ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




人形町今半。中央区日本橋人形町2-9。1985(昭和60)年8月4日

人形町今半は人形町通りの1本裏に入ったところにある。写真の家は今も使っていて、現在は壁を赤茶色に塗り、外観も多少改装して高級感を出している。
「浅草今半」の沿革によると、今半は1895(明治28)年に牛鍋屋として本所吾妻橋に開業したのが起こり。そこから分かれた浅草今半の日本橋店として昭和27年に開店したのが人形町の店で、昭和31年3月に「人形町今半」として独立した。
この場所は昔、喜扇亭という浪曲の寄席があったところで、建物も喜扇亭だったものではないかという節がある。以下、『にほんばし人形町』(人形町商店街協同組合編集、昭和51年)の「芸能界が遺した“下町の粋”」という章の「浪花節と色物の席“喜扇亭”」を引用する。
 明治30年(1897)から昭和28年まで、現在の人形町2丁目8番に喜扇亭があった。人形町界隈ただ一つの浪花節の定席で、昭和10年ごろの出演者を見ると、梅中軒鶯童、東武蔵、三門博、天中軒雲月、広沢虎造、相模太郎、広沢菊春、などであった。
 初代経営者の伊藤二郎吉は勇気のある世話好きの人で、いつも数人の芸人が奥に出入りしていた。ある者は家族と夕食をとり、金のない者は宿屋がわりに楽屋を使わせてもらっていた。浪花節のほかには、女剣劇、娘義太夫、と木戸の両側をその幟がいろどっていた。それぞれ肩のこらない楽しい出し物で、当時の客をじゅうぶん満足させていた。戦災を免れ、戦後復活したが、時代の急激な変化とテレビジョンの普及には勝てぬまま、消えていった。
今半日本橋店の開業が昭和27年に対して、喜扇亭の閉館が昭和28年。今半の住所が人形町2-9に対して、喜扇亭を人形町2-8としている。そう気にするほどのものではないかもしれない。
「喜扇亭」をネット検索したら、大量の件数がヒットしてびっくりした。今半が東京ミッドタウンに出店した鉄板焼きの店が喜扇亭という店名で、その情報だった。



長屋。1983(昭和58)年3月

今半の横を行って大門通りに出る角である。写真で見る限りでは5軒長屋のようだが、どこかで切れているかもしれない。現在は1軒ずつが小さいビルに建て替わっている中で、「中島進事務所」の看板の家が残っている。

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