰してしまうことから逃れられなかった。

 その挙句、実証主義の本当の意味を知らずに、見当違いなことを書き失笑を買うだけではないかという不安が募り、締め切り近くになっても書くことが出来ない。
『ロゴスドン』への投稿は52歳から17年間一度も外したことはなかったのに、今回だけは迷った末、初めてパスさせていただきました。

 宮本明浩先生、ごめんなさい。劣等生ですが、宮本学級のビリ婆として付いていきたいと思っていますので、見捨てないでください。


マグリット『空気の平原』

2016-04-30 06:48:36 | 美術ノート

 『空気の平原』
 空気に平原なんて表現があるだろうか。見えないものであり、どんな凹凸をも囲む流体である。
 不穏な空を背景に肥大化した一葉が、岩だらけの荒地にあたかも樹のように立っている。この一葉は背後から光を受けている、逆光というわけだけれど、太陽の位置が雲に被われているせいもあって不確定である。この一葉は太陽を隠しているのかもしれない。

 全体、条理を逸した光景である。

 草木の一つも見えない荒地、遠景の山々にも緑(植物)の気配を感じない漠とした風景に突如出現したとしか思われない肥大化した一葉の擬樹化(?)
 構成、成り立ちから言ってあり得ない暴挙である。

 というより、この作品の場合、タイトルの暴挙ではないか。
 ありそうで、絶対に無い『空気の平原』
 鑑賞者は空気の平原を肯定的に探し、無いことに行き着く。この否定は作品全体に及ぶ。

 あり得ない設定、状況を在るとして描く。タイトルも共犯である。
 自然の条理の虚を衝くこの作品は、《絶対的な真理の証明》を含有している。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』296。

2016-04-30 06:16:05 | 宮沢賢治

ぼくはそのひとにほんたあうに気の毒でそしてすまないやうな気がする。ぼくはそのひとのさいはひのためにいったいどうしたらいゝのだらう。)ジョバンニは首を垂れて、すっかりふさぎ込んでしまひました。


☆記(書いていること)は独(わたくし一人)の祈りである。
 趣(考え)を推しはかる個(一つ一つ)がある。


『城』2301。

2016-04-30 05:48:00 | カフカ覚書

私は、どうしてそういうことになったのか、いまで桿も納得できないでいるのですが、とにかく長いあいだ消防ポンプのまえに立っていて、やっとのことで父がポンプのそばから離れたときに、ソルティーニがいうことに気がついたのでした。あきらかに、さっきからずっとポンプのうしろの槓桿にもたれかかっておられたのです。


☆わたしはどうしてそうなったのか、今でも説明できないでいるのですが、とにかく長いあいだ精神的な高みの前で、祖先が自由になったときソルティーニがあることに気づいたのでした。
 明らかにずっと精神的な梃子の点に傾いていたのです。


マグリット『透視』

2016-04-29 07:03:09 | 美術ノート

 『透視』
 卵を見て成鳥を描くという図である。卵の中に鳥を見る、直視ではなく透視。
 イメージ図は、卵から雛が孵りやがて成長になるというプロセスを知っているから描けるものである。
 サイクル・循環における一刹那を生きており、その複合的な集合が社会であれば、存在物はそれぞれ異なる時間を生き、交錯しているわけである。

 作品の中の画家は循環の情報を描いている。卵は過去であり、現在であり、未来である。鳥も然り。
 その上、卵はテーブルから転げ落ちるかもしれない位置に置かれており、描かれた画布もイーゼルから浮いているし、少々前に傾いている。イーゼルの上部にあるべき留め具が見えない。要するに危機一髪の状態でもある。

 背景は何もない、室内を想像するが、そうでないかもしれない。画家は椅子に座っているようだが、立っているのかもしれない。絵皿を持つ左手の指も奇妙ではないか…すべてが少しづつ不穏なのである。

 この作品、あたかも画家が卵を透視して鳥を描いていることが主眼にみえるが、じつは鑑賞者の眼差しを試しているのではないか。超能力による画家の眼差しではなく、透かして画の矛盾を探る眼差しへの問いではないか。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』295。

2016-04-29 06:41:13 | 宮沢賢治

(あゝ、その大きな海はパシフィックといふのではなかったらうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、だれかが一生けんめいはたらいてゐる。


☆他意を解き表すのは、散(バラバラにする)の縷(連なる糸)のようである。
 僕(わたくし)の回(まわる)章(文章)で、詮(明らかにする)。
 帖(ノート)には、普く等(平等)の徴(前触れ)がある。
 推しはかり、裂(バラバラに離)し、換(入れ替える)と、逸(隠した)章(文章)がある。


『城』2300。

2016-04-29 06:27:14 | カフカ覚書

アマーリアだけは、ポンプのことなんか頓着せず、美しい晴れ着姿でそばに立ったままでいました。だれも、あの子には文句をつけようとはしませんでした。わたしも、幾度かそばに走り寄って、腕をとりましたが、アマーリアは、口もききません。


☆アマーリア(マリア/月/伝説)だけは皮肉も気にせず、美しい衣服で節操のある様子でした。あの子には、だれも、面と向かって言うものがありませんでいた。わたしも、幾つかの汚点の継続とその流れを理解しましたが、彼女は黙ったままでした。


悲しみ。

2016-04-28 07:20:35 | 日常

 商店街まで出かけたら、最近まで近所に住んでいたAさんにばったり。
「元気でしたか、今、何しているの?」と聞くと、
「無職です。でも、もうすぐ社会復帰できるかもしれません」という。

 五十くらいになったのだろうか、若さは失せているが十分働き盛りに見える男の態である。
「実は、自動車事故に遭いましてね」
「ずっと前でしょう」
「ええ、でもその後遺症が出ているんです。頭痛が・・・。事故の相手に逃げられましてね」という。

 以前、「自分は事故に遭い、仕事を失ったが800万円ほど賠償金が出るので、それを交渉している最中です」と聞いていたが、どこも何ともなさそうだと思っていたら、
「首です、首が痛くてたまらないのですが、医者が思うような診断をしてくれないので困っているんです」という。

 そのうちに、母親が亡くなり、独り身のAさんは生活保護を訴えるようになった。いくつかの仕事を紹介されたりしたが、結局うまくいかず、その借家からも退去し今に至っている。
「あなたの家は、もともと立派な老舗でしょう。もっと誇りを持って頑張りなさいよ」と励ますと、
「老舗って言ったって、分家ですから意味ないですよ」という。
 かつて親類からも借金をしていて、これが尽きたら云々と語っていたことがあった。

「僕には特殊な技術があるんですよ。」と、延々。「この技術を後世に伝える義務があると思うんですがね」という。
 高級木材を歪めさせずに乾燥させる方法ということだった。

 彼はどんな風に食いつないでいるのだろうか。
 彼も哀れだけれど、聞いているわたしも悲しみがズシンと肩に被さるのを感じた。
 雑踏の中に消えたAさんに、もう会うことはないかもしれない。


マグリット『絶対の探求』

2016-04-28 06:35:44 | 美術ノート

 『絶対の探求』
 絶対とはそもそも何であったのか。他と比べるものがないこと(対立を超えたもの)、何の制約も受けないこと。肯定あるいは否定の強調。
 葉の形に葉脈だけを残した樹、山の端に沈む太陽、そして低い地平線と高い空。

 葉脈と見えるものは絶対に葉脈ではありえず、絶対に根毛である。
 非常に大きな巨木であるはずなのに、透けて見える一枚の葉という印象から、はかないとさえ錯覚してしまう。
 樹の枝葉と思えるものが、平面状で向こうが透けて見える一枚の葉の形をなし、しかも、凝視すると、それすら虚偽であることが判明する。幾重にも重ねられた非現実の空疎。

 ここにある絶対の真実、無条件に肯定できうるものとしての太陽、動かしがたい宇宙の真理に立ち向かう絶対はあるだろうか。

 『絶対の探求』は一に太陽であり、立ち向かう絶対があるとすれば、太陽の絶対的な否定ではないか。
 太陽の光を絶対に受けることのない樹の根毛を高らかに掲げること、これは死を意味する。

 『絶対の探求』、突き詰める先に見えるのは『死という絶対』に他ならないという仄めかしである。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)