唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

武德二年 西暦619年

2020-06-19 10:00:13 | Weblog
武德二年 西暦619年
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閏月,辛丑,竇建德殺宇文化及於聊城。
河北で勢力を拡大していた竇建德が、逆臣宇文化及を誅しました。化及に従っていた隋臣達は多く唐朝に亡命しました[建德は寬容でしたが、卑賤の出身であり。王世充の東都隋朝は逆臣達にとっては敷居が高かったのです。その点同じ反逆者で元同僚の李淵の所には行きやすかったようです。宇文士及・封德彙・裴矩等々]
建德は蕭皇后を保護し傳國璽及鹵簿儀仗を得ました。その点では隋の正当な後継者といえます。

閏月,朱粲降。
人肉食で有名な粲が降ってきました。唐朝は「楚王」として遇しました。

三月甲戌,王薄。蔣弘度、徐師順降。李義滿降。四月,綦公順降。
山東では淮安王神通が孤立しながらも唐朝の勢力を拡大しています。
竇建徳・王世充が隣接するのですから大変です。

四月庚子,并州總管、齊王元吉及劉武周戰於榆次,敗績。
六月癸亥,裴寂為晉州道行軍總管。九月辛巳,劉武周陷並州。
突厥と連携した劉武周が南下し太原留守元吉は敗北し、応援に来た裴寂も敗退、唐朝の根拠地太原は武周に奪われてしまいました。正史では元吉の無能が記されていますが、これは世民[太宗]を持ち上げるための偽装でしょう。巨大突厥を背景にした武周に弱体な留守軍がかなうはずがありません。実のところ元吉も裴寂も問責されていません。

四月乙巳,王世充廢越王侗,自稱皇帝。
世充は隋を廃し、「鄭帝国」を建国し、河南の勢力圏を広げました。
連携していた竇建徳は怒って[ふりをして]世充との連携を切りまし
た。

五月庚辰,涼州將安脩仁執李軌以降。
癸未,曲赦涼、甘、瓜、鄯、肅、會、蘭、河、廓九州。
河西地方の豪族達が唐朝との連携を求めてきました。これにより関内以西が唐朝の勢力圏になりました。

六月,王世充殺皇帝越王侗。
八月には唐も「隋恭帝」を処分したようですが?

九月辛未,殺戸部尚書劉文靜。
文靜は対薛擧戦の敗北により降格されたわけですが、仲の悪い宰相裴寂は武周に敗戦しても降格されませんでした。その他いろいろ不満が積もり暴言を吐くことがあり、寂に誣告されて殺されてしまいました。

九月丁丑,杜伏威降。
江淮に勢力を拡大していた伏威がなぜか帰服してきました。「呉王」として遇しました。これにより東都勢力を挟撃することができるようになりました。

十月壬戌,劉武周寇晉州。
秦王世民討劉武周。
武周が南下し京師に迫り敗北が続きます。唐朝に危機が迫ります。
世民[太宗]が対峙しました。

十一月丙子,竇建德陷黎州,執淮安王神通、總管李世勣。
建德が河北の唐朝勢力を一掃しました。
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