唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

武德四年 西暦621年

2020-06-21 10:02:34 | Weblog
武德四年 西暦621年
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二月趙郡王孝恭に荊州蕭銑を討たせました。
南方戦線は孝恭と麾下の李靖の担当です。

東都近郊で唐朝軍と王世充が激戦しています。唐朝軍が優勢なようですが、補給線が延びているので決定的な勝利は得られません。

三月、東都の食糧が乏しくなり王世充は竇建徳に支援を懇願します。建徳は支援することに決しました。

三月,進封宜都郡王泰(秦王子)為衛王。
違例の封王です。親王は皇帝の子供に限られます。まして泰は秦王の長男(承乾が長子)でもありません。絶えた衞王家を継がすということなのでしょうが。それならば嗣衞王と記載しなければいけません。

四月壬寅,齊王元吉及王世充戰於東都,敗績。
秦王は敗戦はすべて他人に引き受けてもらいます。

四月戊申,突厥寇并州,執漢陽郡王瑗、太常卿鄭元璹、左驍騎衛大將軍長孫順德。
突厥が王世充支援の為に南下し唐朝軍を破りました。

五月壬戌,秦王世民敗竇建德於虎牢,執之。
長時間の対峙から一気に突入し勝利しました。これは文句なく秦王の大功績です。

五月戊辰,王世充降。
建徳の敗北により世充は諦め、助命の約束を得て降伏しました。

六月,蔣善合降。臧君相降。
続々と唐朝に帰服してきます。世充・建徳の広大な勢力範囲も残らず唐朝に入ります。

七月丁卯,王世充を赦したと見せかけて蜀に流し、途中で襲わせて族滅します。
背信行為ですが、世充の場合は激しく対立していたわけですから赦すという約束自体が無理だったといえます。

七月丙寅,竇建德伏誅。
建德はさほど対立していたわけではなく、一戦して敗北しただけです。麾下もおとなしく帰順したわけです。ただ建德は寛容で威徳があり、高祖より君主として優れた人物であったので邪魔であったのでしょう。それに旧隋の貴族ではありませんでした。

七月甲戌,建德下劉黑闥反于貝州。
建德の麾下は、一敗しただけですので戦力は保持していました。そして唐朝の建徳への扱いを注視していたわけですが、唐朝の独断的な対処をみて反旗を翻すことにしました。この失敗により河北は再び失われました。

八月,劉黑闥陷鄃縣,魏州刺史權威、貝州刺史戴元祥死之。丁未,劉黑闥陷曆亭,屯衛將軍王行敏死之。辛亥,深州人崔元遜殺其刺史裴晞,叛附于劉黑闥。
黑闥は急速に建徳旧領を回復し、唐朝軍は敗走します。

八月、兗州總管徐圓朗反。
山東地方でも反乱が起きました。

九月,盧祖尚降。乙卯,淳于難降。甲子,汪華降。

十月乙巳,趙郡王孝恭敗蕭銑於荊州,執之。
孝恭は人望が乏しい銑軍を破り、荊南を平定しました。そして嶺南地方も帰服してきます。

十一月,劉黑闥陷定州,
十二月,黑闥陷冀州,破李世勣。陷邢州。陷魏州。陥業州。
黑闥は幽州以外の河北を回復しました。
唐朝は秦王・斉王を再び派遣しなければなりません。

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