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唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

魯炅伝

2019-02-28 11:43:01 | Weblog
嶺南・雲南の雑軍を率いて安禄山軍の南下を防ぐという功績をあげたが
雑軍のゆえに崩壊し、その責を感じて自殺した將軍。

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魯炅伝
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炅は幽州范陽の人。

長身で,書史学習に励んだ。

蔭位で左羽林長上になった。

天寶六年,隴右節度使哥舒翰の配下となり、評価される。

吐蕃と戦い石堡城・河曲で功績があり,左武衛将軍、右領軍大將軍同正員賜紫金魚袋に進む。

十三年.討擊副使として加雲麾將軍。

安祿山の乱に將帥として起用され。十五載正月.上洛太守。
すぐ南陽太守本郡守捉防御使移った.封金鄉縣公。

ついで兼御史大夫充山南/南陽節度使となり、嶺南黔中山東兵五萬を率いて安禄山軍の南下を防いだ。

五月,賊將武令珣、畢思琛等が来寇し、炅軍は敗走したが南陽は保った。
嶺南節度使何履光、黔中節度使趙國珍、襄陽太守徐浩は来援しなかった。

武令珣・田承嗣等が南陽を一年にわたって包囲した。
穎川太守來瑱、襄陽太守魏仲犀が来援したが敗北し、南陽の食が尽きた。

至德二年五月.援軍も食もなく窮した炅は兵を率いて襄陽へ奔った。

特進太僕卿南陽太守兼御史大夫權知襄陽節度事上柱國/襄鄧十州節度使。に任じられた。
敗北はしたが賊軍の南下を防ぐ功績は大きかった。

十月.唐朝軍は兩京を奪還し、承嗣、令珣等は敗走した。

十二月.功績により開府儀同三司兼御史大夫封岐國公食實封二百戶兼京兆尹となった。

乾元元年.兼鄭州刺史充鄭陳穎亳等州節度使。

上元二年.為淮西襄陽節度使、鄧州刺史。

乾元元年十月.郭子儀、李光弼等九節度とともに安慶緒を相州に攻めた。
淮西襄陽節度行營の兵萬人、馬軍三百を率いていた。

乾元二年三月.史思明に大敗し、炅は負傷し敗走した。
敗軍の中でも蛮族が多く、規律のない炅軍は最も見苦しい状況で、敗走中も略奪暴行を重ねた。

四月.徙鄭陳亳節度使。
処罰はされなかったが炅は兵の醜態を恥じて自殺した。五十七歳であった。
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李復伝

2019-02-27 21:33:46 | Weblog
武将とは言えないかもしれない、しかし常に困難な部署を的確に治める
有能な官僚將軍ではあった。

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李復伝
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太子太傅齊物の子。字初陽。

父の蔭位で江陵府司錄に至る。

吏務に通じていて、軍人上がりの節度使衛伯玉に厚遇される。

性は厳格で、江陵縣令、江陵少尹を歴任。

その後饒州、蘇州刺史となり政績を上げる。

淮西李希烈が反し、討伐にあたった荊南節度張伯儀は敗北し、荊南が動揺したため、復が江陵少尹兼御史中丞充節度行軍司馬として安撫した。

貞元二年.容州刺史兼御史中丞充本管容州刺史本管經略守捉招討處置等使として、西原蠻の乱後に荒廃していた容管を立て直し、功績により檢校右常侍を加えられた。

三年.廣州刺史兼御史大夫嶺南嶺南節度經略觀察處置等使に転じ、安南都護府の兵乱を鎮定し、

五年.久しく蠻域となっていた瓊州[海南島]を回復した。

八年.檢校工部尚書宗正卿として入朝。

九年.軍閥.華州節度李元諒の没後、檢校戶部尚書兼御史大夫華州刺史潼關防御鎮國軍使として安撫した。

十年.鄭滑節度使李融が卒し,軍乱が起こると檢校兵部尚書兼滑州刺史義成軍節度鄭滑觀察營田等使兼御史大夫として鎮定し、營田に勤め生産を上げた。

十二年,檢校左僕射。

十三年四月卒官,年五十九。贈司空。諡曰昭。

目立った戦勝はないが、常に混乱から回復させ安定させる実力者であった。反面蓄財に励み、散じないので批判されていた。
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王思禮伝

2019-02-25 12:21:25 | Weblog
数々の敗戦にもかかわらず、うまく立ち回って出世した官僚型將軍

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王思禮伝
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營州城傍に居住した高麗人。

父虔威は朔方軍將であった。

思禮は軍人となり、朔方節度使王忠嗣・河西隴右節度使哥舒翰の将として押衙。

吐蕃の石堡城を陥すのに功績があり、右金吾衛將軍充關西兵馬使兼河源軍使となった。

天寶十一載.加雲麾將軍。

十三載.吐蕃との戦いで落馬し脚が不自由になった。特進に進む。

十四載六月.加金城太守。

安祿山が反し、哥舒翰が元帥となったが,病身であり、思禮を開府儀同三司兼太常卿同正員充元帥府馬軍都將として、軍務を一任した。

十五載二月.思禮は翰に乱の原因である楊國忠を誅することを求めたが、翰は應しなかった。

六月.潼關で安禄山軍に翰は大敗し、思禮は呂崇賁、李承光とともに敗走した。
しかし敗戦の責任は承光に負わせて、思禮、崇賁は赦された。行在都知兵馬使。

十月.元帥房琯の兵部尚書.副使として便橋に安禄山軍に敗北。
關內行營節度河西隴右伊西行營兵馬使となり武功を守る。

二年二月.賊將安守忠・李歸仁・安太泰清に攻められ扶風へ退却。
賊は鳳翔へ迫ったが郭子儀が撃退した。

九月.思禮は元帥廣平王に従い京師、東京を回復。

絳郡に賊を破り、戶部/兵部尚書霍國公,食實封三百戶を与えられる。

乾元二年.郭子儀等と安慶緒を相州に攻める。
思禮は關內と澤潞節度兵三萬、馬軍八千で参加するが、軍は史思明に大敗する。
ただ李光弼と思禮は軍を保って退却した。

四月.史思明軍の潞州来寇を撃退。

七月.太原尹北京留守河東節度使兼御史大夫となり、兵備を整備した。

上元元年閏四月.守司空となる。
宰相でなく三公となったのは思禮が最初である。

二年四月.薨,贈太尉,謚曰武烈

戦いには弱いが、軍政には長じた官僚系将軍であった。彼の没後河東節度は衰微した。
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李藏用伝

2019-02-23 18:50:16 | Weblog
無能で定見の無い肅宗皇帝や無責任な文官達に翻弄されて自滅していった將軍の例

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李藏用伝
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新・旧の唐書には伝がない。

上元元年.河南で盤踞し不法を重ねていた宋州刺史劉展を除くため、江淮都統李峘や淮南節度使鄧景山などの文官は展が江淮都統に任命されたとして南下させた。展は不審に思いながらも栄達を喜びその兵を連れて南下したが、峘や景山はこれを攻撃し反したとした。
展は激怒して唐朝軍を破り、淮南・浙江地方を荒らし回った。
峘や景山達文官はあわてて任地を捨てて遁走した。

浙西副使であった藏用は「高禄をもらいながらろくに戦わずに逃げるとは」と敗卒を集めて守った。

二年正月.展兵に杭州で敗れたが、徐州刺史田神功が朝命を受けて南下、展を攻めたため態勢は維持した。
その後、神功が展を敗死させ、藏用も杭州を復した。

七月.臧用は試少府監から浙西節度副使になった。

十月.楚州刺史に昇進したが、崔圓など文官達が復帰し、展の乱で散逸した官物を回収するため臧用を誣告した。臧用は逃走しようとしたが殺された。
展の故将である孫待封も「展は朝命に従いだまされて反して死んだ。それを討伐した臧用も反したとして殺された。いったい何を信用したらいいのか」として死んだ。
逃亡した峘は一旦は左遷されてやがて復帰。景山は昇進した。
肅宗皇帝は優柔不断で定見がなくこのような事例が多い。
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張萬福伝

2019-02-22 17:43:42 | Weblog

能力はありながら上に媚びず、栄達を求めなかった将軍です。

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張萬福伝
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萬福は魏州元城の人。
曾祖より父までは明經に合格し縣令州佐であったが萬福は学問をせず、騎射を好んだ。

青年時は王斛斯麾下で遼東に従軍し功績があった。

淮南都統李峘に劉展鎮定に用いられ攝壽州刺史兼舒廬壽都團練使。
潁州の賊を討って功績があった。

ついで壽州刺史淮南節度副使となるが、節度使崔圓に迎合しなかったため嫌われ刺史を罷免された。

鴻臚卿を帯て節度副使となりやはり壽州に鎭した。
だが萬福は刺史罷免を気にしなかった。

平盧行軍司馬許杲が淮南の管轄の濠州に侵入し占拠したので、圓は萬福を攝濠州刺史とした。
杲はこれを聞いてすぐ退去した、

また賊陳莊が舒州を陥したので、圓はまた萬福を舒州刺史督淮南岸盜賊としてこれを討たせた。

大暦三年.代宗皇帝は萬福を召して和州刺史行營防御使督淮南岸盜賊として、許杲が寇掠するのを討たせた。萬福はこれを追って誅した。

淮南兵を率い対吐蕃防衛を命じられた時、淮南節度使韋元甫が卒した。諸将・監軍は後任となることを求めたが、萬福は断り利州刺史として咸陽に鎭して宿衛した。

建中二年.淄青節度使李正己が反し,兵を派して江淮からの貢祖路を脅かした。
德宗皇帝は萬福[和州刺史であった]を濠州刺史とし、本名の萬福と賜名として派遣し威圧させた。
その威力に圧されて淄青軍は動かず貢祖の輸送が可能になった。

泗州刺史に代わった。節度使陳少遊が李希烈の乱に怯え、麾下諸将の妻を人質として差し出させた時にも断固として拒否した。

魏州が戦乱で飢饉時になると、萬福は食料を送り故郷を援助した。

東都杜亞が萬福を嫌い,右金吾將軍に転任させた。
德宗皇帝は召して「亞はおまえが耄碌したので交代させろと言ったのだが」と驚いた。
そして凌煙閣に肖像画を書き,給与を保証した。

貞元十一年.德宗皇帝が諫議大夫陽城達の諫言に激怒して厳罰にしようとしたとき、城を擁護したため德宗は怒りを静めた。

貞元二十一年.左散騎常侍/工部尚書致仕。

五月卒,年九十。

萬福は常に健康で七十年の勤務で,一日の病休もなかった。
上司に媚びず、正論を貫くため、しばしば左遷されたが、その実力は誰しもが認めざるを得なかった。栄進を求めず当然なれるはずの節度使を求めなかった。
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周智光伝

2019-02-21 18:55:37 | Weblog
安史の乱と吐蕃の侵攻により、唐朝が極めて弱体化した永泰-大暦年間、実力がないにも関わらず増長専権した武将の例として周智光をあげておきます。

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周智光伝
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智光は騎射に優れ、兵卒より将軍に昇進した。故に系統は不明である。

觀軍容使の宦官魚朝恩が陝州に鎭するとそれに従った。

廣徳元年.朝恩のひきにより華州刺史同華二州節度使潼關防御使となり、檢校工部尚書兼御史大夫を加えられた。

永泰元年.吐蕃回紇黨項等の大軍が奉天、醴泉等縣に来寇すると、智光は迎撃し澄城に破った。
そして追撃し鄜州にいたるが、鄜坊節度使杜冕と対立し、その家族を殺害しも坊州を焼き払うという暴挙を行った。
吐蕃に京師を陥された弱体の唐朝は、朝恩をはばかりこれを処罰できず、ひたすら智光を慰撫し,杜冕を避難させるのみだった。

大暦元年.智光は亡命不逞の兵数万を集め、陝州節度使皇甫溫と対立し、その監軍張志斌が入朝するのを殺した。

十二月.さらに増長した智光は勝手に前虢州刺史兼御史中孫龐充を殺し、諸節度使の進奉を横取りした。

代宗皇帝はそれでも尚書左僕射に任じて慰撫しようとしたが、智光は従わず反抗した。

大歷二年正月.關內河東副元帥郭子儀に智光を討たせた。
しかし京師と河中の道が智光により断絶させられていて密使を送らねばならぬ体たらくであった。
子儀が出兵すると、怖れた智光の配下はすぐ裏切り。
大將李漢惠は同州をもって降った。
唐朝は智光を澧州刺史に貶し、將士は恩赦するとした。
たちまち智光とその家族は配下により殺害され、与党も誅された。

淮西節度使李忠臣は入朝の途中であったが、潼關を突破し華州を大掠した。

智光の行動の背景には、唐朝の弱体とともに、武将達の功績があったにもかかわらず來瑱や僕固懷恩が、宦官達の讒言により簡単に使い捨てられたことなどにたいする、代宗皇帝への強い不信感があったとみられる。
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董重質伝

2019-02-20 10:56:36 | Weblog

反乱軍の黒幕でしたが、帰順すると一転唐朝に忠誠を
誓うという例です。他に李祐とかいますよね。

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董重質伝
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字、祖系は不明。

重質は淮西節度使の將であり、節度使吳少誠の子の婿であった。
勇悍で軍事的才能があり、用兵に優れていた。

元和九年.淮西呉少陽が卒し、子の元濟が自立した時の黒幕であった。
反乱軍の大半の指揮は重質がとり、唐朝の討伐軍を連破して怖れられていた。

十二年.宰相裴度が大軍を率いて遠征してきた時もこれと対峙して退かなかった。
元濟は戦局が悪化してきた事を悲観し降ろうともしていたが、重質は強気でそれを制止していた。

ところが十二月.唐隋鄧節度使李愬が予想もしなかった奇襲攻撃を本拠地の蔡州に加えて元濟を執えた。やむをえず重質も軍を解散し愬に降った。
愬は重質を高く評価し、憲宗皇帝に彼を用いる事を乞うた。

けじめとして春州司戸参軍として流されたが、

十三年.愬の請により太子少詹事/試太子詹事武寧軍驅使として淄青李師道討伐に活用され功績をあげた。

元和十五年.左神武軍將軍知軍事兼御史中丞となった。

その後鹽州刺史として対吐蕃防衛に。

太和三年.右領軍大将軍から左右神策及諸道劍南西川行營節度使檢校左散騎常侍として侵攻してきた南詔を撃退した。

四年.夏綏銀宥節度使として北辺を守り、兵を鍛え、羌戎を威圧して侵入させなかった。

五年.檢校工部尚書を加えられた。

八年八月.右龍武統軍として卒.贈尚書右僕射。

強兵・反唐で鳴る淮西軍の代表的な将軍であったが、
その軍才により唐軍の戦力に組み入れられた。
淮西軍自体も解体されたが、陳許蔡忠武軍節度使の中核として唐末まで強兵と稱された。

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路嗣恭伝

2019-02-19 15:21:50 | Weblog
武将というより有能な地方行政官というべきでしょうが、
出世はやはり武将としてですね。

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路嗣恭伝
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嗣恭[字懿範]は,京兆三原の人。始名は劍客であった。

蔭位によって鄴尉となり。席豫に推薦されて蕭關・神烏・姑臧県令に進み、考績は天下最高と言われ。玄宗により嗣恭と賜名された。

渭南・杜化・東陽県令を歴任し、安史の乱時にも治績を上げた。

永泰元年.戸部侍郎となる。

元年.郭子儀麾下の検校工部尚書兼御史大夫靈州大都督府長史充關內副元帥副使知朔方節度營田押諸蕃等使として朔方節度に屯田し、驕将孫守亮を誅するなど威權もあった。

大暦二年.吐蕃を靈州城下で破り、檢校刑部尚書知省事となった。

六/七年.洪州刺史兼御史大夫江南西道都團練觀察使となり、宦官魚朝恩の残党である奸臣賈明觀を誅し、域内に良政をしいた。

八年.嶺南將哥舒晃は節度使呂崇賁を殺し、南蛮貿易の中心である廣州を占拠した。
代宗皇帝は嗣恭に嶺南節度使を兼任させ、冀國公に封じて晃を伐たせた。

十年.嗣恭は流人達を将として起用して嶺南を制圧し、多数の与党を処刑し、商人達を巻き添えにして膨大な財宝を奪い私物化した。
代宗皇帝は嗣恭が財宝を献納しないことを怒り、功績を評価せず、檢校兵部尚書知省事を与えるのみであった。

十三年.入朝した李泌のとりなしもあり、正任である兵部尚書を与えられた。

十四年.嗣恭は宰相楊炎に贈賄し、兼東都留守となった。

建中二年正月.成徳李惟岳が自立し、嗣恭は東都留守に懷鄭汝陝四州河陽三城節度及東都畿觀察使を加え東都の防衛にあたったが、

九月に卒した。 七十一歳,贈左僕射。

地方官として極めて有能で治績を上げたが、嶺南征討においては私財を積み、虐殺をするなど晩節を汚した。
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郗士美伝

2019-02-18 20:40:52 | Weblog

武将伝に入れられたと本人が知ったら激怒するとは思いますが。
幕領出身の方です。

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郗士美伝
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字和夫,高平金鄉の人

父純[字高卿]は進士出身で清名高節で太子詹事致仕。

士美は学問に志し、父の友である顔真卿に評価された。

若くして陽翟丞、昭義節度[李抱眞.王虔休、李元]の幕僚となった。

貞元二十年.坊/房州刺史から黔州刺史兼御史大夫持節黔中經略招討觀察鹽鐵等使として溪州賊帥向子琪を平定し、功績により檢校右散騎堂侍を加えられ高平郡公に封ぜられた。

元和二年.京兆尹となった。

三年.鄂州觀察使となった。

五年.安黃節度伊愼の子宥の安州領有を平和的に解いた。

十二月.河南尹を経て

六年.古巣の檢校工部尚書潞州大都督府長史充昭義節度使となり、盧從史以来乱れていた軍紀を粛清した。

十一年.反した成德節度王承宗を征討し、諸軍が進まない中唯一これを柏鄉に破った。

十二年.病により工部尚書に移った。

十四年五月.檢校刑部尚書忠武節度使となるが病が重くなり

八月に卒した。六十四歳。贈尚書左僕射,謚曰景。

交遊が広く、然諾で重んぜられた。
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石雄伝

2019-02-17 20:43:44 | Weblog
會昌年間、李德裕に登用されて、回鶻・劉稹を討伐した将軍です。

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石雄伝
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徐州人、祖系も不明であった。

勇敢であり人望があったので徐泗濠武寧軍節度使の将となった。

長慶二年.王智興は節度使崔羣を逐って自立したが、まもなく唐朝に協力することでその地位を安定させようとしていた。

宝暦二年.横海李全略の子同捷が自立しようとすると、智興は率先してこれを伐ち、雄を右廂捉生兵馬使とした。
雄は勇戦し功績大であり、智興と違い寛大であったので兵の人気が高かった。

太和三年.智興は兵乱を怖れて唐朝に請願して、雄を壁州刺史に出し、その後与党を誅殺した。
そして唐朝に雄を殺すことを求めたが、勇将を求めていた文宗皇帝は牽制の意味もあり嶺南白州に流すに留めた。

そして陳州長史とし、紛争を起こしていた黨項との戦いに振武軍将[節度使劉沔]として活躍したが、智興との関係で文宗時代は昇進は遅かった。しかし李徳裕・李紳とは崔羣を通じて親しかった。

會昌二年.回鶻帝国が衰微して唐の北邊になだれ込むようになり、天德防禦副使兼朔州刺史として劉沔を輔佐し防衛にあたることになった。

そして三年.回鶻を殺胡山に大破して、大和公主[可汗の妻.穆宗皇帝の妹]を奪回するという大功を上げて、檢校左散騎常侍豐州刺史兼御史大夫天德都防御等使となった。
雄は寛厚軽財で、恩賜物を功績ある將士に惜しみなく分与したため人望は極めて高かった。

同じく三年.昭義軍節度使劉従諫が卒し、甥の稹が自立したため。武宗皇帝・宰相李徳裕はこれを伐とうとした。しかし招討使李彥佐[武寧軍節度使]は、当時の將軍の例で緩慢であり、ぐすぐずとして動こうとしなかった。
そこで徳裕は九月雄を招討使とし雄はただちに攻撃を開始し昭義管内に突入した。別将王宰[智興の子]も発憤し澤州を陥し、魏博・成德も邢洺磁州を陥すなど一気に戦況は動いた。

四年三月.檢校左僕射河中尹河中晉絳節度使となった。

八月.雄は昭義の中心である潞州に突入し、昭義将郭誼が裏切って降ったこともあり平定は成功し、検校司空に昇進した。

十二月.河陽節度使に移った。

會昌六年.鳳翔隴右節度使に転じた。

智興の事もあり、子である宰の一党とは犬猿であり、常に排斥しあっていた。

ところが宣宗が即位し、李徳裕が失脚すると、大中二年.左神武[龍武]統軍に左遷され、失意のうちに卒した。
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王鍔伝

2019-02-16 16:05:23 | Weblog

ある企画で、唐代の諸将略伝集を作ることになり、安史の乱以降、廣明年間までを担当して
いますが、郭子儀や李光弼などの大きなところはあと回しにして、中堅諸将から始めています。一例として「王鍔」です。

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王鍔伝
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鍔[字は昆吾]は河東太原の生まれと称するが定かではない。祖系も不明であった。

長じて湖南団練観察府の將となり、左遷されていた楊炎[後に宰相に復帰]に評価された。

観察使嗣曹王皋の麾下として、王國良の乱の鎮定に功績があり卲州刺史に起用された。

建中三年.皋が江西節度使に移るとそれに従い、反した淮西節度使李希烈と戦い。蘄州を攻略して、揚子江を渡って攻撃した。

四年.皐は江西都虞侯江州刺史兼御史中丞に任じた。
鍔は細心で敵情を詳しく調べ、常に皐に伝えたため極めて信頼されていた。

興元元年.皐が伊愼に安州を攻略させた時に助力したが、功績は愼に譲った。

貞元元年.皐が荊南節度使となると副として江陵少尹兼御史中丞としようとしたが、文官幕僚達は鍔の無学卑賤さを嫌ったため軍人たる都虞候に止めるしかなかった。

皐は入朝すると、德宗に「無学だが有能です」と推薦し京官である鴻臚少卿とさせた。鍔はたちまち過去の負債である西域隴右の遺民を整理して莫大な収納を上げた。

貞元五年.評価した德宗は容管観察使に任用し、八年?の任期中に蕃族を慰撫し安定させた。

貞元十一[十年]年.嶺南節度使に転任し、八年間の間南蛮貿易を振興して莫大な財産を築き、高官や宦官に贈賄して高く評価された。

貞元十七年.京官の刑部尚書に昇進した。

貞元十八年.当時重要な方鎭である淮南節度使杜悰は入朝して宰相になることを望み、後任を求めていた。鍔は志願して檢校兵部尚書淮南行軍司馬となり、悰は早々と入朝していった。

貞元十九年.淮南節度使に就任した。
鍔は無学ではあったが下位から昇進したので、吏員の業務に通じ、帳簿処理には優れていたため極めて効率の良い統治を四年間行った。

検校僕射から検校司空に昇進し、常に贈賄に努めた。

元和二年.浙西李錡が反したので、鍔は統諸道兵為招討處置使として諸道兵を率いて伐つことになったが、これはすぐ浙西内部で鎮定されてしまった。

三年.入朝して宰相になることを望んだが、文官に反対され、尚書左僕射に任用されたが、
すぐ検校司徒河中節度使に出された。

五年.老耄した河東節度使范希朝の後任となり、兵備を立て直すなど功績をあげた。
憲宗皇帝は収賄していた宦官の推薦もあり使相に任用するつもりであったが、宰相李藩や權德輿に反対された。

八年.振武軍乱に際して兵を派遣して鎮定させた。

九年.河東節度使のまま使相に任用された。
反乱していた淮西と対峙する軍閥宣武軍節度使韓弘は、鍔が使相として自分と同格になるのが極めて不満であった。そこで憲宗は慰撫するため三公である守司徒に昇進させて慰撫した。

十年.河東將劉輔が豐州刺史燕重旰を殺して乱したが鎮定した。

十二月.薨じた。76歳。贈太尉。諡曰魏。

将としても行政官としても有能であったが、卑賤の出身であり無学であったことと、宦官等に対する贈賄するため、清流の文官達から常に誹られていた。
本人は「春秋左氏傳」程度を読んで儒者と称して恥じるところは無かった。
閨閥としては太原の名門である王翃の麾下に入っている。
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唐の外交関係 対突厥3

2019-02-05 19:23:44 | Weblog
則天期、突厥は骨篤祿・默啜可汗によって再興される。
近頃は歴史において女性を過大に重視する風潮で、一環として則天がいかに偉大な皇帝であったと評価する者も多いが、私は軍事的無能と、財政浪費、無定見な人事を見れば、平均以下の皇帝としか評価できない。
その中でも無意味な武将の粛清により軍事力を低下させ、突厥の再興や、吐蕃の隆盛を招いた外交・軍事的失敗が最大だろう。
門閥打破による人材登用も簒奪のための粛清の副産物でしかない。
則天の功績は皆無と言って良い。
ある程度の繁栄は高祖~高宗時の平和による生産の増加を食い潰した結果と言える。
突厥は默啜可汗の時代に強盛となり河北の諸州を陥し、荒らし回った。
周軍の指揮官は揃って無能で、ただ突厥の荒らした後を、さらに荒らしただけである。
則天は有能な武将を信用できず、文官宰相や武氏一族、はたまた破戒僧を指揮官にするだけだった。唯一評価できるのは宦官を監軍に使わなかったことだけだ。
[玄宗以降は宦官登用が盛んになった。女性皇帝の良い点はこれぐらいか]
ただこの時代の唐[周]-突厥の外交関係は、突厥が下であり。
婚姻や支援を求める立場であった。
玄宗皇帝期[開元年間]に入ると默啜可汗は老齢化し、失政も多く、開元二年北邊諸族の反乱を招き、その討伐時に敗死してしまった。
突厥はその後弱体化し開元八年王晙等が平定し、その勢力を解体した。その後推移はあるが突厥の勢力は消滅していき、回紇の時代になっていった。
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唐の外交関係 対突厥2

2019-02-04 15:04:52 | Weblog
北方の遊牧民国家は強大になるときも速いですが、衰亡するのも急速です。
また個人の権威によっているわけで、しっかりした統治機関はありません。
突厥頡利可汗も増長したせいか失政が続きました。
周囲の民族に不満がつのっていきます。
唐のほうは高祖・太宗の全国統治が無事に推移し、徐々に国力が回復して行きます。
そして気候変動が寒冷の方にぶれていきます。
貞觀二年、唐は頡利の一族突利可汗を内応させ、突厥に不満な薛延陀の夷男を味方につけます。
そして四年、弱体化した頡利可汗に唐儉を送り講和させます。
状況の悪い頡利は低姿勢で交渉に応じます。ところが太宗は
油断をさせておいて李靖に攻撃させてこれを捕らえます。
その後曲折はありますが突厥所部を解体することに成功します。
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唐の外交関係 対突厥1

2019-02-04 10:10:37 | Weblog
唐は漢民族国家ではなく、北周・隋とともに鮮卑など北方民族が起こした国家です。
長い経過を経て漢化はして行きましたが、漢や宋や明のような漢民族優位という感性はありません。
ともすれば宋代に編集された資治通鑑や新唐書の記載に影響され、中華主義的な国際関係に固着すると間違いを生じます。
唐代突厥・回紇・吐蕃の三国との関係においては上下関係はありますが、対等な外交交渉がされていたと推測できます。
例を挙げれば三国においては唐の年號は使用されていません。
まず当初の突厥ですが、明らかに唐が下です。
突厥の冊封を受けていたと考えてもよいと思います。
時々に朝貢し、可汗の代替わりには祝使を送ります。
武力においてはまったく太刀打ちできません。
度々侵入され、「突厥寇**,***敗之。」の記事が正史に頻出します。
実際に勝利しているのではなく、突厥は掠奪し転進しているだけでしょう。
高祖は危険な長安から逃げだそうと計画したという経過もあります。
武德九年、太宗=秦王世民が兄達を謀殺し、高祖を廃位して自立したとき。
上位にある突厥頡利可汗はその勝手な振る舞いを責めて侵攻してきます。
太宗は自ら出頭して謝罪し、莫大な朝貢をして簒奪を認めてもらいます。
この時も通鑑では
「頡利可汗進至渭水便橋之北,遣其腹心執失思力入見,以觀虛實」
 可汗は思力を派遣し太宗を責めています
太宗は「吾與汝可汗面結和親,贈遺金帛,前後無算。汝可汗自負盟約,引兵深入,于我無愧?汝雖戎狄,亦有人心,何得全忘大恩,自誇強盛?我今先斬汝矣!」
 和約を結んで朝貢しているのに侵入してこないでください。この継承は国内問題です、
 強いからと言って攻めてこられれば戦うしかないですよ。と懇願しています。
「思力懼而請命」
思力は請命=じゃあどうするつもりなんだと言います。
ということで太宗自ら可汗のもとに謝罪にいくのです。
正史では勇ましく数騎だけで渭水へ向かったらしいですが、どう考えても謝罪です。
劉備の「鴻門の会」レベルでしょうね。
貢納に満足した可汗は簒奪を赦します。
そのあとの
「突厥頡利獻馬三千匹,羊萬口;上不受」
なんてお笑いですね。出すのが逆でしょうし、突厥が「羊」をつれて移動してたとは・・・
唐の首都への放牧のつもりですかね。



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