唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

淄青 李師道の乱 1

2022-12-31 08:05:31 | Weblog
淄青節度は李正己-納-師古と続き、十二州を領有し経済的にも安定していました。
師道は師古の異母弟でしたが、兄弟仲は悪く師古は「師道のような愚者に継がせれば国は亡ぶ」と言い、常に排斥し知密州事として僻地においていました。
師道は政治性は乏しかったのですが、文化人で絵画や音楽に造詣がありました。

元和元年閏6月
師古が卒すると、幕僚達は師道を擁立しました。幕僚達は文人ですから師道に好感を抱いていたのでしょう。

朝廷は西川劉闢の征討中でしたのでやむを得ず、建王審を鄆州大都督平盧淄青節度使とし、節度副使李師道を權知鄆州事充節度留後として継承を認めました。

元和元年9月
留後師道は檢校工部尚書平盧淄青節度副大使知節度事となりました。

その後、成德王承宗を密かに支援していました。

元和7年魏博田弘正の就任に干渉して出兵しようとして、宣武韓弘に阻止されました。

元和10年成德王承宗と淮西吳元濟の継承を支援しましたが、憲宗皇帝に拒否されました。

師道は不満を持ち、兵二千人を淮西に送りました。
また養っていた刺客に、河陰轉運院を襲撃させ、錢帛三十餘萬緡匹、穀二萬斛を焼かせました。

元和10年6月
師道の刺客達は王承宗麾下と、藩鎭強硬派の宰相武元衡、御史中丞裴度を襲撃して元衡を殺害し、度を負傷させました。
朝廷は承宗の仕業と判断しましたが、実際の実行犯は師道の麾下でした。

元和10年8月
師道は嵩山僧圓淨.將訾嘉珍に淄青東都進奏院に潜ませた數百人の兵を蜂起させ、弱体の東都の守備をつき宮殿等を焼き払う計画でしたが、事前に密告があり留守呂元膺は進奏院を包囲させました。圓淨等は突出し嵩岳に入りましたが捕らえられ処刑されました。また武元衡暗殺の首謀者が師道であることも知れました。

元和10年11月
師道兵が徐州に侵攻し、蕭、沛數縣を攻めましたが、武寧節度李愿の將王智興が撃退しました。

元和10年12月
武寧軍都押衙王智興が師道兵を平陰で破りました。

元和11年10月
師道は淮西の劣勢を聞いて一応謝罪し検校司空を与えられました。唐朝は成德・淮西の征討にかかっていて淄青まで手が回らなかったのです。

元和12年11月
淮西吳元濟が滅亡しました。

元和13年正月
師道は狼狽して帰朝を請願しました。
沂、密、海三州を献納し、長子を人質にするという条件でした。そこで諫議大夫張宿が派遣されましたが、途次に急死したため、左常侍李遜が派遣されました。

元和13年3月
滄景程權が帰朝しました。

元和13年4月
師道は闇弱で妻魏氏や家奴達に左右されていた。魏氏は子を人質にするのは反対で、それに師道は動かされ帰朝を主導した幕僚達を投獄しました。遜は師道の帰朝は偽りであると上奏しました。

成德王承宗が徳棣二州を献納し、実子を人質とする条件で帰朝しました。師道は出遅れて孤立してしまいました。憲宗皇帝は淄青を滅ぼす決断をしました。
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淮西 吳元濟の乱 2

2022-12-30 08:15:32 | Weblog
元和11年7月
宦官達の支援がある高霞寓は歸州刺史への左遷で収まり、李遜も巻き添えで恩王傳に左遷されました。

河南尹鄭權が山南東道節度使となり、非戦派の荊南節度使袁滋が彰義軍節度申光唐蔡隨鄧州觀察使として前線へ、武官の隨州刺史楊旻為唐州刺史行營都知兵馬使として実戦にあたります。おかしな人事だといわざる得ません。

宣武韓弘が元濟軍を郾城で破りました。

元和11年8月
非戦派の宰相韋貫之が罷免されました。

元和11年9月
李光顏、烏重胤が陵雲柵を陥しました。これは多少の戦果です。

元和11年10月
督戦のため内常侍梁守謙を監淮西行營諸軍としました。

元和11年11月
李文通は淮西兵を固始で破りました。

元和11年12月
袁滋がまったく戦う意志を示さないので罷免し、閒廄宮苑使李愬を鄧州刺史充唐隨鄧等州節度使としました。愬は晟の子です。

元和12年正月
赴任した李愬はあいつぐ敗戦により、唐鄧隋軍の志気が地に落ちていて、戦える状態でないと知りひたすら將士を慰撫しました。
淮西軍は実績のない愬を軽視して主戦場を光顔・重胤方面と定めました。

元和12年2月
鄂岳團練使李道古[皋の子]は申州を攻め、外郭を陥しましたが、反撃され大敗しました。

愬は兵力支援を求め、昭義、河中、鄜坊軍二千が増援されました。
また淮西将丁士良を捕らえてなづけました。

淮西も連年の戦乱に疲弊し、流民が増加しました。朝廷は行郾城縣を置き流民を慰撫しました。

元和12年3月
淮西将吳秀琳は文城柵を以って愬に降りました。唐鄧隋軍の志気がやや回復しました。

元和12年3/4月
李光顏は淮西兵三萬を郾城で破りました。

淮西郾城守將鄧懷金・縣令董昌が郾城を以って降りました。
元濟は危機感を覚え、董重質に主力軍を与えて対峙させました。

愬が淮西兵を嵖岈山に破りました。

元和12年5月
愬は淮西軍を吳房・張柴で破り、將李祐を捕らえ、帰服させました。

元和12年閏5/6月
元濟は形勢不利を悟り帰朝しようとしたが董重質等に止められました。

元和12年6月
征討がはかばかしく進まずあせる憲宗皇帝に、宰相裴度はみずから督戦に行くことを申し出て、淮西宣慰使となりました。韓弘に遠慮して招討は省きました。

元和12年8月
裴度は出陣し皇帝は自ら送りだしました。

李光顔・烏重胤は淮西軍に賈店で敗北しました。

元和12年9月
非戦派の宰相李逢吉が解任され、東川節度に出されました。

愬は淮西兵を蔡州吳房に破りました。

元和12年10月
裴度は自ら督戦に出ましたが、淮西董重質の急襲をうけかろうじて逃れました。

李愬は蔡州を奇襲し、吳元濟を捕らえました。淮西軍主力が北方に集中している隙をついたものです。愬軍を軽視していた淮西軍は少しも備えていませんでした。

申、光二州や諸鎮兵二萬餘人が相繼來降しました。

董重質も降り、李光顔は淮西軍を自軍に加えました。

裴度が蔡州に入り、淮西節度使に就任しました。

元和12年11月
吳元濟が京師で誅されました。
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淮西 吳元濟の乱 1

2022-12-29 08:12:19 | Weblog
元和9年閏8月
淮西節度使吳少陽が卒しました。少陽は罪人を集めたり、隣地の壽州の茶山を掠奪したりと不法は重ねましたが、正面だって反することはない状態でした。子の元濟が自立し、継承に圧力を加えるつもりで許州舞陽を陥し、汝州魯山・襄城・葉四縣に侵攻しました。

山東嚴綬、忠武李光顏、壽州李文通、河陽烏重胤に征討を命じました。

元濟は幕僚達の反対を押し切って反意を示し、呉少誠の婿董重質を謀主としました。

元和9年10月
山東節度使嚴綬が兼充申光蔡等州招撫使となり、内常侍崔潭峻が監軍となりました。

元和10年正月
元濟の官爵を削りました。

元和10年2月
嚴綬は元濟軍に磁丘で大敗し唐州に退却しました。

壽州團練使令狐通は淮西軍に敗れ敗走しました。諸柵は全て淮西に奪われました。
左金吾大將軍李文通が壽州に入り、通は昭州司戸へ左遷されました。

田弘正の子布、韓弘の子公武が忠武李光顏麾下で征討に参加しました。

元和10年3月
李光顏が淮西軍を陳州南頓、許州臨潁で破りました。

呉元濟は王承宗、李師道と結び、継承支援を求めました。

元和10年4月
光顏は元濟軍を南頓で破りました。

元和10年5月
光顏は元濟軍を洄曲/時曲で破りました。
淮西宣慰使裴度は諸軍を巡視し、淮西軍は強く、光顔だけが勇猛であると報告しました。

元和10年8月
光顏は元濟軍に時曲で敗北しました。

元和10年9月
宣武軍節度使韓弘が淮西行營兵馬都統となりました。

元和10年10月
元濟征討のため山東節度使を分割し、戸部侍郎李遜を襄復郢均房節度使として兵站を担当させ、右羽林將軍高霞寓を唐隨鄧節度使として前線にあたらせました。

元和10年11月
山南東道節度使嚴綬は解任され太子少保となりました。

李光顏、烏重胤は元濟軍を小溵河で破りました。

壽州李文通が元濟軍を光州固始で破りました。

元和11年3月
壽州李文通が淮西軍を固始で破り、金敖山を抜きました。

高霞寓が淮西兵を郎山で破りました。

元和11年4月
李光顏、烏重胤が淮西軍を淩雲柵で破りました。

元和11年5月
李光顏、烏重胤が淮西軍を淩雲柵で破りました。
「破った、破った」は戦いました程度のもので恩賞目当ての報告でしかありません。

元和11年6月
高霞寓が鐵城で大敗しました。これは本当の敗戦です。
霞寓は李遜の支援が不十分だと責任転嫁を謀りました。

朝廷では財政的困難もあり征討中止論が噴出しました。
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淮西 吳少誠の乱

2022-12-28 08:17:42 | Weblog
貞元2年6月
李希烈に寵愛されていた少誠は、唐に帰順していた節度使陳仙奇を殺害し自立しました。
疲弊していた朝廷は征討する余力が無く、虔王諒を名目的な申光隨蔡節度大使とし、少誠を留後として継承を認めることになりました。

貞元3年3月
仙奇が、唐朝への忠誠を示すため防秋に派遣していた5千人のうち、4千人が少誠の指嗾を受け無断帰国しました。途中諸鎮に迎撃され蔡州にたどりついたのは50人にすぎませんでした。少誠はその少なさに激怒してすべて殺しました。

貞元3年5月
申州刺史張伯元、判官鄭常等が、反唐的な少誠を逐おうとして失敗し殺されました。

貞元9年12月
宣武の軍乱に介入しようとし、李萬榮に一蹴されました。

貞元12年1月
申光蔡度支營田等使檢校工部尚書兼蔡州刺史御史大夫吳少誠に檢校右僕射が加えられました。

貞元13年10月
少誠は勝手に他領域に影響する淘刁河、汝河を開こうとし朝廷に制止されました。

貞元14年9月
少誠は壽州霍山を侵し、鎮遏使謝詳を殺し、領域を広げました。淮西の領域は希烈の時代より大幅に狭く、財政的に困難なため、壽州の茶利を得ようとしたのです。

貞元15年3月
少誠は唐州を侵し、鎮遏使張嘉瑜・監軍邵國朝を殺して、居民千餘を拉致しました。

貞元15年4月
安州刺史伊慎を安黄等州節度使に昇格させ、淮西への牽制としました。

貞元15年8/9月
陳許節度使曲環の死に乗じて少誠は許州臨穎を陥し、許州を包囲しました。

少誠の官爵を削りました。

貞元15年9月
少誠と陳許分割を策していた宣武軍節度使劉全諒が頓死しました。後任の都知兵馬使韓弘は少誠に同じませんでした。

宣武、河陽、鄭滑、東都汝、成德、幽州、淄青、魏博、易定、澤潞、河東、淮南、徐泗、山東。山西、鄂岳軍が少誠を討つために動員されましたが、中心となる招討使はおらず、各鎭から派遣された諸将がばらばらに進軍するという馬鹿げたものでした。

少誠は許州を猛攻しましたが、上官涗・劉昌裔は守り抜き、陳州西華攻撃も大將孟元陽に撃退されました。

貞元15年10月
山東于頔、安黄伊慎、知壽州事王宗與・上官兌・韓弘などが戦勝を上奏しました。もちろん意味のないものです。

貞元15年11月
山南東道節度使于頔は蔡州吳房,・朗山を陥しました。

陳許節度使上官涚は柴籬に少誠軍を破りました。

安黃節度使伊慎は少誠軍を申州鐘山に破りました。

貞元15年12月
諸道軍は大軍でしたが、統帥なくバラバラに進退するだけでした。小殷水で反撃を受けるとたちまち潰乱して、器械・資糧を棄てて退却しました。

貞元16年正月
残った成徳・義武・忠武・河陽四鎮軍も敗北し撤退してしまいました。

貞元16年2月
総指揮をとる者がいないと混乱するという当然の事に気がついた德宗皇帝は、中尉竇文場のお気に入りの左神策行營銀夏節度等使韓全義を蔡州行營招討使とし、陳許節度使上官兌を副とし、十七道兵は皆節度を受けました。全義は勇猛だが軍才なく、宦官達の頤使に甘んずるという政治的將軍でした。

貞元16年4月
全義は出陣しましたが、事ごとに監軍の宦官達の意向を伺い方針が動揺し、暑熱により疾病が増加し、諸軍の將士の士気は低下してしまいました。

貞元16年5月
全義は淮西將呉秀、呉少陽に溵水南/廣利城で大敗し五樓に退きました。

貞元16年7月
安黄伊慎は少誠軍を申州に破りました。

少誠軍は五樓へ進出し、全義軍を大破しました、全義はさらに陳州殷水縣城に退却しました。

貞元16年9月
少誠軍は殷水に迫り、全義は敗走して陳州に退却しました。諸軍は馬鹿馬鹿しくなり勝手に本道に戻ろうとしました。全義は河陽・昭義・義成・河中將を斬って威を示しますが、陳州刺史劉昌裔に入城を拒否されます。

貞元16年10月
少誠は兵を退き蔡州に帰ります。戦闘には完全に勝利しましたが、財政的には得るところは少なく破綻状態でした。一応形式的に謝罪し、朝廷はこれ幸いとばかり赦します。

貞元17年正月
全義は帰還しましたが恥じて朝参を避けました。宦官竇文場は失敗を隠すため、少誠が降ったと稱し、耄碌した德宗皇帝はそれを信じましたが、皇太子や官僚以下は実態をよく知っていました。
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淮西 李希烈の乱 3

2022-12-27 08:56:11 | Weblog
興元元年6月
朱泚が誅され、京師が回復されました。

興元元年7月
嗣曹王皋將李伯潛が希烈將劉戒虛を應山に破り捕らえました。そして安州を陥しました。
伊慎が安州刺史となり、希烈將康叔夜を厲鄉で破りました。

興元元年8月
希烈は弟希倩が誅されたことを聞き、顏真卿を殺しました。

興元元年閏10月
希烈將翟崇暉は大軍で陳州を包囲していますが落とせません。

躊躇していた李澄は情勢をみて帰国することに決し、汴州刺史汴滑節度使封武威郡王となりました。

興元元年11月
宣武劉洽將劉昌と行営節度使曲環は希烈將翟崇暉を陳州に大破し捕らえました。
さらに汴州に進んで、李澄と合同して攻め、希烈汴州守將田懷珍が降りました。

希烈は蔡州に逃げ戻りました。

興元元年12月
淮南節度使陳少游が卒しました。李希烈への通謀が知られていたこともあり自殺かもしれません。德宗皇帝は事を荒立てず太尉を遺贈しました。

壽州刺史張建封が濠壽盧都團練使となりました。

浙江節度韓滉を同平章事江淮轉運使としました。

貞元元年3月
李希烈は鄧州を陥し、守將黃金岳は敗死しました。

貞元元年3月
江西曹王皋は荊南節度となりました。

希烈將李思登が隨州を以って降りました。

貞元元年7月
李懷光が誅され、もはや叛者は李希烈だけとなりました。

貞元2年2月
山東節度使樊澤は来寇した希烈將杜文朝を泌河に破り捕らえました。

貞元2年3月
義成李澄は希烈軍を鄭州に破りました。

希烈は兵勢が衰え、意気阻喪して病となりました。

貞元2年4月
淮西牙將陳仙奇は希烈を毒殺させ、その一族を誅して帰国しました。仙奇を淮西節度使としました。
仙奇は唐朝の指示を誠実に実行しますが、6月希烈の恩顧を受けた吳少誠に殺されました。少誠がまた自立します。
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淮西 李希烈の乱 2

2022-12-26 08:53:50 | Weblog
建中4年4月
永平宣武河陽等軍節度都統檢校司徒平章事李勉が淮西招討使となり、儔と哥舒曜、荊南張伯儀、山東賈耽、江西嗣曹王が副となりました。

哥舒曜軍は穎橋で潰乱し襄城に退きました。希烈將李光輝が襄城を攻めました。

建中4年8月
希烈は大軍で哥舒曜を襄城に攻めました。

希烈將曹季昌が隨州をもって降りましたが、將康叔夜が殺して復帰しました。

建中4年9月
李勉將唐漢臣、劉德信が扈澗で大敗し東都が危険になりました。德宗皇帝の指示の誤りです。

舒王謨を荊襄江西沔鄂節度諸軍行營兵馬都元帥とし希烈を討つ総大将となりました。

建中4年10月
涇原姚令言に東都支援を命じましたが京師で反しました。

希烈軍は襄城を陥し、食が尽きた哥舒曜は東都へ奔りました。

建中4年11月
淮南陳少游、浙江韓滉は自衛し貢納を送らなくなりましたが、江西曹王皋だけが輸送しています。

建中4年12月
希烈は汴、鄭二州を陥しました。永平節度李勉は宋州に奔ります。

滑州刺史李澄は城を以って希烈に降りました。

希烈は襄邑を陥し、劉洽將高翼は敗死しました。さらに寧陵を攻めます。

淮南陳少游は希烈に通じました。

希烈の勢力は絶頂期となり東都を狙います。

興元元年正月
追いつめられた德宗皇帝は大赦を発し、朱泚・朱滔以外の反者の既得権を認め歸順を求めます。魏博田悅・成徳王武俊・淄青李納はそれに応じましたが、絶頂期にある李希烈は拒否しました。

宣武劉洽が汴滑宋毫都統副使となり李勉に代わって指揮をとることになりました。

希烈は將楊峰を淮南に派遣して壽州を帰服させようとしましたが、刺史張建封は峰を斬り、希烈に対抗しました。

希烈は將杜少誠を淮南節度使とし、壽州を攻めましたが建封に撃退され、ついに南寇して蘄、黄州を取ろうとしましたが、曹王皋將蘄州刺史伊慎に永安戍で大破され、少誠は敗走しました。

希烈將董侍が鄂州を攻撃しましたが、刺史李兼に撃退されました。兼は鄂岳沔都團練使となりました。

希烈の淮南方面への侵攻は、曹王皋によりすべて阻止されてしまいました。

興元元年2月
希烈は自ら五萬で寧陵を囲みました。濮州刺史劉昌が死守しています。
その後韓滉將王棲曜が来援し強弩を以って脅かしたため、希烈は撤退しました。

希烈に降った滑州刺史李澄は密かに帰国を求め、德宗は澄を汴滑節度使としましたが、澄は希烈を懼れて両端を持しています。

興元元年3月
宣武劉洽が同平章事權知汴滑宋毫都統兵馬事となりました。
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淮西 李希烈の乱 1

2022-12-25 08:50:57 | Weblog
淮西左廂都虞候李希烈は淮西節度使同平章事李忠臣の族子でした。忠臣は平盧軍の出身で汴宋李靈耀征討などで大功があり汴州刺史として淮西を支配してきましたが、貪殘好色で將士の妻女に手を出し、軍政は妹婿節度副使張惠光に一任し、惠光は専権横暴でした。そのため將士に不満がつのってきました・。

大暦14年3月
希烈は將丁暠等と惠光を殺し、忠臣を逐いました。忠臣は単騎で京師に逃れ、旧功を評価され検校司空平章事として宰相格で待遇されました。そして希烈は留後となりましたが、漕運の要地汴州は取り上げられ、蔡州刺史に遷されました。

大暦14年閏5月
希烈は節度使となりました。淮西軍としては収入の多い汴州を失ったことは痛手でしたが、希烈にとっては継承を認めてもらうことが先決でした。

その後、建中2年までは希烈は一応唐朝に協力的でした。

建中2年5/6月
淮寧軍節度使李希烈は漢南北諸道都知兵馬招撫處置等使封南平王として山東梁崇義を征討することになります。宰相楊炎は希烈を信用せず反対しますが、德宗皇帝と盧杞は押し進めます。

建中2年7月
任命された希烈は逗留し崇義を討ちません。盧杞は楊炎が問題だとして宰相を罷免させました。

建中2年8月
希烈は崇義を猛攻し、たちまち襄陽を陥し、崇義は自尽しました。

建中2年9月
希烈は山東節度を併合するつもりでしたが、朝廷は希烈に同平章事を加えたのみで、山東節度には李承を赴任させました。得るところがなく希烈は極めて不満でした。

建中3年7月
希烈は兼平盧淄青兗鄆登萊齊州節度使として自立した李納を討つよう命ぜられました。淮西と淄青は旧平盧軍系の同根です。希烈はまた実利もなく便利使いされるのかと憤懣を抱きました。

建中3年11/12月
希烈は許州で天下都元帥太尉建興王を自称し、朱滔・李納・田悅・王武俊など四鎭と盟約しました。
淄青を討つため汴州を経由すると宣言しましたが、永平節度李勉は汴州の防禦を固め入れませんでした。

建中4年正月
希烈は汝州を陥し、知州事李元平を捕ら、さらに尉氏を陥し、鄭州を囲みました。元平は希烈に附きました。

龍武大將軍哥舒曜[翰の子]が東都畿汝節度使となり、鳳翔・邠寧・涇原軍を率いて希烈を討つことになりました。

德宗皇帝は盧杞の提言により太子大師顔眞卿を派遣し希烈を説得させようとしましたが。幽囚されるだけでした。

希烈將封有麟が鄧州を抑え、貢獻南路を不通にさせました。

建中4年月
哥舒曜は汝州を回復し、將擒周晃を捕らえました。

建中4年3月
嗣曹王皋に將陳質・韓霜露が敗れ蘄・黄二州を失いました。

荊南節度使張伯儀は希烈に安州で大敗しました。

都虞侯周曾、鎮遏兵馬使王玢、押牙姚憺、韋清等が李勉に通じて希烈を除こうとしましたが発覚し、淸以外は殺されました。
尉氏、鄭州の軍は撤退しました。
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奉天 朱泚の乱 2 附涇原姚令言

2022-12-24 08:20:20 | Weblog
建中4年11月
隴州を奉義軍とし、皋を節度使としました。隴州は鳳翔の西ですから楚琳も背後が心配なのでうかつに動けません。

靈武留後杜希全・鹽州刺史戴休顏・夏州刺史時常春・渭北節度使李建徽は奉天に応援しようとしましたが泚に漠谷で大破され、邠州に退却しました。

神策河北行營節度使李晟も懷光を追い京師に急行しました。

陝虢觀察使姚明敡は軍事を都防御副使張勸に委ねて逃亡しましたが、勸は募兵して數萬を得て陝虢を守り陝虢節度使に任ぜられました。

奉天城は資糧が尽きてきました。

懷光軍は河中に到着し、河中尹李齊運の努力で關内に入りました。

李晟軍も兵力を増やしながら到着し東渭橋に入りました。

神策兵馬使尚可孤は武關より入り、泚將仇敬を破り、藍田を陥しました。

朱泚將何望之は刺史董晉を逐い、華州を取りましたが、潼関守將駱元光に奪還されました。元光を鎮國軍節度使としました。元光は昭應に進みました。

馬燧行軍司馬王權と子匯軍五千人は中渭橋に屯しました。

諸軍が京師に迫り李忠臣は泚に急を告げました。そのため泚は奉天城を急攻し、落城の危機が迫りました。

懷光將張韶は、奉天城内に潜行し、懷光の来援を伝えました。そのため城中の志気は回復し、またそれをしった泚軍は動揺しました。

懷光は泚軍を澧泉に破り、泚軍は奉天の攻囲を解き京師に撤退しました。

金、商からの運路が開き、諸道貢賦が到着し資糧が充足してきました。

泚は京師に帰り防衛に徹しました。泚は財をケチらず德宗皇帝が溜め込んだ膨大な財を將士・官僚に配ったため政権は安定していました。旧幽州・神策兵を優遇し、涇原兵は粗暴として評価しませんでした。

李懷光は德宗周辺の乱の責任がある宰相盧杞以下を糾弾しましたが、德宗皇帝は杞等に執着しました。そのため懷光は京師を回復しようとせず逗留しました。

建中4年12月
德宗皇帝はやむをえず盧杞等を左遷しましたが、懷光の入朝も認めず、不満な懷光は叛意を示し、泚と通じました。

興元元年正月
德宗皇帝は大赦して朱泚・朱滔・李希烈[不受命]以外の敵を減らしました。

泚は國號を「漢」とし、漢元天皇と自称し、「天皇」と改元しました。

興元元年2月
京師周辺の唐軍では懷光と李晟は対立したため、回復の動きはありません。晟は盛んに泚と懷光の通謀を上疏しています。

興元元年3月
懷光軍は弱体化したため河中に撤退しました。

興元元年4月
涇原兵馬使田希鑒が節度使馮河清を殺して自立し、泚に附きました。

渾瑊は泚將韓旻を武亭川に破りました。

興元元年5月
尚可孤が泚將仇敬忠を藍田西で破り、敬忠は敗死しました。

李晟軍は京師に突入し、皇城に迫りました。

張光晟は泚を裏切って晟に通じ、泚・令言に逃避を勧めました。そこで泚は京師を棄てて逃亡しました。
李晟は京師を回復し、李希倩、敬釭、彭偃等八人を誅しました。

興元元年6月
泚は吐蕃に落ちようとし、途中涇州田希鑒を頼りましたが、希鑒は裏切って入れません。
旧涇原の兵は令言を殺して降りました。
泚は旧幽州兵・親族と馬關をめざしますが、寧州刺史夏侯英が遮ります。
將梁庭芬・韓旻は泚を殺し降りました。
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奉天 朱泚の乱 1 附涇原姚令言

2022-12-23 08:17:51 | Weblog

朱泚と滔は兄弟です。どちらかといえば滔の権力欲が強く、泚は理想家肌でした。幽州節度使朱希彩が殺された後、滔の支援で泚が節度使となりました。泚は唐朝への憧れが強く、最初は弟滔を防秋[対吐蕃防衛]に派遣し、ついでは自身が兵を率いて入朝しました。河北の三鎭の中で最も朝廷に従順であったわけです。泚は幽州に帰らず、滔を実質節度使並の留後として任せ、精強な麾下の兵を關内諸鎮に配属しました。泚は寛厚であったため將士の信望は高いもので、郭子儀の後をついで大尉兼中書令として宰相格となり、京師の西を守る鳳翔隴右節度使を兼任し、大暦14年には西川への吐蕃の入寇を撃破しました。

ところが建中3年4月滔が所領の不満から田悅・王武俊と反したため、警戒した朝廷により泚の鳳翔隴右節度使は解任されました。もちろん泚が反したわけではないため、實封を増やすなどはされましたが兵権は奪われたわけで、泚は自邸に閉じこもりました。

建中4年10月
淮西李希烈が東都に迫り、唐軍は危機に瀕しました。そこで舒王謨を都元帥として追加の征討軍を送ることにしました。

その一部となる涇原節度使姚令言は兵五千を引き連れ、寒雨を冒して京師へ強行軍してきました。兵達は豊かな賞賜を与えられることを期待してそれを家に持ち帰る子弟をつれていたのです。

ところが滻水に到り、そこで京兆尹王翃が提供したのは賞賜どころか粗飯だけでした。將士は激怒して京師に乱入しました。令言は当時朝参しており、慌てて帰陣し、乱を抑えようとしましたが、かえって將士は令言を連行して進撃しました。

德宗皇帝は慌てて賞賜を与えましたが將士は収まらず、皇城に突入し寇掠しました。

神策軍は軍使白志貞等の腐敗によって形骸化しておりなんの働きも示しませんでした。

德宗皇帝は京師皇城を捨てて側近と奉天城に逃亡しました。

涇原軍や遊民は皇城の府庫を荒らしまくりました。

反乱は本意ではなく、小物でしかない姚令言は「大尉朱泚を擁立するしかない」と提言し、將士も同意しました。

鬱屈していた泚は応じて入城し權知六軍を自称しました。

光禄卿源休は泚に自立を勧め、宰相李忠臣・太僕卿張光晟・工部侍郎蔣鎮・太常卿敬釭を集めました。

鳳翔涇原將張廷芝、段誠諫等數千人が潼関より戻り泚に附きました。關内諸軍には泚の息のかかった部下が多数いましたし、將士の間で泚は信望が高いのです。次々と泚軍に参加する者達が増えました。

奉天に逃亡した皇帝の元へ、軍人官僚達が追いつき、威望ある左金吾大將軍渾瑊を京畿渭北節度使行在都知兵馬使とし、白志貞・令狐建・侯仲莊を將としましたが兵備は整いません。

泚は司農卿段秀實・左驍衛將軍劉海濱等も召還しましたが、秀實達は泚の自立に批判的でした。泚が即位の相談を始めると秀實は反対して襲撃しましたが殺されました。

少府監李昌巙を京畿渭南節度使としました。

朱泚の息のかかった鳳翔將李楚琳は節度使張鎰を殺し自立し、泚に附きました。

隴州刺史郝通は楚琳に附きました。

商州團練兵が刺史謝良輔を殺しました。

泚は大秦皇帝として即位し、應天と改元しました。弟滔を皇太弟とします。
姚令言・李忠臣・源休・蔣鎮・李子平が宰相となりました。
在京の唐の皇族達77人を殺しました。

右龍武將軍李觀が千人を率いて奉天へ入り、その他兵5千人を徴募しました。

涇原留後馮河淸は唐に附き、甲兵を奉天に入れました。河淸を涇原節度使とします。

右僕射崔寧が奉天に来ましたが、王翃・盧杞の讒言により殺されました。

河北行營に奉天の乱の報が着き、全軍が撤退し、朔方節度使李懷光は急いで戻ることに決めました。

蕭復為・劉從一・姜公輔を宰相としました。

朱泚は自ら大軍を率い奉天城に迫りました。姚令言・張光晟が従います。李忠臣は京師留守です。

邠寧留後韓遊瓌,慶州刺史論惟明等は三千を率い奉天に入りました。

泚は奉天城を攻め、渾瑊と激戦を重ねました。泚軍は続々と増え数万に達します。

汝鄭應援使劉德信が来援し泚軍を見子陵に破りました。

泚は奉天城の三面を攻撃し、渾瑊はなんとか撃退しましたが、將呂希倩・高重捷は戦死しました。

渾瑊を京畿渭南北金商節度使としました。

隴右營田判官隴右留後韋皋は隴州を保ち、唐に附きました。
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徐州 龐勳の乱 3

2022-12-22 08:09:51 | Weblog
咸通10年6月
馬舉は濠州呉迥を攻めました。

將軍宋威が徐州西北面招討使となり、曹翔軍と合しました。

咸通10年7月
康承訓・曹翔は進攻し、賊將陳全裕.李兗.朱玫は降りました。

龐勳は龐舉直・許佶に徐州を守らせ、官軍の背後の宋亳州をつくため出撃しました。

咸通10年8月
宿州守將張玄稔が降りました。

咸通10年9月
張玄稔は官軍先鋒となり苻離を陥し、徐州城を陥し龐舉直や許佶を誅しました。

咸通10年10月
龐勳は宋・亳州を攻撃しました。康承訓は沙陀騎兵に追わせ、渙水に大破し、勳もまた戦死しました。

賊党は呉迥の濠州を除き皆降りました。

咸通10年11月
馬舉は濠州を陥し、呉迥も戦死しました。

恩賞として康承訓は同平章事河東節度使,杜慆は義成軍節度使、沙陀朱邪赤心[李國昌]は左金吾上將軍となりました。また辛讜は亳州刺史に任用されました。賊に迎合した和州刺史崔雍は殺され、家屬は流罪となりました。
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徐州 龐勳の乱 2

2022-12-21 08:06:45 | Weblog
咸通9年11月
朝廷はなおも高品康道偉を派遣して慰撫しました。龐勳は兵威を示し節度使を求めますが、彦曾の罷免をするだけのものでした。

龐勳軍は兗州魚台等近隣の十縣を荒らしました。

右金吾大將軍康承訓を義成節度使徐州行營都招討使とし、神武大將軍王晏權、羽林將軍戴可師を招討使として諸道兵を動員し征討することになりました。騎兵軍として勇猛な沙陀朱邪赤心及吐谷渾、達靼、契苾なども動員されました。

呉迥が泗州を落とせないので、龐勳は將劉佶・王弘立を増援しました。救援に来た淮南軍李湘は観望し、鎭海軍翟行約は敗死しました。

咸通9年12月
淮南軍李湘も大敗し、湘は捕らえられました。

龐勳將丁從實は南下して舒、廬州に入り、北は沂、海州を侵し、海州沭陽、穎州下蔡、和州烏江、盧州巢縣を陥しました。さらに滁州を陥し、刺史高錫望を殺しました。

さらに和州に進むと、刺史崔雍は賊に迎合し、城内を掠奪させました。

咸通9年閏12月
招討使戴可師は三萬を率いて淮南に入り賊を討ちましたが、油断して賊將王弘立に襲撃され敗死しました。

龐勳軍は壽州を包囲しました。

官軍は宋州に大軍を結集し、龐勳は動員して対抗しようとしましたが、資財が尽き住民から収奪したため、住民の支持を失っていきました。

王晏權は臆病なため、泰寧節度使曹翔を徐州北面招討使とし、翔軍は徐州滕・沛を攻めました。

魏博節度使何全皞は出兵し朝廷軍を支援しました。

咸通10年正月
康承訓は諸道軍七萬で柳子西に屯し、徐州に迫りました。

海州を攻めた賊軍は敗れ、壽州攻撃軍も撃退されました。

食糧が尽きていた泗州に處士辛讜は浙西軍を率いて強行し支援に成功しました。

咸通10年2月
康承訓は沙陀騎兵を使い、賊将王弘立を大破しました。

咸通10年3月
康承訓は柳子に賊将姚周を大破し、周は宿州に奔りましたが、守將梁丕に殺されました。

咸通10年4月
龐勳は崔彦曾や監軍張道謹、捕らえた官軍將達を殺し決意を示しました。
そして総動員して兵三万を集め、魏博軍が包囲する豊縣を支援しました。

曹翔は滕縣を囲んでいましたが、魏博軍の敗を聞き撤退しました。

辛讜はまた淮南に到り、大量の塩米銭を輸送して賊將王弘芝の包囲を破り泗州を救いました。

淮南馬舉は泗州の包囲を破り、賊將王弘立は敗死し、呉迥は徐城に逃げました。

康承訓は龐勳軍を大破し、勳は徐州に敗走しました。

咸通10年5月
沂州軍は下邳を包囲し、賊將鄭鎰は所部とともに降りました。
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徐州 龐勳の乱 1

2022-12-20 08:04:09 | Weblog
咸通3年王式が徐州武寧軍の牙軍-銀刀軍を誅滅したあと、その残党は地方に散り、群盗と結びついて治安が悪化しました。牙軍を失った徐州軍では到底制圧はできません。

そこで咸通5年草賊達を徴募して新軍を作り、雲南蠻の侵攻に備えて桂管・邕管へ派遣しました。それにより群盗の勢力を弱め、外寇を防ぐ一石二鳥の政策でした。

本来は派遣の期間は3年で、故郷へ復帰できるはずでした。ところが現地の事態の悪化もあり派遣は6年に及び、徐州観察使崔彦曾の幕僚達は経費をけちるために、さらに1年の延長を通告しました。彦曾は官僚貴族上がりで下級士卒への思いやりなどカケラもありません。

もともと群盗あがりの都虞候許佶・軍校趙可立・姚周・張行實達は家族を思い激怒しました。

まずい事に桂管觀察使李叢は湖南に移り、新使はまだ赴任していませんでした。

咸通9年7月
桂管の派遣軍500人は蜂起し、許佶等は將王仲甫を殺し、糧料判官龐勳を都頭として勝手に帰郷し始めました。

湘潭、衡山兩縣を寇掠して千人に増加しました。

龐勳の前歴についてはなんの記録もありません。泗州軍の判官とだけ言われます。

咸通9年8月
後ろめたい朝廷は、高品[員外の宦官で、検校官を持っています]張敬思を派遣し、罪を問わずに徐州へ帰ることを許しました。

そのため乱軍は寇掠を止め、帰郷に向かいました。

咸通9年9月
龐勳達が湖南に達すると、監軍の策謀により武装を解除されました。

山東節度使崔鉉は警備を厳重にし領域内にいれませんので、勳達は揚子江を下ります。
勳達は朝廷が騙そうとしていると感じて、私財を投じて再武装しました。

淮南では都押牙李湘が討とうとしますが、節度使令狐綯は怯懦ですのでひたすら無事に通過させようとしました。

泗州に到り再び蜂起しようとしますが、刺史杜慆の警戒が厳しくできません。

徐城縣に到り、龐勳は「我々は帰郷し家族と再会したいだけだが、朝廷は誅滅しようとしている。蜂起したら仲間の兵も蜂起し自立できる」と璬して蜂起を宣言しました。一部は同ぜず逃亡しようとしましたが殺されました。

咸通9年10月
彦曾は征討に決し、將元密に徐城を攻めさせましたが、すでに龐勳等は宿州に向かっておりもぬけの殻でした。

龐勳は簡単に宿州を陥し、攝州事觀察副使焦璐を逐い、周辺の百姓に呼びかけて寇掠させ、強壮を強制徴募して軍容を拡大させました。

元密は宿州を囲みましたが、龐勳の計にかかり大敗し、密も敗死しました。

龐勳は徐州が空虚であることを知り、6~7千人に増えた衆とともに城を攻め簡単に陥しました。
彦曾を捕らえ、その幕僚達を殺しました。

龐勳は王智興の先例をひき節度使に任用を求めました。

劉行及は濠州を簡単に陥し、刺史盧望回を捕らえ、占拠しました。

李圓は泗州を攻めましたが、刺史杜慆は守り抜きました。

龐勳軍は周囲の遊民・草賊を集め、たちまち数万の大軍となりました。
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宦官 魚朝恩の変

2022-12-19 08:17:21 | Weblog
宦官魚朝恩は安史の乱において觀軍容使として監軍の職に就き、実戦に参加し軍功がありました。また李輔國などともに郭子儀等武臣を誣告して陥れることもありました。

乱後も陝州に駐屯し神策軍を指揮していました。

廣徳元年10月
吐蕃の侵攻により代宗皇帝は京師を棄てて華州に逃亡した時、朝恩は陝州神策軍を引き連れ代宗を保護し、京師に戻させました。そして崩壊した親軍の代わりに神策軍をあて、天下觀軍容宣慰處置使としてその兵権を握りました。

朝恩は部將皇甫温を陝州刺史、周智光を華州刺史に配置しました。

大暦初期唐朝は河中の郭子儀、神策の魚朝恩、宰相元載の三頭が握って対立し、代宗皇帝はそのバランスのうえに立つという不安定な状況でした。

一応学問もあった朝恩は増長して国子監[大学]で宰相以下の群臣を前に講義を行いました。
その時に宰相を揶揄することもあり、宰相王縉は激怒しましたが、元載は薄笑いを浮かべ、朝恩は警戒しました。

朝恩と郭子儀は対立し、子儀父の墓が荒らされるという事件では、朝恩が黒幕ではないかと疑われました。しかし徐々に対立は解消し、軍權の結束を懼れる皇帝や元載は危惧していきました。

大曆4年2月
朝恩は京兆好畤・鳳翔麟游・普潤縣を神策軍の領有とさせました。

大暦5年
朝恩は代宗皇帝を威圧し、宰相達を愚弄するなど驕慢となり、配下の神策都虞候劉希暹や都知兵馬使王駕鶴は、坊市の不良少年等を使い、冨家を罪に落として財を神策軍に取り込んでいました。
しかし代宗皇帝や宰相元載も兵権を握られているためいかんともできない状況でした。

元載は朝恩を除くため策動し、朝恩側近の周皓や、陝虢節度使皇甫溫を内応させました。

大暦5年2月
鳳翔節度使李抱玉を山西に移し、皇甫溫を鳳翔節度とし、興平、武功、天興、扶風縣を神策軍に与えました。これらは朝恩を喜ばせ油断させる方策でした。

大暦5年2/3月
劉希暹は朝恩に警戒を呼びかけましたが、朝恩は自覚せず入朝し、代宗と抗論し、周皓等に殺害されました。そして自殺したことにして葬儀を行わせました。

兵乱が起きないように劉希暹や王駕鶴に加官しましたが、希暹は不満を持ち9月に殺されました。

朝恩の誅殺を企画した宰相元載が驕慢となっていきました。大暦12年に誅されることになります。
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朔方河中 李懷光の乱 2

2022-12-18 08:59:14 | Weblog

興元元年5月
李晟は京師回復に成功しました。

興元元年6月
德宗皇帝は懷光を招慰しようとしますが、李晟は反対します。

興元元年7月
それでも德宗皇帝は懷光を招慰しようとして、宣慰に慣れている孔巢父を送り太子太保とし入朝を促し、代わりにその軍の統率をするものを求めました。懷光の周辺は怒り巢父等を殺害しました。懷光もそれを止めようとしませんでした。

興元元年8月
朔方渾瑊・河東馬燧に懷光征討を命じました。

河中の属州である晉州の懷光妹婿要廷珍,隰州の牙將毛朝易文,慈州の鄭抗は馬燧に降りました。

さらに馬燧は絳州を攻めました。

興元元年10月
馬燧は絳州を陥し、聞喜、萬泉、虞鄉、永樂、猗氏諸縣を取りました。

懷光將閻晏が同州を攻めましたが、沙苑に敗れました。

興元元年閏10月

鄜坊唐朝臣は河中永樂縣を取りました。

興元元年12月
渾瑊は懷光軍に乾坑で敗れました。

貞元元年3月
懷光都虞候呂鳴岳が馬燧に密通し殺されました。懷光の幕僚李鄘・高郢達も連座していました。

馬燧軍は寶鼎・陶城に懷光兵を大破し、渾瑊とともに進攻しました。

貞元元年4月
馬燧・渾瑊は懷光軍を長春宮に破りました。
徐光・石崇憲等諸将は次々と降りました。

馬燧、渾瑊を河中招撫使としました。

貞元元年5月

邠寧韓遊瓌は渾瑊とともに河中朝邑を攻めました。懷光將閻晏は戦おうとしましたが、麾下の士卒は邠寧軍を見て「あれは父や兄弟達だ、戦うことなどできようか」と騒ぎ、狼狽した晏は撤兵しました。

懷光は既に衆心が去っていることを知り、まもなく歸朝するつもりだと称して事態を抑えていました。

貞元元年6月
時に關内は飢饉で唐朝側も財政的に限界に達し、德宗皇帝も征討をやめ、懷光の歸順を考えていましたが、李晟は「懷光を赦せば、渾瑊や康日知など功臣に与える土地はありません。河中の崩壊はもうすぐです、なんなら私が自ら征討にいきましょう」と提言しました。

貞元元年7月
懷光將徐庭光が長春宮を、尉圭が焦籬堡を降以って降りました。

貞元元年8月
馬燧軍は河中を包囲し、応戦しようとした懷光の命に將士は服しません、絶望した懷光父子は自殺しました。大将牛名俊が斬首して降りました。

燧は將閻晏等七人だけを斬り、あとの將士は免罪しました。軍の大部分は渾瑊により朔方軍に統合されました。

寝覚めの悪かった德宗皇帝は懷光の葬儀を認め、外孫李承緒に家系を継がせました。
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朔方河中 李懷光の乱 1

2022-12-17 08:56:22 | Weblog
懷光は渤海靺鞨人で、本姓茹。勇敢で親族と雖も不法を許さない厳酷な性格でした。父の代より朔方軍に属し、長らく郭子儀の下で戦い、邠寧都虞候となりました。
大暦14年郭子儀が引退すると、遺領の大部分河中・邠寧を受け継ぎました。そして以前の同僚諸将が自分に従わないとみるとすべて誅殺し支配権を確立しました。
その厳酷さを懼れられて涇原劉文喜の乱の原因となることもありました。

建中3年5月懷光は朔方軍主力を率い河北の朱滔・田悅・王武俊の征討に赴きました。

ところが建中4年10月涇原軍の反乱による京師陥落、朱泚の自立、德宗皇帝の奉天逃亡と籠城が起きました。奉天城への朱泚軍の攻撃は激しく、周囲の雑軍による援助は粉砕され、落城の危機が迫っていました。

懷光は李晟とともに河北から朔方軍を率いて急行し、11月魯店に朱泚軍を破り、德宗皇帝の危機を救いました。そして中書令朔方邠寧同華陝虢河中晉絳慈隰行營兵馬副元帥に任ぜられました。

懷光は、宰相盧杞や趙贊・白志貞等の乱の責任を上奏し、激しく弾劾しました。

盧杞等は懼れて德宗皇帝の信任を利用し、懷光の入朝を阻止しました。德宗皇帝は馬鹿ではありませんが優雅な文臣を好み、粗野な武人を嫌っています。例外は忠誠従順な渾瑊ぐらいでした。

懷光は皇帝を救出したにもかかわらず、謁見すら認められなない状況に不満をつのらせます。

建中4年12月
不満な懷光は、京師に進攻せず朱泚を討とうとしません。やむをえず德宗皇帝は盧杞・白志貞・趙贊を左遷し、信任の厚い宦官翟文秀を殺します。宦官は家奴ですから殺してしまうのです。

興元元年2月
懷光は李晟と京師回復で意見が対立し、晟は懷光の叛意を上奏しました。

懷光に最高官の太尉を加え鐵券赦三死罪としました。懷光は怒り「鐵券とは叛臣を赦すために与えるものだ。俺は反してなどいない」として鐵券を投げ捨てました。

懷光は楊惠元、李建徽の軍を奪い、惠元は殺され、建徽は逃走しました。

懷光は密かに朱泚と通じました。

德宗皇帝は奉天から山西興元に逃亡しました。懷光は追わせましたが部下は躊躇して取り逃がしました。

配下諸将に動揺が起き、朔方左兵馬使張名振や右武鋒兵馬使石演芬などが懷光を批判し殺されました。

德宗皇帝は李晟を河中節度使同平章事とし懷光に対抗させました。

興元元年3月
德宗の下にいた邠寧將韓遊瓌は麾下八百餘人を率いて邠州に入り、懷光の河中移動命令の動揺に乗じて將張昕を殺し知軍府事となりました。

神策節度使李晟は京畿渭北鄜坊丹延節度觀察使を兼任しました。

行在都知兵馬使渾瑊が同平章事靈州大都督充朔方節度使邠寧振武永平奉天行營副元帥となりました。

懷光は河中邠寧朔方の兵権を解かれます。

懷光は勢力が縮小し、朱泚にも軽視され、麾下は動揺したため、燒營し本拠の河中に移動しました。將孟涉、段威勇等は懷光から離れ晟に附きました。

興元元年4月
邠寧兵馬使韓遊瓌が邠寧節度使となり、陝虢防遏使唐朝臣が河中同晉絳節度使となりました。

李晟は京畿渭北商華兵馬副元帥となり渾瑊と京師回復にむかいます。

懷光靈武守將寧景璿が將李如暹に殺されました。
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