ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




まつの屋旅館、たつた旅館。台東区東上野3-14。1987(昭和63)年頃

古い家が並んでいるが、見たところ戦後の建物だろう。たつた旅館の右のビルは秋田県東京宿泊所。写真左の赤い自動車の後ろが松の湯。その右の家に三味線のばちの形の看板がかかっているが「富士琴三弦」と書かれている。



トンネル長屋。東上野3-12。1989(平成1)年7月23日

酒井不二雄(当ブログ「西町小学校、旅館晴花園/東上野2丁目」参照)が「トンネル長屋」と名付けた五軒長屋。トンネルは塞がれている。「たこやき」の提灯と「氷」の旗を揚げているのは華屋。手前角の家には「岩井眼鏡店」の看板がまだ残っている。後ろの煙突は松の湯。



松の湯。東上野3-12。2006(平成18)年11月29

建物は代わったが酒井不二雄がかよった銭湯である。『東京路上細見3』には、「戦災で半分焼け、戦後、建て替えた」とある。

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コメント
 
 
 
上野駅前通り (ひで爺ィ)
2014-06-02 19:26:16
ここからだと上野駅に5分。
S40年の頃は駅前からずっと旅館がつながっていたんですよね
旅行客も、修学旅行生もそれはもう凄い賑わいでした。
まつのや旅館の同級生の美智子ちゃん、とても可愛いくてフランス人形のようでした。
琴やさんの店先に毎年お祭りの神酒所が出来て神輿を担ぐ子どもで黒山の。
お風呂券で松ノ湯に。
この松ノ湯、TVドラマ「時間ですよ」森光子とか堺正章とか。
ここがモデルになって、親父さんがチョコチョコ出てました。
内湯の無い我が家も風呂はこの松ノ湯でした。
 
 
 
>ひで爺ィ様 (流一)
2014-06-03 15:19:01
ひで爺ィさんが昭和30年頃に小学生だったとすると、昭和18年生まれの私と同じ世代かもしれない、などと推察しています。
坂井文具店は昔のままの長屋で商売が続いているようで、今ではひで爺ィさんが昔の景観を思い出す取っ掛りですね。三幸園はビルの1階で盛業中のようです。1枚目の写真左に精華社印刷所のビルが写っていますが、このビルはなくなって駐車場になっています。現永寿病院の北西角の向かいにある「NEW伊豆ホテル」は昔の「旅館伊豆」が続いているのでしょうね。
かつての西町小の前の通りは、現在の街灯に「車坂通り」の標示板がついているのですが、昔からいっていた名称なのでしょうか?
 
 
 
それはそれは (ひで爺ィ)
2014-06-04 17:11:26
二つ先輩ですね。
印刷屋さんが駐車場に。気がつきませんでした。
松ノ湯が数年前駐車場になったのは知っていたのですが。
伊豆旅館はS30年当時お茶屋三幸園の前にあったと思いました。表に出たのはかなり経ってからですね。その路地奥に駄菓子屋でお好み焼きの出来る店があって、お金のない僕たちは薄めて焼き広げて”もんじゃ焼き”を楽しんでましたよ。車坂通りは昔からの名称ですね。
車坂は上野駅前から根岸の手前までと言う感覚でした。
下車坂町は渥美清生誕の地から車姓を採ったとか聞きました。
 
 
 
>ひで爺ィ様 (流一)
2014-06-06 09:42:43
お気づきかとは思いますが、精華社印刷所が写っている写真は、「西町小前の商店長屋」の記事の1枚目の写真でした。コメントすべき記事を間違えました。申し訳ありません。
渥美清が生まれたのが下車坂町とは知りませんでした。ネットでは誕生の地を「下谷区車坂町(上野7丁目)」「下谷区車坂」などとしてあって、下車坂町、上車坂町、車坂町を一緒くたにしているようです。住居表示変更前の「車坂町」が通りの名前に残っているのはいいことなんでしょうね。
 
 
 
悔しいというか残念と言うか (ひで爺ィ)
2014-06-06 11:06:22
町名の変更はチョット辛いものがありますね。
池波正太郎や、そう”たけくらべ”なども旧町名が分かってるとさらにおもしろみが…
そうそう 池波正太郎は西町小の大先輩なんです。
天海祐希さんはずっと後輩です
投稿場所、スミマセン 気にしないで間違えましたか?
都心に出ても旧町名で言われると土地勘でスイスイ動けますよね
今は無き写真の松ノ湯、裏の材木置き場でシロアリが大発生、大騒ぎになったことがありました。余談でした。スミマセン。
 
 
 
女高生御用達 (ひで爺ィ)
2014-06-11 11:33:38
白鴎高校の女学生御用達のたこ焼き屋さんですね。
大阪下町風の柔らかたこ焼き、絶品でしたよ。
 
 
 
近代化??? (ひで爺ィ)
2014-07-09 13:50:23
「東京路上細見3」を見て、三橋自動車(S30年頃までの看板は”自転車”だったと)の前の「洋食たごと」のオムライスが初めて外食した洋食かもしれません。味に記憶はありません。
ひとりでの外食は駅近くの「生駒軒」の35円のラーメンでした。
で、このトンネル長屋には”たごと”と飾り職人の店の間に入口があり、中にはチョットした広場があってその広場をぐるりと物干し場が囲んでいるのでした。おばちゃん達が遊んでいる子供たちを励ましたり叱ったりしてました。
今はこの一角は”エース電研”のビルが、付近には同社がいくつか建屋を設けていますよね。パチンコ関連では大手の会社とか。車坂から東上野にかけて同業の専門会社が多数あります。カジノとかの遊戯に関する研究所とかもあるんです。

 
 
 
>ひで爺ィ様 (流一)
2014-07-10 15:57:48
「東京路上細見3」では、トンネル長屋を「洋食屋・田毎」と「洋服修理屋」の長屋としていますね。昭和63年の出版ですから、その頃まで田毎はあったようですね。浅草通りから入ると田毎にぶつかる、と書いているので、写真の「服の○(総?)合病院」の左が田毎になりそうですが……。
本文で「酒井眼鏡店」としたのは「岩井眼鏡店」の間違いでした。訂正しました。
 
 
 
>流一様 (ひで爺ィ)
2014-07-25 17:08:53
いやいやちょっと曖昧でしたかね。
三橋自動車の真ん前は路地(松ノ湯背面を経て三幸園横へ)角の森田八百屋さんと化粧品屋さんを挟んで田毎が。
ですから道の真正面が田毎(漢字屋号は知りませんでした)です。
三橋さんから見てその左隣に洋服屋さんありましたね。そして長屋に入るトンネルの路地を挟んで飾り職人(いつも大きい物を磨いていた記憶があります)の店が連なります。洋服屋さんが”***総合病院”とは。なるほど修理も(本業?)していたんですね。
 
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