ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




洋風長屋。千代田区神田司町2-10。1986(昭和61)年6月8日

司町の北東の角付近から南のほうを見ている。道路の向かいは多町である。洋風の三軒長屋があって青いトタンと思われる板貼りの家があり、写真左の洋風のモルタル壁の家が司アパート。

左:松永商店。司町2-10。1987(昭和62)年1月1日
右:司アパート:司町2-12。1986(昭和61)年6月22日

司アパートの写真はもう少し撮る角度を考えればいいのに、と思わずにはいられない。中途半端な写真で恥ずかしいが、「司町二丁目町会」に「懐かしい神田の建築物」として建物全体を納めた写真を見ることができる。キャプションに『……(女優の)故清川虹子氏も住んでいたとか。……』とある。


トタン張りの家。1987(昭和62)年9月13日

1・2階とも高い位置に窓があるから、町工場か食品加工でもしていたような感じがする。外に籠がたくさん出してあるから、あるいはまだなにか作っているのかもしれない。司アパートの建っていた所が更地になっている。
まことに失礼だが、増築しているわけではないのに九龍城の写真が思い浮かんでしまった。

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コメント
 
 
 
いらんか・・・ (定マニア)
2011-10-22 18:25:19
昔は司町2丁目は、新銀町といったんですね。はい、阿部定の生まれ育った場所です。本によりますと、ここら辺は職人が多く住んでいたとかで、なるほど店舗兼住宅が多いですね。荷揚場のあった場所なんて知っている人いないでしょうね。女優の誰それが住んでいたは自慢したくなるでしょうけど、やっぱり阿部定はいらないか。
 
 
 
>定マニア様 (流一)
2011-10-25 12:54:09
「新白銀町」という町名は頭に入っていなかったので、ネットで調べてみました。ほとんどのサイトが阿部定がらみですね。いつのことだった知りませんが、東京に戻った定は一度は生家のあった場所を見に行ったと思いますが、その場所が分かったのでしょうか。関東大震災後、阿部家はどうなってしまったのでしょうね。
 
 
 
阿部定正伝 (定マニア)
2011-10-25 16:03:52
このタイトルの本によると、阿部家は定が16歳の時に、畳屋を辞めて、埼玉県坂戸市の定の姉方へ引っ越しています。そして、翌年の大正11年に定は横浜の芸妓紹介業に預けられます。関東大震災はその後ですので、家は人手に渡ったとしても被災したと思われます。しかし、定28歳の時に日本橋の袋物商の愛人になった時、しばらく新銀町のおでん屋に間借りをしていました。生家の近くだったかも知れません。定の両親は共に坂戸市で亡くなって、葬儀もそこで行っているので、今でも親族がお墓参りをしているのでは?阿部定自身は、日蓮宗を信仰していたそうですから、栃木刑務所に服役中、世話になった教誨師にお墓を手配してもらったのではないかと、私は考えています。
 
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