Nonsection Radical

撮影と本の空間

輝きの理由

2011年07月29日 | Weblog
実際のところジョシサッカーは観ていない。
朝食の時に老親がつけたテレビのニュースで一部映像を観ただけだ。
みんなで優勝カップを持ち上げるシーンだ。
輝いていた。

後日、ジョシサッカーの事を少し検索してみた。
下部組織があり、小学生ぐらいからクラブに所属しているコもいるようだ。
会社のオッサンにもそれとなくジョシサッカーについて訊いてもみた。
ジョシサッカーのどこが面白いのかと。
何年も前から俺はジョシサッカーを知っているんだ、どや!という顔で、satoboの見解(たった1分ほどの決勝戦映像を観ただけの感想)を述べると、さもバカにしたような顔でフンッと笑い何も答えない。
ああ、これは訊いても無駄な事を訊いたと後悔した。
と同時に、野球を語る自称「つう」と同じ世界がオヤジにはあるのだと理解した。
スポーツ、おもに野球やサッカーだが、それを語りたがるオヤジは多い。
もちろんそんなオヤジはプロ野球で活躍した事もなく、Jリーグで人気を得ていたわけではなく、せいぜい高校の部活でやっていた程度の、実力にしたら二流以下の元選手である。
そういうオヤジがワケ知り顔で、評論家よろしく采配を得々と語り、「俺なら」こうすると言う。
もちろん誰も評論してくれとも、監督してくれとも要請はしないし、そんな実力もない事は明白なのだが、ワケ知り顔で自分には出来もしない事を「披露」する。
ところがそんな話を聞いていても、しょせんシロートの外野の放言であるから、なんの役にも立たないし、実際意味もない。
会社の方針を居酒屋で個人名をあげてあげつらう酔っぱらいオヤジと同様で、会社から方針に対して意見を求められる事もないし、直属の上司以外にその存在を知っている人がいるのかもわからない、つまりどうでもいい人達が意味のない事を言っているだけなのだ。
その「シーン」と重なり、訊いても無駄な事を訊いてしまったと思ったわけだ。
身近にあいにくジョシがいないので、あの優勝シーンを観ての感想を聞けないのだけれど、そのシーンを観てサッカージョシになりたいと思ったジョシ、実際今もサッカーをしているジョシに感想を訊いてみたい。

フィールドにいない時の選手達は、オヤジ的スケベ心から言って美形の顔立ちではない。
でも、あの優勝カップを持ち上げた時の彼女達の輝きは美しく、チャーミングであった。
また、涙ではなく笑顔であったのも魅力を増した。
あの輝きの秘密を知りたかったのだが、オヤジに訊いた事が間違っていた。
あの輝く笑顔を観て、わたしもああいう笑顔を持ちたいと思ったジョシに理由を訊かなければならないのだった。

オヤジは技術が、スピードがと「他人」を評論するが、ジョシは自分が「輝ける」かを考え、サッカーを観た。
そんな「推論」の答えを知りたいのである。
コメント
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