ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




民家、スナック・のり子。墨田区墨田3-4。2013(平成25)年4月5日

『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、2010年、2800円)によると、昭和20年3月10日の東京大空襲では火が南の本所の方から北へ伸びてきたが、いろは通りで延焼が止まったという。昭和22年の航空写真を見ると、いろは通りの西側に焼け残ったように見える地区がある。また、当書では「…玉の井館、啓運閣よりも北側…」「…現在の隅田湯よりも南側…」は残ったとしている。
当記事の写真の家は、いろは通りにあった「グルメシティ東向島店」(戦前の寄席「玉の井館」、戦後は昭和45年頃まで映画館「玉の井大映」、最近、マンションに建て替わった)の裏手にある家で、空襲での延焼を免れた建物、としてもよさそうなものだ。



アパート。墨田3-4。2008(平成20)年12月6日

1枚目写真の左奥に見えている家。正面は出桁造りのような形だが、そんな立派な構造ではないようだ。2階建ての部分の後ろに平屋がくっついて、何世帯かで使っているようなのでアパートなのだろう。正面にはドアが2個並んでいる。

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コメント
 
 
 
Unknown (キューピー)
2019-02-25 18:17:51
一段目の右側の写真は現在カラオケ店となっているが、赤線時代にはムービーという喫茶店とバーであった。経営者の娘が後に作家として有名になった清水一行と結婚した。町内でも有名な美人であったという。
二段目の写真の正面にある青い建物は、赤線時代には3軒の飲み屋街であった。カフェーにこれから入る人、出てくる人を相手にして酒を売っていたらしい。現在、取り壊されてアパートに改築された。
 
 
 
>キューピー様 (流一)
2019-02-26 18:26:10
清水一行の小説は私も何冊か読んでいます。「ウィキペディア」を見ると、清水一行の父親は玉ノ井の銘酒屋を経営した、と出てきます。戦後の彼のカフェーは「いろは通りから行くと花街の入り口近くにあり、上玉の女給7、8人を使って繁盛した」とあります。清水一行はムービーの娘の評判を聞いていたようですね。
 
 
 
Unknown (キューピー)
2019-02-27 09:58:38
清水一行の父親はカフェーを経営していた。玉の井の地図では、「クモタ」か「あづま」という店名であったはず。建物は現在も残っているので撮影するのであれば今のうちでしょう。
 
 
 
>キューピー様 (流一)
2019-02-28 14:06:04
当の家を地図で確認しました。路地の裏といった場所で、私はこの柳通りは見過ごしていて歩いていません。近いうちに出かけたいと思います。ご教示ありがとうございました。
 
 
 
Unknown (キューピー)
2019-03-03 18:55:53
清水一行の父親が経営していたカフェーの店名は「あづま」でした。路地のどんずまりの右側に今もあります。
 
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