ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




若林商店。中央区日本橋蛎殻町1-34。1985(昭和60)年9月29日

前の通りは箱崎川の河岸になる道路だった。箱崎川は昭和45年頃には埋め立てられて、かつての水面は駐車場や公園に替わり、その上に何層かの首都高速道路が建設された。
写真左の家は写真から「若林商店」だが1986年の住宅地図では「東京ウインファーム」で、これは若林商店を買い取った所有者というだけのものかもしれない。昭和30年頃の火保図では「東京鶏卵商業協同組合」。撮影後、1・2年で解体されている。
写真中央の看板建築は塙歯科医院。戦前から続く歯科医院で、建物も診療所を前に、住居を後ろに配置して、最初から医院を置く意図で建てているように見える。その建物の後ろには別棟の住居もあって、そちらは隠居所だか若先生の住まいだろうか。驚いたことに今も医院は続いていて、建物もそのままだ。東京DOWNTOWN STREET 1980’s>日本橋蛎殻町1丁目(5)が取り上げている。
写真右の3階建てのビルが升喜(ますき)ビル。株式会社升喜は1992年に本社を箱崎町に移転していて、その後に解体されたかと思うが、今も跡地はコインパーキングになったままだ。




升喜ビル
上:1987(昭和62)年6月7日
左:1987(昭和62)年4月29日

『日本近代建築総覧』に「弁喜K.K.、日本橋蛎殻町2-20、建築年=S2、構造=RC3、設計者=三輪幸左衛門」となっている建物。「弁喜」は「升喜」の誤植で、所在地は旧住所になっている。三輪幸左衛門は、ネット上では、銀座にあった 瀧山町ビル(昭和3年、銭高組)の設計者として出てくる。他には日本橋兜町の中央区立坂本小学校(昭和3年、大倉組)が現存する。
株式会社升喜は、1875(明治8)年に創業した酒類食品総合卸売の会社。創業者が升本喜三郎だから升喜である。醤油問屋として出発した。1941(昭和16)年12月に「株式会社升喜商店」を設立している。それまでは「升本商店」だったのかもしれない。昭和8年5月の火保図の表記は「升本商店倉庫」と「升本商店」(写真右端の2階建ての建物)としている。
升喜ビルを升本商店倉庫として見ると、確かにこの建物は倉庫として建てたものかと、納得できる。かつては箱崎川の河岸地として物資が陸揚げされたところで、醤油に関しては、蛎殻町と日本橋川に沿った小網町が中心だったようだ。蛎殻町と小網町は隣接していて同じ町内のようなものだ。升喜ビルのすぐ並びに「ヤマサ醤油東京支店」があり、小網町にはキッコーマンビル(野田醤油東京営業所、最近解体されたがストリートビューで見られる)や醤油会館、ヒゲタビル(ヒゲタ醤油)があり、醤油の集散地だった歴史を伝えている。

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コメント
 
 
 
この辺りも変わってしまいました (伊藤)
2015-09-03 16:04:28
ガソリンスタンドと塙歯科が残っているのは奇跡的です。
塙歯科は私の母校 有馬小学校の担当医だった記憶があります。
(今はどうだかわかりませんが)
 
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