ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



東海堂ビル。中央区銀座6-4。左:1986(昭和61)年2月2日、右:同年8月24日

設計:渡辺節、施工:大林組、1929(昭和4)年竣工、鉄骨鉄筋コンクリート造4階。
東海堂ビルが完成した1929年に、渡辺建築事務所の東京での代表的作品である日本勧業銀行本店が完成している。東京穀物商品取引所もこの年。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年)には次のように解説されている。うまく要約できないので、全文を引用してしまう。
この建物は銀座の片隅に人知れず建っている。名も知れず、目立たなぬ建物であるが、渡辺節という建築家の作品系譜より見れば重要な位置を占める。
彼は昭和戦前に関西を中心に活躍した。ある意味で村野藤吾の師匠にあたる建築家であった。彼はルネサンスやゴシックと言う西欧の建築様式を基調とした。言わば当時にあっては正統的な作風の建築を得意とした。
この作品は彼の作品傾向よりはずれた、初期の作品ではおそらく唯一のモダンなスタイルの建築である。窓の上下に庇をつけるという初期のインターナショナルスタイルのディテール。塔屋のアール・デコ調の扱いなど、随所に新しい試みがなされている。しかし、ミースやコルビュジエという欧米の建築運動の刺激を受けながらも、それをそのまま自己の作品にとり入れることに今一歩踏み出せなかった建築家の逡巡もここにある。
結果的にミースの亜流で町が埋められてしまった現在、かえってこの初期のインターナショナル・スタイルが新鮮ではないか。




上:1992(平成4)年3月20日
左:1986(昭和61)年8月24日

「東海堂」は玄関の上にその文字があるから、たぶんビルのオーナーなのだろう。建て換わった現在のビルの名称はやはり「東海堂銀座ビル」で、1995年8月の竣工。旧ビルの外観を意識したデザインだ。
東海堂は「東海堂書店」のことらしいがこのビルで営業していたとすると本屋ではなく出版社だったのだろうか。「細川活版所」に関してもネット上ではなにも判らない。

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コメント
 
 
 
Unknown (brary)
2009-07-26 06:54:10
はじめまして。でも、時おり拝見しております。
銀座に東海堂の痕跡が残っていた!ということに衝撃をうけて、思わずコメントしてしまいます。
東海堂とは、明治時代に創業した出版取次会社(問屋)です。雑誌を中心にしていましたが、戦時の国策統合によって強制解散させられました。戦時中は、日本出版配給銀座営業所として使われていたと思われます。
中央区に在住しているので、すぐ(自転車で)見に行きます。貴重な情報をありがとうございました!
 
 
 
>brary様 (流一)
2009-07-26 20:17:07
Braryさんの情報のほうがよほど貴重です。ありがとうございます。
東海堂は明治の創業から昭和の戦前まで、主に雑誌の取次店としてやってきた。1941年に戦時統制で日本出版配給に統合されてから、GHQの命令で日配が解体される1949年までその銀座営業所になっていた。それ以降は実質、貸しビル業に転業したのかもしれませんね。
これからも当ブログをよろしくお願いします。
 
 
 
細川活版所 (おばちゃん)
2009-09-09 12:25:31
細川活版所は印刷会社ですよ。私、平成4年に入社してちょっとの間ですが、こちらのビルで勤務していました。
今は光村印刷株式会社になっています。
 
 
 
>おばちゃん様 (流一)
2009-09-13 09:44:30
なるほど、光村印刷は中堅といっていい印刷会社のようですが、細川活版所はそこに吸収されたわけですね。光村印刷のHPを見たら「1994(平成6)年、細川活版所と合併」と書かれていました。
本文の3枚目の写真は平成4年3月撮影ですが、「おばちゃん」が働いていた頃のものでしょうか?
 
 
 
昭和の細川活版所 (営業第2部 営業部)
2012-05-24 23:36:34
㈱細川活版所に、勤務しておりました。当時社長は、杉江社長(細川活版所光村印刷元会長)で、草加と川越に工場がありまして、昭和50年代頃は、従業員約600~700人くらいは、おりまして銀座の東海道ビルに営業部3階・人事部・総務部(2階)・生産管理部(4階)銀座プロセス(細川活版の子会社で製版会社)5階・地下1階は、版下作成会社・子会社がありました。

細川活版所は、ノーカーボン用紙の開発で有名になった印刷会社で、昭和40年代のピーク時には、1000人以上の従業員が、いたらしいが、労働組合とのトラブルで新聞でも当時話題になった会社で創業100年以上の歴史があった会社であります。

労働争議の時に、当時の北川一族の社長の知り合いである光村印刷の当時の社長である杉江タケシ氏に経営を北川専務がお願いをして当時の労働争議の不当解雇問題に和解案提出し決着をつけたことにより、杉江社長の権力支配化の下、㈱細川活版所は、再スタートする運びになりました。
当時、大手町の富士銀行の約手・小切手・証券類の重要印刷物を独占的に受注しており、㈱トーキンからは、テレフォンカードのモデルカード・フリーカードの受注から校正~印刷~納品管理までを一括管理しており、㈱トーキンから至急されるテレカの用紙(ペット)を光村印刷でUVインキを使用し莫大な利益を出しておりました。
その他には、クロネコヤマトの伝票や、JAL商事、IBM・SONY本社・富士ゼロックス・などの一流企業からの取引きが沢山あり、磁気印刷やサーマル印刷の商品開発など特殊印刷にも多数係わりをもっていました。
ところが・・・・・・・・・・・・・続く
 
 
 
(営業第2部 営業部) (昭和の細川活版所 (営業第2部 営業部))
2012-05-25 00:14:14
㈱細川活版所は、東海堂ビルのオーナー(たしか高齢のオバちゃん)に、かなり嫌われておりました。理由は不明ですが、立ち退き命令を昭和50年代頃からされていたようですが、㈱細川活版所には100年借地
している権利があり、裁判でもビルの取り壊しを大家さんは、していましたが、新しいビルに立て替えるならば、㈱細川活版所側にまた貸してもらえることを条件に争っていたようですが、裁判で㈱細川活版所が、負けてしまい東銀座の新しいビルに平成2.3年頃移転しました。その時期に、自分は退社いたしましたが、のちに聞くと㈱細川活版所の社員はやがて光村印刷の支配下に権限を奪われ、旧態以前の専務グループなど社員〔派閥」)は、すべて人事異動で隅に追いやられ、営業部の連中は工業勤務とか社内の窓際族に配置転換され最後は、吸収合併されるという失態となったそうな!
今、㈱細川活版所にいた連中は光村印刷にどれくらい存在しているのだろうか?

埼玉県草加市弁天町に汚い公団のような社員寮が、あったのですが、現在はどうなっているのやら?

㈱細川活版所の大阪支店にも勤務しましたよ!!堺筋本町に、野口ビルというこれまたレトロなビルでした。
やはり今、改めて考えると昭和50年代は本当に、良い時代でした。

㈱細川活版所の前は、㈱上野商会で勤務しており、当時トップガンが、上映される時期に合わせてアビレックスの日本の総代理店でしたら凄いですよ!!

運送会社の担当のお兄さんは、日本最強暴走族の極悪のメンバーでしたから。本当色々経験させられました。
 
 
 
>営業第2部様 (流一)
2012-05-26 20:04:17
かつて銀座に本社を置いた細川活版所。私がなんとなく思っていた以上に、規模も大きく収益につながる技術も持っていた中堅印刷会社だったのですね。それが光村印刷に吸収されてしまったのは、労働争議を収めるために光村印刷社長に経営を頼んだのがそもそもの発端ですか?
古きよき昭和50年代。たしかにあの頃は、今問題になっているあらゆることを問題にしなくてよかった時代でした。高齢化、年金、省エネ、失業、円安、原発・・・。あの頃から手をうっておけば、と思うのですが、なにをどう? と聞かれても分かりません。
 
 
 
実態 (営業)
2012-06-02 16:48:10
事件名 細川活版所
事件番号 東京地労委 昭和50年(不)第72号

申立人 全国印刷出版産業労働組合総連合会東京地方連合会
申立人 細川活版所労働組合
被申立人 株式会社 細川活版所
被申立人 株式会社 光村原色版印刷所
命令年月日 昭和55年12月16日
命令区分 一部救済(命令書主文に救済部分と棄却又は却下部分を含む)
重要度
事件概要 会社の再建施策として不採算部門(活版、平板)を整理し、93名の人員整理を行った際、当該組合については組合三役を含む79名を指名解雇したことが争われた事件で、救済を申し立てた46名について原職又は原職相当職への復帰及びバックペイ並びにポスト・ノーティスを命じ、系列会社Kを被申立人とする申立てについては棄却した。
命令主文 1. 被申立人株式会社細川活版所は、別表組合員目録記載の申立人細川活版所労働組合の組合員に対し、次の措置を含め、昭和49年 7月25日付解雇がなされなかったと同様の状態に回復させなければならない。
(1) 原職または原職相当職に復帰させること。
(2) 解雇の日の翌日から原職または原職相当職に復帰する日までの間に、別表組合員目録記載の組合員が受けるはずであった諸給与相当額を支払うこと。
2. 被申立人株式会社細川活版所は、本命令受領の日から1週間以内に、55センチメートル×80センチメートル(新聞紙2頁大)の大きさの白紙に、下記のとおり楷書で明瞭に墨書し、被申立人会社本社および草加工場の従業員の見易い場所に10日間掲示しなければならない。
              記
                 昭和 年 月 日
 全国印刷出版産業労働組合総連合東京地方連合会
 執行委員長  X1 殿
 細川活版所労働組合
 執行委員長  X2 殿
          株式会社 細 川 活 版 所
            代表取締役 Y1
 当社が貴組合の組合員X2氏ほか45名を解雇したことは、不当労働行為であると東京都地方労働委員会において認定されました。
 今後このような行為を繰り返さないよう留意します。
 (注:年月日は掲示した日を記載すること。)
3. 被申立人株式会社光村原色版印刷所に対する申立ては棄却する。
 
 
 
よし!! (光村印刷って何やつ?)
2012-06-02 16:53:06
光村印刷
本店:東京都品川区大崎一丁目15番9号

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【商号履歴】
光村印刷株式会社(1991年4月1日~)
株式会社光村原色版印刷所(1936年12月21日~1991年4月1日)

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【株式上場履歴】
<東証1部>2002年3月1日~
<東証2部>1961年10月2日~2002年2月28日(1部に指定替え)
<店頭>1960年11月 日~1961年10月1日(東証2部に上場)

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【合併履歴】
1994年4月 日 株式会社細川活版所
1990年10月 日 光村印刷株式会社

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【沿革】
明治34年10月 創業者光村利藻、神戸に関西写真製版合資会社を設立。
大正3年9月 東京神田神保町に移転し、光村印刷所と改称。
昭和11年12月 東京都品川区大崎1丁目に資本金35万円をもって、株式会社光村原色版印刷所(現・当社)を設立。
昭和33年11月 三光プロセス株式会社(現・株式会社光村プロセス、現・連結子会社)を設立。
昭和35年11月 東京都品川区北品川に平版工場を設置。東京店頭売買承認銘柄として株式を公開。
昭和36年6月 光南印刷株式会社(現・株式会社メディア光村、現・連結子会社)を設立。
昭和36年10月 東京証券取引所市場第2部に株式上場。
昭和38年4月 細川倉庫株式会社(現・光村商事倉庫株式会社、現・連結子会社)を設立。
昭和39年6月 大井オフセット印刷株式会社(現・株式会社城南光村、現・連結子会社)を設立。
昭和39年12月 名古屋出張所(現・支店)を設置。
昭和42年3月 埼玉県川越市に光村印刷株式会社(現・当社川越工場)を設立。
昭和60年3月 本社工場内に精密印刷工場を設立。
平成2年9月 栃木県大田原市に那須工場(精密印刷工場)を設立。
平成2年10月 光村印刷株式会社(現・当社川越工場)を合併。
平成3年4月 光村印刷株式会社に商号変更。
平成3年9月 川越工場内に新聞印刷第3オフセット輪転工場を設置。
平成4年4月 本社平版工場を川越工場に移設。
平成4年10月 本社精密印刷工場を那須工場に移設。
平成6年4月 株式会社細川活版所を合併。
平成8年6月 新本社ビル完成。
平成11年1月 草加工場内に製品倉庫を設置。
平成14年3月 東京証券取引所市場第1部に株式上場。
 
 
 
フロンティア (木原くん)
2012-06-18 22:14:12
全印総連

 第一次石油ショック後に急増した大量指名解雇をめぐる争議の第一弾として、「全国的に注目されていた」(『朝日新聞』八二年八月三日付)東京の細川活版所争議が九年ぶりに解決した。

〔細川活版労組〕

 争議の発端は、一九七四年七月、会社が不採算部門の整理を理由にして、草加工場の活版・平版職場を閉鎖し、九三人の大量解雇を強行したことにある。被解雇者のなかには、当時の全印総連東京地連委員長や細川労組三役、執行委員など多数の主要な活動家が含まれており、組合側は組合破壊の不当労働行為とこれをとらえて、総評やマスコミ・文化共闘に支援を要請、背景資本である東海銀行や富士銀行に抗議・要請をくりかえす一方、東京地裁や都労委の場で闘争を展開した。八○年七月には「指名解雇シンポジウム」をひらき、同年一一月には解雇攻撃の現地草加市で一万人規模の集会を挙行、運動の強化に努めた。これらの結果、八一年一月、都労委は「本件解雇は、会社が組合を敵視し、これを破壊する意図のもとに企業整備に便乗してなした不当労働行為」だとし、全員の職場復帰を認める命令を出した。

 しかし、会社はこの命令に従わず、中労委へ不服を申し立てた。このため全印総連とマスコミ・文化共闘は八一年共闘のなかで細川への連帯活動を展開、中労委における審議以前の和解解決を要求した。八一年六月から和解交渉が始まり、八二年七月に中労委から解決あっせん案が提示された。あっせん案の内容は、(1)解雇者のうち希望者二一人の職場復帰、(2)解雇期間中の未払い賃金などを含めた三億七千万円の解決金支払いと、いうものであった。労使双方ともこのあっせん案を受けいれ、これにもとづき、(1)だれをどの職場に入れるか、(2)復帰者の新賃金、(3)勤務や休暇などの労働条件、(4)解決協定書の記載など、多岐にわたる交渉が、以後数十回にわたってもたれた。

 こうして八三年二月一五日、中労委立ち合いのもとに和解協定が調印された。交渉の過程では、職場組合員の差別賃金是正についても一定の改善が実現した。組合側はこの和解について、「減量経営という厳しい状勢の中で、職場復帰できたことは大きな成果」(『労働ニュース』八三年二月一九日号)とし、都労委命令の内容にはおよばないものの、組合破壊の意図を阻止し、指名解雇攻撃に歯止めをかけ、首切り「合理化」に反撃したことの意義は大きいとした。職場復帰は三月一日以降三回にわけておこなわれ、一定の研修ののち、新設される本社営業課ならびに草加工場検品課に配属、このように新しい職場の設置をみたことの意味も小さくない(以上、『全印総連』八三年二月一五日号、『出版労連』八三年四月一日号)。

 
 
 
今頃ですか? (城戸ですが)
2012-06-18 22:17:43
細川活版所-100年の歩み
やすだ書店(ショップページで詳細を見る|特定商取引表示(返品について))

販売価格:6,300円(税込)

 
 
 
草加工場の従業員 (細川活版所-100年の歩み )
2012-06-18 22:43:47
細川活版所-100年の歩み

この会社の昭和60年頃の話をします。 本社の東海道ビルの屋上に、実はお稲荷さんが、あります。本当です!!あの銀座のど真ん中の位置するあの場所にですよ!!しかも結構雑草生えてるし、社員の殆んどが、1度も屋上に上がったことが無いと言っても過言では、ない位凄い場所で、地下も不気味でした。
刺青シールを作っている会社に一部分貸してましたが、大家がかしてたようで、薄暗い地下の闇の部屋でした。

それと昭和60年代は、ビルの壁面は崩れそうに劣化していて、グリーンのネットを張っていました。

銀座で、このビル何?って感じですよ!!本当に!!
 
 
 
版下からデーターへ (歩み出す印刷業)
2012-06-21 23:40:13
昭和50年代~60年代激動の時代の変革でありましたよね? 細川活版所の主要大お得意様の富士銀行本社からの約手・小切手・証券類・帳票類・カラーポスターなどの大部分を受注していた営業第1部第1課の諸君たちは、当時、細川活版所の明日を担うエリートと勘違いしていたようだが、見事に全員リストラですか。
よく夜9時過ぎまで、銀座本社で残業して、製造指示書の作成やら、得意先のお見積を遅くまでしていた営業5課の諸君は、今どうしているんだ?このホームページをみたら教えて欲しいね。

あの東海道ビルは、破壊していたがっていた大家さんに、見事にブッ潰されてしまい、跡形も無い新築ビルに変わり、細川活版所のいた当時とは丸で違うビルですね。

細川活版所も、アナログの変革時期に乗り遅れて光村に乗っ取られて、昔の幹部連中は、ほぼ全員リストラですか。

あんなに草加工場まで何億円かけて新築したのに、光村ちゃんの物になったのすか!?

悲しい色やね~細川活版所は!!
 
 
 
お元気ですか?細川活版所のみなさん!! (本社勤務)
2012-07-16 22:52:23
懐かしいですね!!このビル!!昔を思い出すあの昭和の印刷会社。

営業第1部第1課の富士銀行担当していた、皆さん!! とくに名古屋に営業所長として、島流しになったS所長!!今何?してんすか?
庶務の女子社員とデキちゃった婚をした長野県出身のキューピー君どうしたんだ!!
横浜から通勤していた、親父が銀行員なのにコネでも入社できず、印刷会社にきて、庶務のあのねーちゃんにもてていた、K君!!どうしちゃったの?

営業5課のエース、藤沢の拓大卒のお調子主任まだ、いるらしい(光村印刷の窓際族として)悲しすぎる!!

毎晩営業5課は、新橋のガード下の居酒屋で、妙な会社の悪口で、盛り上がる寂しい集まりだったよね?

誰か、知っている人いませんかね?
 
 
 
おぉ~♪ (Ru)
2012-08-09 18:13:26
細川活版所・・・懐かしいです!
当時世間知らずな女の子だった私も今では立派なおばちゃんに(笑)
上のレスを見て、そうだったのか~と。
色々な事も知らずに仕事してたんだなぁと思いました。
バブルの時期で仕事も忙しく、毎晩遅くまで残業しては
「あまり残業してくれるな」と怒られたっけ(笑)
当時一緒に仕事してた人達、今はどうしてるんでしょう・・・
ふと思い出したりします。
よくむき出しの天井の配管をねずみが走ったり、
手動のエレベーター操作はコツが必要だったり(笑)
コピー機はよく紙詰まり起こしたり・・・夏は屋上でビアガーデンしたり・・・
すべてが懐かしいですね~・・・

上のレスで屋上の話が出てましたが・・・
夏にビアガーデンしてたんで、上がったことはあります。稲荷もありましたね。
稲荷といえば・・・3Fの営業部にも神棚があったり、
神主さんが来てお祓い?なんかもしてましたね。
お正月の仕事始めの日には着物着て出社したりしました。
古い建物、会社という事もあって、やたら古いしきたりみたいなものもあったような気がします。

いい思い出も悪い思い出も色々ありますが、総じて懐かしいの一言に尽きます。
苦楽を共にした人達・・会ってみたい気もするし、あの頃の話をしてみたい気もします。
時期はバブルの頃。テレカ製作に携わってました。

 
 
 
もう印刷会社の時代は終わる (まだみんないる?)
2012-11-30 00:42:29
1988年頃に、細川活版の本社にいた社員に人たちは、今どうなっているのか?なんて考えてもしかたがないです。テレホンカードの注文もらう為、カード事業部は、よく夜遅くまで残業してましたね?ご苦労様でした。 いまはスマホですよ!!

浦和から通勤してた大●さんとちょいとイケメンの年下さんが、ゴ~~ルインしました。

業務のドン笹●さん、悲しすぎるついに、あなたは一人になってしまったのですね?

経理の三●さんも結婚したし?

でも、版下で校正していたあの時代は終わり、

マックからデジタル化し、もう印刷するものナッイって!!


 
 
 
バブル時代の銀座時代 (あ~~なつかしい)
2013-01-30 22:40:42
細川活版所に 就業していたあの頃は、いい時代でしたね?

テレカのカード事業部のみなさん いつもご迷惑をおかけいたしておりました。その節はありがとう存じます。 草加から約1時間かけて通勤していたあの頃は もうだいぶ昔の話ですね。ドライバー浜●さんまだ生きてるのかな?城●専務とか大●大阪支店長はまだご存命なのでしょうか?

草加の曽●さんや、営業部長の谷●部長 杉●部長は まだご存命でしょうか?


 
 
 
父は細川活版所勤務だった (要町生まれ柴又育ち)
2014-03-29 20:13:05
昭和三十年代後半、細川活版所に勤務していた父は健康診断で肺に影が見つかり、保土ヶ谷の結核療養所へ自主入院してました。
母によると、入院療養費は無料で会社から毎月月給の六割が支給されてたそうです。
電話もなかったので、よく葉書が来て家族のことを心配してました。
当時、会社の厚生福利から支給された木製の救急箱がまだ家にありますよ!
父の同僚だった若い女性を甥っ子(私の従兄)に引き合わせ、結婚して親戚になりました。
当時従兄は大学生だったはずで、後年城南信用金庫の支店長を勤めて隠居しました。
第一銀行の支店長をしてた伯父がよく許したなと思います。
細川活版所が合併する前に父は他界したので、光村印刷と替わっていたのを知らなくてよかったです。
栗崎さんと言う方はお元気なのでしょうか?
父が生前話してました

 
 
 
やっぱり銀座でしょ (生産管理部万歳)
2015-04-01 03:05:53
初めてコメントします…
東海堂ビル懐かしいです。私もまだまだ若く20でした。今は、業界は違いますが専門職でその道のプロを目指して地道にやっています。先輩方々お元気かなぁ~…同期の人達また会いたいなあ…受付のお姉さん優しかった…
 
 
 
銀座 (スノケン)
2017-01-07 21:10:54
1986-88頃まで コピー機の点検で出入りしておりました。皆さんおっしゃる通り結構古いビルとの記憶が残ってますね。
銀座プロセスさんにも同様に入っており 担当の
ワンレングス?女性の方が綺麗だったのを記憶しております。
周辺は自動車での仕事が勝手が悪く自転車で
ユーザーを回っておりました。並木通りとか
昼間と夜の風景差が激しかったですね。
今でもそうでしょうが。
 
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