rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

幸福感・資本主義経済・宗教そして国家

2017-06-26 22:58:13 | 社会

直接関連がなさそうな単語を列挙しましたが、それらの関連について検討したいと思います。

1) 幸福感を感ずる脳の思考回路は5次元

 

人が幸福であると感ずるのは思考や感覚によって感ずるのであって、脳以外で幸福を感ずることはできません。その内容も人様々で必ずしも全ての人が同じ事で同じだけの幸福感を感ずる訳ではありません。現実世界は縦横高さといった三次元空間からできています。楽しい経験をしたり、美味しい物を食べたりすることで我々は直接現実世界から幸福感を感ずることはあります。しかし過去の楽しかった事を思い出しても幸福を感ずることも可能で、来るべき楽しいイベントにわくわくする事で幸福感を感ずることも可能ですから、脳内においては時間を越えて4次元の世界で幸福を感ずることも可能といえます。それだけでなく非現実の世界を妄想することで幸福を感ずることもできる、ゲームの中だけのバーチャル世界での幸福もあり、しかもその非現実の世界に現実から瞬時に移動できることを考えると、脳内においては5次元で思考が行われていて幸福感も5次元世界を自由に行き来する中で感ずる感覚であることがわかります。

 

2) 貨幣を介する資本主義経済は4次元

 

物々交換が行われていた時代では、経済は3次元の世界でのみ行われていたといえるでしょう。しかし紙幣(紙切れ)や貨幣(物)を異なる個人間で同一の価値があるものと認識するようになってから、過去の自分から金をもらう(貯金)ことや、将来の自分から金を借りる(借金)が可能となって経済は時を越えて4次元的に行われるようになったと言えるでしょう。現実には存在しない価値を「あるもの」と仮定して取引を行うレバレッジを5次元的と解釈するかどうかは判りませんが、レバレッジとは単なるごまかしであって、損失が出た場合は実際に「あると仮定した額」を支払わないといけないのですから次元を超越できているとは言えないと私は思います。だから資本主義経済は4次元で行われていると考えます。

経済は現実世界における物欲を満たすための方策ですから、資本主義経済の発達によって人間は幸福感を得ることは可能ですが、衣食住を満たすために必要条件ではあるものの幸福感を感ずる全てではないことは理解できると思います。

 

3) 宗教の次元

 

旧来の宗教は現実世界で生きる心構え、生きることの意義、神の御心に沿うにはどうするか、といった「心」に問いかける内容であることが多かったと思われます。宗教的な喜びや幸福感を法悦と表現する事がありますが、法悦を得るために現実世界に寺社や像などの偶像を作り出して、感覚に訴えることも行われてきましたが、偶像崇拝を禁じて内面世界のみで法悦を得ることを説く宗教もあります。宗教の世界はどちらかと言えば現実世界の幸福感とは離れてパラレルワールド的な思考によって幸福感を得るという意味で現実世界をのぞく縦横高さを持った異次元における4次元的な世界観から成り立っていると言えるかも知れません。

しかし一部の新興宗教には現世利益を謳った宗教があり、その現世利益に引かれて入信する人も多くいた事実があります(島田裕巳著 宗教消滅 SB新書332 2016年刊)。こうなると宗教によって得られる法悦に現実世界から得られる幸福が入ってきてしまい場合によっては「宗教で全ての幸福感が得られる」「宗教で全てが満たされる」といった事態がおこりかねないことになります。最近減少傾向ですが、一部の新興宗教によって生活の全てが変わってしまう、洗脳、といった事態が起こる理由もここにあると思います。高度成長時代の終焉で宗教によって現世利益を保証することが困難になってくると若い人達が新たにこの手の宗教に入信することが減って、戦後できた宗教の信者が高齢化する一方になっているというレポートが「宗教消滅」で述べられています(同書183頁)。

一方でイスラム原理主義など旧来の宗教の中で、現実世界に不満を持つ若者たちに対して、ジハードを行うことで来世において幸福を約束すると言う手法でひきつけているものが出てきました。これは現実世界で幸福感を得ることをあえて否定することでパラレルワールドにおける幸福感をより絶対的に大きなものとする新たな手法と言えるかもしれません。グローバリズムを主体とする現実世界の資本主義がある意味行き詰った状態で出現してきた手法という点で現代を象徴するもの、今後の世界のあり方を考えさせるものと言えるかもしれません。

 

4) 現実世界である国家が行うべきこと

 

人、国家からみた国民が幸福であるために国家ができることはある意味限られたものかも知れません。国家別国民幸福度ランキングというのが毎年発表されますが、経済が発展していれば国民が皆幸福というわけでもなさそうであることがこのランキングからも判ります(イタリアやロシアが日本より上??)。しかし国民が幸福感を感ずるために現実世界の大きな要素である国家ができること、やらねばならないことがあることも確かであると思います。突き詰めれば国民の衣食住と安全・自由を保証すれば国家の役割としては十分と言えるかもしれません。衣食住を保証するにはベーシックインカムの導入、経済システムの管理、安全を保証するには治安のための警察、防衛、医療と公衆衛生の整備が必要でしょう。自由は国家の存在目的を損なう事以外、各人の自由を制限する事はしないと憲法に定めて実行すれば良いでしょう。またこれ以上のことは国家が行うべきではないとも言えます。幸福感の感じ方は5次元世界の事ですから、各人によって異なる事は間違いありませんが、3次元の現実世界においてはある程度同じ要素で幸不幸を決定付けることは間違いありません。大飢饉や疫病の流行で次々と人が死んでいたら幸福であるはずがありません。現在憲法改正論議が行われようとしていますが、国家のあり方を決める基本法である憲法において、国民が幸福を感ずるために最低限行うべき事という視点で考える事も大事ではないでしょうか。

コメント (5)
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