唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

7月1日まで休止

2020-06-26 10:00:00 | Weblog
一旦休止。今別にやりたいことがあるので。
7月1日より再開します。
残っている皇帝はすべて愚帝なのでボロクソに書いてしまいそうですが
 腑抜け中宗・睿宗 遊び人玄宗・穆宗 単なるうすら馬鹿敬宗・僖宗
 そして亡国の昭宗・廃帝 が残っています。 どれにしましょう次は
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高祖史・封爵・節度使データを追加しました。

2020-06-25 10:00:05 | Weblog
今までの 高祖~則天、肅宗~憲宗、文宗~懿宗史を
PDF形式でデータをアップロードしました。
高祖史
太宗史
高宗史
則天史
肅宗史
代宗史
德宗史
順宗憲宗史
文宗史
武宗史
宣宗史
懿宗史
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[唐歴史データ]
全節度使データ一覧(エクセルリンク)
封爵データ一覧(エクセル)3183名分
文官宰相一覧(エクセルリンク)
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中書舎人年表
給事中年表
太子庶子年表
字[あざな 1846名分]一覧
皇族一覧表[皇帝別]
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武德八~九年 西暦625~26年

2020-06-24 10:02:26 | Weblog
武德八年 西暦625年
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七月丁巳,秦王世民屯于蒲州,以備突厥。
八月壬申,並州行軍總管張瑾及突厥戰於太谷,敗績。
甲申,任城郡王道宗及突厥戰於靈州,敗之。
全国制覇した唐朝にとってあとは突厥が悩みの種です。まだまだ突厥の軍事力には及びません。

武德九年 西暦626年
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正月甲寅,裴寂為司空。二月庚申,齊王元吉為司徒。

六月庚申,秦王世民殺皇太子建成、齊王元吉。
癸亥,立秦王世民為皇太子,聽政。
秦王が皇太子、齊王を殺害して自立します。皇太子は本来帝国を継承するので陰謀をする必要はありません。高祖は威嚇され追認しました。

六月庚辰,幽州都督、廬江郡王瑗反,伏誅。
反太宗派皇族を挑発して滅ぼします。

八月甲子,皇太子即皇帝位。
八月癸未,突厥頡利可汗進至渭水便橋之北,遣其腹心執失思力入見,以觀虛實。
突厥は属国である唐で無断の廃立が行われたことを責めて入寇しました。簒奪により即位した太宗は防禦の態勢が立たず、単独で渭水に出頭し謝罪しました(鴻門の会の劉邦のようなものです)。莫大な貢物をせしめた可汗は即位を認めて撤退しました。

貞觀三年,太上皇徙居大安宮。
太宗の地位が安定してきたので幽閉地から遷されました。

貞觀九年五月,崩,年七十一。廟號高祖。
高祖も突厥に対する勝利を認め、このころは和解したようです。
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武德六~七年 西暦623~4年

2020-06-23 10:00:03 | Weblog
武德六年 西暦623年
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正月己卯,黑闥將葛德威執黑闥以降。二月,劉黑闥伏誅。
皇太子軍は黑闥を追いつめ殺します。

二月丙寅,行軍總管李世勣敗徐圓朗,執之。
山東も平定されます。

三月,苗海潮、梅知岩、左難當降
南方も次々と帰順しも唐朝の全国制覇間近という感じです。

六月丁卯,突厥寇朔州,總管高滿政敗之。
七月己亥,皇太子屯于北邊,秦王世民屯於並州,以備突厥。
対突厥に全力を注ごうとしました。

八月壬子,淮南道行台左僕射輔公祏反。乙丑,趙郡王孝恭討之。
淮南に大きな勢力を築いていた杜伏威の腹心であった公祏が淮南で反します。伏威は関係していません。唐朝にとっては淮南直轄化を図るには都合の良い展開です。公祏の起兵は遅すぎました。

武德七年 西暦624年
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二月、呉王杜伏威薨。詔追除伏威名,籍沒其妻子。
伏威は公祐の乱には関係していませんでしたが、唐朝は構わず処分してしまいました。

三月戊戌,趙郡王孝恭敗輔公祐,執之。
唐朝軍が本格的に攻勢をとると公祐には対抗できませんでした。唐朝はほぼ全国統一に成功しました。

六月壬戌,慶州都督楊文幹反。七月癸酉,慶州人殺楊文幹以降。
訳のわからない反乱です。文幹は皇太子と親しく、皇太子派の陰謀が疑われましたが、あまりにずさんな乱であり、秦王派の策動かもしれません。ただ両派が対立し緊張が生じていたことは間違いありません。

閏月己未,秦王世民、齊王元吉屯於豳州,以備突厥。
戊寅,突厥寇綏州,刺史劉大俱敗之。丁酉,裴寂使於突厥。
突厥頡利可汗が再び侵攻してきました。しかし甥突利可汗との協調を欠き、唐朝の朝貢(裴寂)を受け入れることになりました。
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武德五年 西暦622年

2020-06-22 10:01:49 | Weblog
武德五年 西暦622年
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正月、劉黑闥自稱漢東王,改元天造,定都洺州。

正月、殷恭邃降。楊世略、劉元進降。
南方では諸豪が続々と帰順してきます。

二月,己巳,秦王世民克邢州。
三月丁未,秦王世民及劉黑闥戰于洺水,敗之,黑闥亡入於突厥。
世民は幽州總管李(羅)藝と合流し、黑闥を大破します。一応河北は平定されました。

三月、上遣使賂突厥頡利可汗,且許結婚。庚子,復遣使來修好。
唐朝は突厥に朝貢し和を求めます。

四月壬申,代州總管李大恩及突厥戰,死之。
唐朝の河北平定を喜ばない突厥は干渉を始めます。

六月辛亥,劉黑闥與突厥寇山東。
突厥の支援を得た黑闥は再び河北へ侵入します。唐朝への不満を持つ河北の諸豪は再び応じます。

七月丁亥,杜伏威入朝,拜太子太保,仍兼行台尚書令,留長安。
淮南の巨大勢力伏威が戦わず帰服してきました。

八月乙卯,突厥寇邊。戊寅,突厥陷大震關。
黒闥を支援するため突厥頡利可汗が親征してきました。唐朝は全軍を出動させて防禦にあたります。

九月癸巳,楊師道敗之於三觀山。丙申,宇文歆又敗之於崇岡。壬寅,雙士洛、魏道仁又敗之于恒山之陽。丙午,安興貴之又敗之于甘州。
各地で突厥と激戦が続きます。「敗=破」は単に撃退したという程度です。決定的な勝敗ではありません。

十月己酉,齊王元吉討黑闥。
黑闥が次々と河北諸州を陥すのですが、皇太子・秦王など唐朝主力は突厥に釘付けです。元吉はまた損な役回りをさせられています。

十一月庚辰,劉黑闥陷滄州。甲申,皇太子討黑闥。
ついに我慢ができなくなった唐朝は突厥の侵攻が一段落した隙に皇太子に主力軍をつけて黑闥討伐に向かわせます。世民を派遣しなかったのは、高祖・皇太子がその功績が大きすぎるのを警戒したからでしょう。

十二月壬申,皇太子及劉黑闥戰于魏州,敗之。甲戌,又敗之于毛州。
皇太子建成は有能で秦王に軍才が劣るものではありません。黑闥を連破します。
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武德四年 西暦621年

2020-06-21 10:02:34 | Weblog
武德四年 西暦621年
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二月趙郡王孝恭に荊州蕭銑を討たせました。
南方戦線は孝恭と麾下の李靖の担当です。

東都近郊で唐朝軍と王世充が激戦しています。唐朝軍が優勢なようですが、補給線が延びているので決定的な勝利は得られません。

三月、東都の食糧が乏しくなり王世充は竇建徳に支援を懇願します。建徳は支援することに決しました。

三月,進封宜都郡王泰(秦王子)為衛王。
違例の封王です。親王は皇帝の子供に限られます。まして泰は秦王の長男(承乾が長子)でもありません。絶えた衞王家を継がすということなのでしょうが。それならば嗣衞王と記載しなければいけません。

四月壬寅,齊王元吉及王世充戰於東都,敗績。
秦王は敗戦はすべて他人に引き受けてもらいます。

四月戊申,突厥寇并州,執漢陽郡王瑗、太常卿鄭元璹、左驍騎衛大將軍長孫順德。
突厥が王世充支援の為に南下し唐朝軍を破りました。

五月壬戌,秦王世民敗竇建德於虎牢,執之。
長時間の対峙から一気に突入し勝利しました。これは文句なく秦王の大功績です。

五月戊辰,王世充降。
建徳の敗北により世充は諦め、助命の約束を得て降伏しました。

六月,蔣善合降。臧君相降。
続々と唐朝に帰服してきます。世充・建徳の広大な勢力範囲も残らず唐朝に入ります。

七月丁卯,王世充を赦したと見せかけて蜀に流し、途中で襲わせて族滅します。
背信行為ですが、世充の場合は激しく対立していたわけですから赦すという約束自体が無理だったといえます。

七月丙寅,竇建德伏誅。
建德はさほど対立していたわけではなく、一戦して敗北しただけです。麾下もおとなしく帰順したわけです。ただ建德は寛容で威徳があり、高祖より君主として優れた人物であったので邪魔であったのでしょう。それに旧隋の貴族ではありませんでした。

七月甲戌,建德下劉黑闥反于貝州。
建德の麾下は、一敗しただけですので戦力は保持していました。そして唐朝の建徳への扱いを注視していたわけですが、唐朝の独断的な対処をみて反旗を翻すことにしました。この失敗により河北は再び失われました。

八月,劉黑闥陷鄃縣,魏州刺史權威、貝州刺史戴元祥死之。丁未,劉黑闥陷曆亭,屯衛將軍王行敏死之。辛亥,深州人崔元遜殺其刺史裴晞,叛附于劉黑闥。
黑闥は急速に建徳旧領を回復し、唐朝軍は敗走します。

八月、兗州總管徐圓朗反。
山東地方でも反乱が起きました。

九月,盧祖尚降。乙卯,淳于難降。甲子,汪華降。

十月乙巳,趙郡王孝恭敗蕭銑於荊州,執之。
孝恭は人望が乏しい銑軍を破り、荊南を平定しました。そして嶺南地方も帰服してきます。

十一月,劉黑闥陷定州,
十二月,黑闥陷冀州,破李世勣。陷邢州。陷魏州。陥業州。
黑闥は幽州以外の河北を回復しました。
唐朝は秦王・斉王を再び派遣しなければなりません。
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武德三年 西暦620年

2020-06-20 10:01:14 | Weblog
武德三年 西暦620年
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正月戊寅,蒲州王行本降。
劉武周が南下する前に、なんとか要地蒲州[河中]を取ることができました。

二月、突厥處羅可汗迎楊政道,立為隋王。居于定襄。

四月甲寅,秦王世民及宋金剛戰于雀鼠穀,敗之。
壬戌,秦王世民及劉武周戰於洺州,敗之,武周亡入於突厥。克並州。
世民[太宗]が武周軍を破り、徹底追撃して太原を回復しました。これにより唐朝は北方からの脅威を免れ、東都[王世充]対策ができるようになりました。

五月壬午,秦王世民屠夏縣。
世民は降った夏縣を必要も無いのに虐殺しました。都合の悪い事実です。

六月甲寅,顯州長史田瓚殺行台尚書令楊士林,叛附于王世充。
王世充の勢力が拡大し、山東方面へ影響力が広がっていきました。

七月壬戌,秦王世民討王世充。甲戌,皇太子屯于蒲州,以備突厥。
東都攻撃は世民、突厥牽制は皇太子建成が担当しました。

六月壬辰,詔以東南道行台尚書令楚王杜伏威為東南道行台尚書令淮南道安撫使,進封呉王
東都東南方の包囲網がひかれました。

九月癸酉,王世充顯州總管田瓚以所部二十五州來降;自是襄陽聲問與世充絕。
東都西南方の包囲網がひかれました。

唐朝軍は王世充軍と各地で激戦し、ほぼ優勢でした。
竇建徳は幽州を攻めて河北統一を図っていました。
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武德二年 西暦619年

2020-06-19 10:00:13 | Weblog
武德二年 西暦619年
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閏月,辛丑,竇建德殺宇文化及於聊城。
河北で勢力を拡大していた竇建德が、逆臣宇文化及を誅しました。化及に従っていた隋臣達は多く唐朝に亡命しました[建德は寬容でしたが、卑賤の出身であり。王世充の東都隋朝は逆臣達にとっては敷居が高かったのです。その点同じ反逆者で元同僚の李淵の所には行きやすかったようです。宇文士及・封德彙・裴矩等々]
建德は蕭皇后を保護し傳國璽及鹵簿儀仗を得ました。その点では隋の正当な後継者といえます。

閏月,朱粲降。
人肉食で有名な粲が降ってきました。唐朝は「楚王」として遇しました。

三月甲戌,王薄。蔣弘度、徐師順降。李義滿降。四月,綦公順降。
山東では淮安王神通が孤立しながらも唐朝の勢力を拡大しています。
竇建徳・王世充が隣接するのですから大変です。

四月庚子,并州總管、齊王元吉及劉武周戰於榆次,敗績。
六月癸亥,裴寂為晉州道行軍總管。九月辛巳,劉武周陷並州。
突厥と連携した劉武周が南下し太原留守元吉は敗北し、応援に来た裴寂も敗退、唐朝の根拠地太原は武周に奪われてしまいました。正史では元吉の無能が記されていますが、これは世民[太宗]を持ち上げるための偽装でしょう。巨大突厥を背景にした武周に弱体な留守軍がかなうはずがありません。実のところ元吉も裴寂も問責されていません。

四月乙巳,王世充廢越王侗,自稱皇帝。
世充は隋を廃し、「鄭帝国」を建国し、河南の勢力圏を広げました。
連携していた竇建徳は怒って[ふりをして]世充との連携を切りまし
た。

五月庚辰,涼州將安脩仁執李軌以降。
癸未,曲赦涼、甘、瓜、鄯、肅、會、蘭、河、廓九州。
河西地方の豪族達が唐朝との連携を求めてきました。これにより関内以西が唐朝の勢力圏になりました。

六月,王世充殺皇帝越王侗。
八月には唐も「隋恭帝」を処分したようですが?

九月辛未,殺戸部尚書劉文靜。
文靜は対薛擧戦の敗北により降格されたわけですが、仲の悪い宰相裴寂は武周に敗戦しても降格されませんでした。その他いろいろ不満が積もり暴言を吐くことがあり、寂に誣告されて殺されてしまいました。

九月丁丑,杜伏威降。
江淮に勢力を拡大していた伏威がなぜか帰服してきました。「呉王」として遇しました。これにより東都勢力を挟撃することができるようになりました。

十月壬戌,劉武周寇晉州。
秦王世民討劉武周。
武周が南下し京師に迫り敗北が続きます。唐朝に危機が迫ります。
世民[太宗]が対峙しました。

十一月丙子,竇建德陷黎州,執淮安王神通、總管李世勣。
建德が河北の唐朝勢力を一掃しました。
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武德元年 西暦618年

2020-06-18 10:02:22 | Weblog
武德元年 西暦618年
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五月甲子,即皇帝位於太極殿。改元。
廃された代王[恭帝]は二年八月に亡くなります、死因は不明です。

六月甲戌,李世民為尚書令,裴寂為右僕射,劉文靜為納言,蕭瑀、竇威為内史令。
建成は皇太子。寂と文靜は建国の功臣、瑀は後梁の皇族出身、威は外戚です。

庚辰,立世子建成為皇太子,封世民為秦王,元吉齊王。

六月癸未,薛舉寇涇州,秦王世民為西討元帥,劉文靜為司馬。
さっそく鳳翔に自立する薛舉が来寇します。文靜が実質統帥として迎撃します。

六月辛丑,竇威薨。陳叔達判納言,竇抗兼納言。
叔達は陳の皇族出身、抗は威の代わりの外戚です。

七月壬子,劉文靜及薛舉戰於涇州,敗績。
舉に敗北し、文靜は左遷されました。西邊の危機です。世民は名目上の将なので処罰されません。

八月辛巳,薛舉卒。
都合の良いことに強盛な擧が死んでくれ、子の仁杲が嗣ぎましたが勢力は衰えました。

八月壬午,涼州李軌降。
共同して薛舉を防ごうとしたわけです。「降」は唐朝としての建前で、軌にとっては同盟です。

八月己丑,秦王世民為西討元帥,以討薛仁杲。
九月甲寅,秦州總管竇軌及薛仁杲戰,敗績。
世民が始めて統帥となり仁杲の来寇を防ぐことになりました。しかし敗北が続きます。負けたときは他将の名目になります。

九月辛未,宇文化及殺秦王浩,自稱鄭皇帝。

十月己卯,李密降。
東都で王世充に敗北した密が亡命してきました。唐朝としては密の残存勢力[徐世勣等]を吸収して華何地域に勢力拡大しましたが、密に対しては冷遇しました。

十一月,己酉,秦王世民敗薛仁杲,執之。
世民が初の軍功を上げました。唐朝は西邊からの脅威を逃れることができました。

十一月,癸丑,行軍總管趙慈景攻蒲州,隋刺史堯君素拒戰,執慈景。
十二月丙子,蒲州人殺堯君素,立將王行本。
隋の残存勢力である君素を攻めましたが敗北しました。

十二月庚子,光祿卿李密反,伏誅。
冷遇されて密は逃亡し、河南で復帰しようとしましたが殺されました。人望がなかったせ
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高祖前史 その3

2020-06-17 10:01:39 | Weblog
高祖前史 その3
隋煬帝としての大業十四年/傀儡政権としての義寧二年/5月以降は唐の武徳元年
正月丁未朔,隋恭帝[代王]詔唐王劍履上殿,贊拜不名。
簒奪に向けて準備を重ねていきます。

東都では李密と隋将王世充が激戦を重ねています。主役はそちらのほうで、唐王は辺境の反乱者でしかありません。

二月、山東方面への経略に務めます。

三月丙辰,隋煬帝が江都で麾下の宇文化及に殺されます。これで地方情勢が一変しました。今まで隋への忠誠に縛られていた者達が遠慮なく自立や服属できるのです。
化及は秦王浩を擁立して傀儡政権を作りましたが、江都を捨て東都へ帰ろうとして北上していきます[隋臣のほとんどは關内の蕃族出身なのです]。

三月戊辰,隋恭帝進唐王位相國,總百揆,備九錫,唐國置丞相等官,立四廟。
簒奪第二段階です。これで全権を握ったことになります。

五月武都、宕渠、五原等郡皆降,張長遜為五原太守。

五月、蕭銑即皇帝位於荊州,置百官,准梁室故事。
銑は「後梁」の一族です。煬帝が死んだのでこのように各地に皇帝や王が自立していきます。
荊南・嶺南の広い範囲が銑の支配下に入ります。

五月甲子,即皇帝位於太極殿。
隋東都留守元文都及左武衛大將軍王世充立越王侗為皇帝。
簒奪完成しました。東都でも傀儡政権ができあがりました。

五月辛未,突厥始畢可汗遣骨咄祿特勒來,宴之于太極殿,奏九部樂。
突厥が高祖を冊立した事をさらりとごまかして書いています。突厥の属国というのが唐の立場です。
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高祖前史 その2

2020-06-16 10:02:04 | Weblog
高祖前史 その2
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大業十三年[西暦617]五月、太原に突厥が侵攻したと称して大軍を招集します。
副留守王威や郎將高君雅は淵を疑いますが殺されてしまいます。彼らは隋の忠臣です。

六月、地方勢力を集め、義兵と称し,大將軍に自立します。歴然とした煬帝への反乱ですが、「起義」ということになります。周囲には多数の反乱軍が自立していたので、一つ増えたという程度です。若干違うのは隋の現役高官による反乱ということです。煬帝には打撃であったでしょう。
河南で反乱李密は、元名族ですが、逃走中の身でした。

乱の一党は建成、世民、元吉の三子及び[宰相格]裴寂,劉文靜,[枢密]唐儉、溫大雅、溫大有[分掌]武士彠【則天の父です】,劉政會、崔善為、張道源、姜謨,殷開山[武将]長孫順德、劉弘基、竇琮、王長諧、姜寶誼、陽屯達です。

七月、元吉を太原留守として、反軍は南下し隋軍宋老生,屈突通と戦いました。苦戦しましたが突厥の援軍を得て、老生は死に、通は降りました。
淵は名門でしたので周辺の隋官僚達に歸附するものが増えてきました。

十月、隋代王が守る長安に至り、十一月陥落させ代王を捕らえました。

壬戌,代王[十三歳]を皇帝に擁立し、煬帝を太上皇としました。もちろんこれは淵勢力圏だけの話です。
淵は大都督、尚書令、大丞相と称し,唐王になりました。
建成は唐世子,世民は京兆尹秦國公[長安知事],元吉は齊國公と称します。

関内周辺の隋臣達は歸附し勢力圏は広まっていきます。
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高祖前史 その1

2020-06-15 10:01:58 | Weblog
高祖前史 その1
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諱淵,字叔德,姓李氏,隴西成紀人。涼武昭王の末と称しますが、実際は漢人ではなく鮮卑人と言われています。
北魏の武川鎭の系列に当たります。
北周時より「八柱國家」として蕃族の名家となり、隋安州總管柱國大將軍.襲唐國公昺が父です。
七歳で父を嗣ぎ襲唐國公となります。
隋文帝の獨孤皇后が,從母になり、文帝に親愛されました。
名家出身ですので若年より登用されて殿内少監、衛尉少卿に至ります。
煬帝時、楊玄感の乱が起こると弘化留守として隴右の兵をもってこれを討ちます。
各地で反乱が起きると、大業十一年[西暦615年]山西河東慰撫大使となり賊を討ちました。
大業十三年太原留守となります。
周囲で反乱が続くため兵を整備しますが、江都の煬帝の猜疑を受け罷免されそうになります[反乱をするために追い詰められたというほうがよいわけですが]。
当時の太原の兵力は乱を起こすには十分ではありませんし、周囲に劉武周・薛擧・張長遜などが自立し、巨大な突厥も存在しますので淵は慎重に陰謀を重ねます。
この時、世民[後の太宗]が暗躍したというのは年齢から言って作り話でしょう。
晉陽令劉文靜・晉陽宮副監裴寂などが謀臣です。
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肅宗史と各種データを追加しました。

2020-06-14 10:05:26 | Weblog
今までの 太宗~則天、肅宗~憲宗、文宗~懿宗史を
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元年 西暦762年

2020-06-13 10:01:40 | Weblog
元年  西暦762年
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建丙月、李光弼拔許州,擒史朝義所署穎川太守李春;丙午,戰于城下,又破之。
光弼も順調に史朝義軍を破り河南を回復していきました。

建丙月戊申,平盧節度使侯希逸于青州北渡河而會田神功、能元皓于兗州。
遼東半島にあった營州平盧軍は唐朝に付き、孤立しながら安史の党と戦ってきましたが、耐えかねて軍民を引き連れて渤海湾を渡り山東半島に入りました。そして以前に派遣していた神功軍と合流しました。淄青平盧軍節度使の始まりです。

建卯月癸丑,河東軍亂,殺其節度使鄧景山,都知兵馬使辛雲京自稱節度使。
文官景山は淮南節度での失態を罰せられることもなく河東節度になりましたが、統制好きのため武官の反感を買い殺されました。

建卯月乙丑,河中軍亂,殺都統李國貞及其節度使荔非元禮。
文官國貞では統制ができず、軍糧の欠乏もあり軍士が反乱を起こしました。

建卯月庚午,敦子儀知朔方河中北庭潞儀澤沁節度行營興平定國軍兵馬副元帥。
肅宗は慌てて敬遠していた郭子儀を登用し鎮圧を命じました。当時、肅宗は重病でしたが宦官李輔國と対立する子儀は皇帝からの直接委任を得るため謁見を求めました。
子儀が赴任すると軍士は直ちに帰服し、河東辛雲京も軍乱を率先して鎮圧しました。

肅宗は山東十州節度來瑱を淮西十五州節度に遷しました[栄転に見えますが、荒廃した河南淮西です]、後任には崔戎を任じます。ところが瑱が赴任名中途で不服を言い復帰を求めると。定見のない肅宗はそれを認めます。そして戎は敗北し殺されるのです。

建巳月甲寅,玄宗上皇崩が崩御します。七十八歳でした。甲子,肅宗もまた崩御します。
張皇后と李輔國の間で実権争いが起き輔國が勝利し、皇后は殺されます。輔國は皇太子[代宗]を擁立し司空兼中書令となりました。宦官専横の唐朝でも宰相となったのは輔國だけです。

肅宗皇帝は個人としては悪業はありませんが、凡庸で優柔不断で、他人から操作されて動く人物です。そして大抵の場合は判断を誤りました。これでよく国が亡ばなかったものだと思われますが、唐朝の寿命がまだあったのでしょう。
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上元二年  西暦761年

2020-06-12 10:01:40 | Weblog
上元二年  西暦761年
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正月乙卯,劉展伏誅。
淮南掠奪の希望に燃えた田神功軍は急速に南下し、分散してしまった展軍を撃破します。ついでに徹底した掠奪も敢行します。現地では文官達[誰も責任をとりません]が逃げた後、牙將李蔵用だけが劣勢の中奮闘していました[後に文官に陥れられて死にます]。

二月己未,奴剌、黨項羌寇寶雞,焚大散關,寇鳳州,刺史蕭栧*死之,鳳翔尹李鼎敗之。
京師付近は蕃族の狩り場となっています。

二月戊寅,李光弼及史思明戰於北邙,敗績。思明陷河陽。
唐朝は反対する光弼に東都回復を命じますが敗北し、史思明は河北を統一しました。

三月甲午,史朝義寇陝州,神策軍節度使衛伯玉敗之。戊戌,史朝義殺其父思明。
朝義即皇帝位,改元顯聖。
勢いに乗った思明は子朝義に命じて陝州を攻撃し、京師突入を図りますが態勢を整えていた唐朝軍に撃破されます。神策軍は宦官魚朝恩が編成した軍です。朝義[思明の長子で人望がありますが、思明からは嫌われています]は責任を問われて殺されることを怖れ、先制して思明を殺し、即位します。

しかし旧將達は安禄山の弟分であった史思明には従ってきましたが、朝義にはなんの恩義も無く、自分の立場を考えて唐朝への歸順を検討し始めました。

三月、李光弼罷副元帥。
敗戦ですから一応責任はとります。しかし唐朝の指示に問題があったわけですぐ復帰します。

四月乙亥,青密節度使尚衡及史朝義戰,敗之。丁丑,兗鄆節度使能元皓又敗之。
山東で史朝義軍は連敗し敗勢が強くなります。

四月壬午,劍南東川節度兵馬使段子璋反,陷綿州,遂州刺史嗣虢王巨死之,節度使李奐奔于成都。
五月、劍南節度使崔光遠克東川,段子璋伏誅。
玄宗が成都在住中に甘やかしていた子璋が交代させられ反します。討伐は容易でしたが、光遠軍の規律が極めて悪く劍南を荒廃させました。

五月甲午,史朝義將令狐彰以滑州降。
ついに朝義軍より大物の降者が現れました。

八月辛巳,殿中監李國貞都統朔方鎮西北庭興平陳鄭河中節度使。
肅宗は失敗に反省せず、文官國貞を都統として、光弼とともに朝義追討に向かわせました。

九月壬寅,大赦,去「乾元大聖光天文武孝感」號,去「上元」號,稱元年,以十一月為歲首,月以鬥所建辰為名。
祭祀好きの肅宗がまた無意味な制度変更を始めました。
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