唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

淮南節度使史7

2020-11-30 09:12:45 | Weblog
◎. 李紳[字公垂]は高宗時の宰相敬玄の曽孫だが進士出身。

會昌二年[842]
◎. 2月 淮南節度使李紳は德裕の推薦で宰相となる[旧唐書では元年二月だが]。代わって杜悰[字永裕.父も淮南節度使で宰相の佑]が検校司空淮南節度使となる。會昌年間の記録は混乱して悰のような重要人物でも前任が不明である[開成四年には戸部尚書兼判戶部度支事だが]

◎. 杜悰は名門の貴族で才能はないが気位は高く、淮南監軍が武宗皇帝に献上する女の選定を拒否し、かえって武宗から評価された。

會昌四年[844]
◎.7月 杜悰は宰相兼兼度支鹽鐵転運使となり、昭義節度劉稹の征討供軍にあたった。
◎.閏7月 李紳は足疾と称して宰相を辞し検校右僕射同平章事淮南節度使に再任された。

會昌六年[846]
◎.4月 宣宗即位により紳は加検校司空。
◎.7月 李紳卒,贈太尉,諡文肅。没後、李徳裕失脚後の政争に巻き込まれ官を削られ、子孫は任用されなかった。
◎.7月 李派の宰相で司空の李譲夷[字達心]が武宗山陵使の途中で檢校司空同平章事淮南節度使となったが、大中元年、疾となり帰還を願った途次に卒した。贈司徒。清廉で温和であったので德裕の失脚の巻き添えにはならなかったようだ[旧唐書では伝記が混乱している]。

大中元年[847]
◎.檢校尚書右僕射同平章事劍南西川節度使崔鄲[字?]が淮南節度使へ移る。李派であるが?。

大中三年[849]
◎. 崔鄲は鎭に於いて卒した。
◎.四年かもしれない 金紫光禄大夫吏部尚書李珏[字待價]が檢校尚書右僕射揚州大都督府長史淮南節度使上柱國贊皇郡開國公食邑一千五百戶となる。元牛派の宰相であるが武宗時代に左遷され僻地にいた。宣宗即位により復帰。
◎. 江淮は旱で苦しんでいたが珏は善政をしき民を慰撫した。

大中六年[852]
◎. 李珏は鎭に卒,年六十九,贈司空,諡曰貞穆。淮南節度使は四代続けて在任中亡くなった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淮南節度使史6

2020-11-29 09:20:57 | Weblog
◎. 播は赴任すると淮南が旱天で飢饉にあるにも係わらず聚斂に努めた。

長慶四年[824]
◎.4月 播は宦官達と結び諸道鹽鐵転運使として収斂し、宦官王守澄達に盛んに贈賄していたが、穆宗が崩御し敬宗が即位すると、銀青光祿大夫、檢校司空を与えられたが、御史大夫王涯に鹽鐵の權を奪われた。

◎.12月 王播は宦官や權貴に働きかけ、鹽鐵使を復することを求めた。しかし諌官は強く反対した。

宝暦元年[825]
◎.正月 清廉であった敬宗皇帝の幼稚さに呆れて宰相牛僧孺が去り、王播は兼諸道鹽鐵轉運使に復した。

◎.7月 不良少年であった敬宗皇帝は盛んに王播に賄賂をねだり、競走用のボート二十隻を莫大な金を使って作らせた。
◎. 播は収斂するだけではなく鹽鐵使として揚州の水運の整備には尽力した。

宝暦二年[826]
◎. 文宗が即位し檢校司徒に昇格した。

太和元年[827]
◎.6月 淮南節度副大使知節度事管内營田觀察處置臨海監牧等使兼諸道鹽鐵轉運等使銀青光祿大夫、檢校司徒揚州大都督府長史上柱國太原縣開國伯食邑七百戸王播が宰相兼諸道鹽鐵転運使に復帰した。
代わって元宰相の御史大夫鄒平郡公段文昌[字墨卿]が檢校尚書右僕射揚州大都督府長史同平章事淮南節度使となった。

太和四年[830]
◎.3月 文昌は檢校尚書左僕射同中書門下平章事兼江陵尹充荊南節度使に移った。
前太子賓客崔從[字子乂]が檢校右僕射揚州大都督府長史淮南節度使となった。從は牛李之党争では裴度・李徳裕派に属し、東都留守から戸部尚書となったが、牛派の宰相李宗閔に逐われて罪無くして賓客分司となるが、その人事への批判が強く、淮南節度として遇されたわけである。

◎. 從は清廉であったので雑付加税を省き、属吏の給与を公平化した。

大和六年[832]
◎.11月 崔從は鎭に卒した。年七十二歳。贈司空,諡曰貞。人望があった。

◎.12月 宰相牛僧孺が檢校右僕射同平章事揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度事となった。このころ文宗皇帝は李派に傾き、対吐蕃政策を巡って糾弾された僧孺は不利をさとって退避した。

開成二年[837]
◎.5月 冷遇されていた浙西觀察使李德裕が復権して檢校戸部尚書兼揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度使事となり、淮南節度使牛僧孺は辞して檢校司空東都留守となった。

◎. 德裕は赴任するとさっそく僧孺の吏僚を糾弾したが、文宗は取り上げなかった。

開成五年[840]
◎.9月 武宗皇帝が即位し、淮南節度使檢校尚書左僕射李德裕が宰相として任用され、李派の全盛期となった。同じく李派の宣武軍節度使檢校吏部尚書汴州刺史李紳が代わって淮南節度使となった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淮南節度使史5

2020-11-28 09:20:57 | Weblog
永貞元年[805]
◎.3月 順宗の即位により鍔は検校司空に昇格した。

元和二年[807]
◎.10月 浙西鎭海軍節度使李錡は姑息な德宗時代に長期に渡って浙西觀察使として君臨し、諸道鹽鐵転運使を兼ねることで莫大な資産を蓄積してきた。ところが憲宗皇帝の時代になると中央への利権の回収が始まり諸道鹽鐵転運使が解任され、代わりに鎭海軍節度使への昇格ということになった。錡は極めて不満であり、德宗時代の姑息な人事が忘れられず、辞任するとごねてみた。するとたちまち認められ、名誉職の左僕射への昇進という通告を受け反乱を起こしてしまった。

◎. 淮南節度使王鍔が充諸道行營招討使,内官薛尚衍為監軍,率汴、徐、鄂、淮南、宣歙之師,取宣州路進討。軍人であり南方戦線では実績のある鍔は功績を上げるチャンスとばかり張り切った。しかし李錡の無謀な反乱についていけない、鎭海将張子良、李奉遷達が蜂起し錡を捕らえてしまった。

◆.元和2.淮南節度罷領楚州.尋復領楚州
◇.升壽州団練使為都団練使領壽泗楚三州治泗州.尋廃都団練使.復壽州団練使.泗州隷武寧.楚州隷淮南

◎.鍔は学才はないが極めて吏治に通じており莫大な資産を築き上げた。

元和三年[808]
◎.9月 王鍔は入朝し盛んに贈賄して宰相への昇進をはかった。しかし諌官達が反対したためなれず、一時名誉職の左僕射となり、すぐ檢校司徒河中尹河中晉絳慈隰節度使に転じた。
◎.代わって名門貴族出身の宰相李吉甫[字弘憲]が檢校兵部尚書兼中書侍郎平章事揚州大都督府長史淮南節度使となった。憲宗の信任はあったがその治政方針が同輩とはあわず外された。但し信任の印として現役宰相格である中書侍郎は継続している[西川節度の武元衡の門下侍郎と同様]
◎. 在任中吉甫は治水開田に努めた。

元和五年[810]
◎.12月 諸道鹽鐵轉運使刑部尚書李鄘[字建侯]が檢校吏部尚書兼揚府長史充淮南節度使となった。

元和六年[811]
◎.正月 宦官や吉甫と対立していた宰相李藩や裴垍が去り、吉甫は宰相に復帰した。

◎. 鄘は硬骨な能吏で、兵略にも通じ淮西征討を妨害しようとする淄青李師道を牽制し、収斂せず軍費を貢献した。
◎. 憲宗皇帝の信任厚い吐突承璀[宦官]は一時淮南監軍に失脚していたが、中央復帰後に鄘の厳正さを評価し宰相への任用を推薦した。

元和十二年[817]
◎.10月 檢校左僕射淮南節度使李鄘は宰相となった。鄘は宦官の推薦により相となることを喜ばず、辞退し続け、13年3月に罷され戸部尚書となった。
◎. 尚書左丞衛次公が後任の檢校工部尚書兼揚州大都督府長史御史大夫淮南節度使となる。次公は憲宗皇帝の信任が厚く次期宰相と言われていたが、淮西征討には反対していた。ところが李愬が淮西を制圧したことから失脚し出された。

元和十三年[]
◎.7月 宰相李夷簡が檢校左僕射同平章事揚州大都督府長史淮南節度使となった。宰相に任用されたがその才がないと自覚し外任を求めていた。
◎.10月 前任の衛次公は歸朝の途次卒した。贈太子少保,年六十六,謚曰敬。

長慶二年[822]
◎.3月 李夷簡は辞退を求め右僕射となったが受けず、檢校左僕射兼太子少師分司となった。
◎. 守司空河東節度使裴度は河北の兵乱に際して兵権を解かれて守司徒平章事充東都留守判東都尚書省事都畿汝防御使太微宮等使となったが、その姑息さを諌官に糾弾された宰相達はあわてて、揚州大都督府長史充淮南節度使に転任させた。しかしさらに糾弾されたため宰相にもどすことになった。
◎. 財政通であるが軍國の経綸のない宰相王播が檢校右僕射兼揚州大都督府長史充淮南節度使兼諸道鹽鐵轉運使としてでることになった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淮南節度使史4

2020-11-27 09:47:34 | Weblog
◎12月. 庚辰,刑部侍郎杜亞[字次公]が兼御史大夫揚州州大都督府長史淮南節度使に補された。淮南人は少游の聚斂の後、果断で能吏な亞の赴任を歓迎したが、宰相になれず不満な亞は遊興にふけった。

◆.貞元4.復領壽廬濠三州.復置壽州団練使

貞元五年[789]
◎.10月 戶部侍郎竇覦[昭成皇后の一族.8月に同州刺史より戸部侍郎]が新任の宰相竇参の推薦で揚州大都督府長史御史大夫充淮南節度副大使知節度事となる。才学はないが吏治計数に明るいとされていたが、赴任して数日で卒した。暴卒,贈禮部尚書。

◎.12月 宰相竇参は、亞が宰相に任用されることを懼れて亞を東都留守畿汝州都防御使に遷した。

◎.12月 尚書右丞杜佑/祐[字君卿]が檢校禮部尚書兼揚州長史淮南節度使となった。佑は名門貴族で嶺南節度で能政で聞こえていた。彼は母喪により辞退したが許されなかった。

◎.貞元年間、奉天の変によりすっかり自信を失った德宗皇帝は、ひたすら姑息な人事を行い安寧を求めた。そのため各節度使は長期在任し、卒したときも事前に就任していた次席の行軍司馬が昇進するという安全策をとっていた。佑は検校刑部尚書、検校右僕射と昇格していった。

貞元十六年[800]
◎.5月 巨大な淄青節度から漕運の経路を防衛し、睨みをきかしていた徐泗濠節度使張建封が卒した。名目上虔王諒を大使とし、後任に文官の行軍司馬韋夏卿を副大使知節度事に任じたが、牙軍は建封の子愔を擁立した。そこで唐朝は淮南節度使杜佑に平章事を加え徐泗濠節度使事を兼任させ愔を討とうとした。

◎. ところが淮南將孟准は敗北し、泗州刺史張伾軍も大敗したため、弱気になった唐朝は、愔を起復驍衛將軍兼徐州刺史御史中丞本州團練使知徐州留後として認め、泗濠観察使を置いて佑に兼任させることとした。愔は自立に成功したが泗濠二州を切り離されたため財政的に困難となった。

◆.貞元16 廃徐泗濠三州節度使.未幾置泗濠二州観察使隷淮南.徐州領本州留後

◎.佑は名門貴族の出身であり、治政は幕僚達に任せていたため、内部抗争は激しく德宗にすらその状況が知られるようになっていた。

◆.貞元16.置舒廬滁和四州都団練使隷淮南

貞元十八年[802]
◎.10月 杜佑は中央に復帰しようとして盛んに贈賄し交代を求めた。刑部尚書王鍔[字昆吾]がそれに応じて格下の淮南副節度副使兼行軍司馬への赴任を希望した。王鍔は軍人上がりだが極めて能吏であり、富裕な淮南節度を熱望していた。

貞元十九年[803]
◎.3月 莫大な富を携えた杜佑は入朝し、皇帝以下にばらまいて檢校司空同中書門下平章事兼太清宮使として念願の宰相となった。王鍔もまた昇進し檢校尚書右僕射兼揚州大都督府長史淮南節度使となった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淮南節度使史3

2020-11-26 19:37:45 | Weblog
◎.陳少游は小恵を与えながら吏治に励み、収斂して莫大な資産を築き、宰相元載や宦官駱奉先、劉清潭、吳承倩に多額の贈賄をしたため、代宗皇帝はその忠誠を信じきり、相継いで檢校禮部・兵部尚書を加えた。

大暦十一年[776]
◎.8月 宣武李靈曜が、魏博田承嗣と通じて反し、淮南節度使陳少游は淄青節度使李正己とともにこの征討に参加した。

◎.10月 李忠臣・陳少游等は李靈曜を汴州城西に破った。

建中二年[781]
◆.正月 泗州隸淮南

◎.11月 淄青節度使李正己が卒し、子の納が自立した。陳少游はその海州を撃ち、刺史王涉がせ降った。

◎.12月 李納密州刺史馬萬通が降り、密州刺史とした。

建中三年
◎.正月 李納が海・密州を奪回した。

◎. 陳少游に檢校左僕射,賜實封三百戶が加えられた。

建中三年[782]
◎.4月 軍費が急増したため、陳少游は田塩税の2割の増税を提案し、5月認められた。

◎.11月 宰相盧杞や關播との私的関係や貢納の功績により少游は同平章事を加えられた。

建中四年[783]
◎.9月 德宗の養子舒王謨が揚州大都督荊襄江西沔鄂節度諸軍行營兵馬都元帥となり、普王に変えられた。淮寧戦線の統帥を統一するもので、幕僚も指名されたが奉天の乱で取りやめになった。

◎.11月 陳少游は淮西李希烈を討つため出兵し、盱眙に屯したが、朱泚の乱を聞き撤退し兵備を強化した。浙江節度韓滉も石頭城を築き少游と対抗した。

◎. 鹽鐵使包佶は貢納錢を京師に運ぼうとしたが、少游はこれを横領した。江西節度曹王皋だけが唐朝に忠実であった。

◎.12月 優勢な李希烈をみて、少游は參謀温述を送り通じた。また巡官趙詵を李納に派遣して協調させた。

興元元年[784]
◎.正月 李希烈は陳少游の歸順を認めた。しかし壽州刺史張建封は従わず唐朝に附いた。

◎. 唐朝は張建封を濠壽廬三州都團練使として淮南より切り離し、淮西防衛に当たらせた。

◆.建中4.置壽州都団練使
◆.興元1.罷領壽廬濠三州隷壽州觀察

◎. 李希烈は將杜少誠を淮南節度使として壽州を攻撃させたが抜けず、蘄黄州を攻めさせたが曹王皋將蘄州刺史伊慎に大敗した。

◎. 李希烈の大敗を知った少游はあわてて奪った貢納を納入させた。

興元元年
◎.5月 危機に瀕していた德宗皇帝は陳少游に檢校司徒を加えて慰撫した。

◎.11月 浙西韓滉が莫大な貢米を送ったことを知った少游もあわてて貢米二十萬斛を送った。

◎.12月 劉洽が汴州を回復し、李希烈の起居注[皇帝としての記録]を得た。中に「陳少游上表歸順」と書かれており、聞き知った少游は脅えて病となり、乙亥,卒した。自殺かもしれない。德宗皇帝は追及せず贈太尉として遇した。

◎. 淮南大將王韶は自立しようとしたが、浙江韓滉に威嚇されてやめた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淮南節度使史2

2020-11-25 09:51:35 | Weblog
上元二年[761]
◎.正月 田神功は劉展を蒜山に敗死させ、与党を平定しました。そして各地を大掠し、6月、開府儀同三司を加えられ徐州刺史に任じられました。

◎.6月 都統李峘は敗戦の責任を問われ袁州司馬に貶されて病死した。浙西節度使侯令儀も流されたが淮南鄧景山は責任転嫁に成功し10月に尚書右丞となり京師に戻った。

◎. 刑部尚書王璵が兼揚州長史御史大夫充淮南節度使兼祠祭使となるが、すぐ使持節都督越州諸軍事越州刺史浙江東道節度觀察處置使に転じた。璵は儀典好きな肅宗皇帝によって宰相に登用されたが政治能力はなく解任され刑部尚書兼祠祭使となっていた。実際に赴任したかは不明である。

◎.2月 太子詹事兼汾州刺史趙國公崔圓が檢校吏部尚書御史大夫揚州大都督府長史淮南節度観察使として赴任した。圓は劍南節度使から元宰相を経て太子少師兼東都留守の時、史思明の勝利に脅えて東都を早期に放棄した責任で左遷されたが復活してきたわけである。行政能力はあり、淮南節度使を立て直していった。

◎.10月 唯一人劉展に抗戦した李藏用は楚州刺史に昇進したが、まもなく崔圓に乱中の官物散逸の責任を取らされて殺された。

◆.永泰元年[765]
◎. 蘄黄州隷鄂岳

永泰二年/大暦元年[766]
◎.6月 特進檢校吏部尚書御史大夫淮南節度使崔圓、加検校右僕射知省事。

大暦二年[767]
◎.是年 崔圓、転檢校左僕射知省事、節度使如故。

大暦三年[768]
◎.6月 特進檢校左僕射知省事淮南節度使崔圓卒。64才。贈太子太師,諡曰昭襄。

◎.閏6月 尚書右丞韋元甫、揚州州大都督府長史兼御史大夫淮南節度觀察使となる。政績は特にないが安寧を保った。

◎.是年 平盧行軍司馬許杲は淮南領域の濠州を不法占拠して淮南侵入を狙っていた。節度使崔圓は副使驍將張萬福を攝濠州刺史として対応させた。たちまち杲は濠州から退去し楚州を狙った。萬福は和州刺史行營防御使に転じて杲を逐い、12月その党を誅した。また賊陳莊が舒州を陥し、萬福は攝舒州刺史としてこれも誅した。

大暦六年[771]
◎.8月 節度使韋元甫卒。諸將は張萬福の継承を願い、監軍使も同意したが、萬福は「節度使には向いていない」と拒否し、領利州刺史として咸陽に鎭して防秋にあたった。

◎.8月 御史大夫張延賞[宰相嘉貞の子.本名は寶符であり、延賞は賜名]が宰相元載に敬遠されて御史大夫兼揚州大都督府長史淮南節度觀察等使になり旱天の災害に対応し政績を上げる。

大暦八年[773]
◎.10月前 延賞は母憂のため去職する。11年4月に喪が明け荊南節度使となった。

◎.10月 越州刺史兼御史大夫浙東觀察使陳少游が銀靑光禄大夫揚州大都督府長史充淮南節度使.穎川縣子となった。少游は幕僚あがりの能吏であるが、宦官と深く結託して贈賄に励んでいた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淮南節度使史1

2020-11-24 12:02:56 | Weblog
淮南節度使は揚州を治所とする。淮南道採訪使の後継で道を管轄とする。浙江西道と並び唐朝財政の基盤で富裕な地域であり唐初より重視されている。

至德元年[756]
◎.7月 成都に逃亡した玄宗皇帝は皇子盛王琦を充廣陵大都督領江南東路及淮南河南等路節度都使とし軍權を分置しようとした。盛王は実際に赴任していない。廣陵郡長史李成式が副都大使兼御史中丞として実務をすることになった。のち成式は大理卿に移る
◎.11月 江陵[荊南]大都督に任ぜられた永王璘が、江陵[荊南]で募兵し、江淮で自立しようとした。

◆.12月 置淮南節度使領楊楚滁和壽廬舒光蘄黄安申沔十三州治楊州.尋申光隷淮西

◎. 永王の東下を防ぐため、諫議大夫高適[字達夫]が廣陵大都督府長史淮南節度兼采訪使となった。他に來瑱が淮西節度使となった。

◎. 永王璘は東侵し、將季廣琛に廣陵を襲わせ、長史淮南采訪使李成式將李承慶を破った。高適は急遽赴任し、來瑱や江東節度使韋陟と安陸に会同した。

至德二年[757]
◎.2月 永王將季廣琛・渾惟明・馮季康などは朝敵となっていることを知り帰順した。
永王軍は李成式將李銑・裴茂・趙侃などに敗れ、永王は江西まで逃げて誅された。肅宗皇帝は永王を幼時からかわいがっていたので、承認の無い処刑に不満だった。
◎.この歳 文官靑齊節度使鄧景山が揚州長史淮南節度使に移った。政治は簡肅で好評であったようだ。高適は宦官李輔國に憎まれ太子少詹事に左遷されたらしい。

至德三年/乾元元年[758]
◎.12月 置浙江西道節度使[節度使韋黄裳]・浙江東道節度使[節度使李希言]がおかれて、戸部尚書李峘が淮南節度使[節度使は鄧景山]とともに兼御史大夫持節都統淮南江南江西節度宣慰觀察處置等使として統轄することになった。峘[趙/越國公]は皇族で吳王の末で宰相峴の兄である。

乾元二年[759]
平盧軍出身の御史中丞李銑・宋州刺史劉展等は河南道一帯で、安史軍と戦ってはいるが、極めて規律のない軍隊で、貪暴不法を続けて問題となっていた。淮西節度使王仲昇は展を抑えることができず、文官の都統李峘や淮南鄧景山と展を李銑から切り離し、途次に捕殺しようと企画し、浅薄無能な肅宗皇帝もその企画に賛同した。そして劉展を李峘に代わって都統淮南東江南西浙西三道節度使に任ずるという詔が出された。
自分達が貪暴であるとは自覚していた展はその真意を疑ったが、使者の宦官が保証し、符節も示されれば信じるしかなく、富裕になることを夢見て麾下七千を率いて勇躍南下した。


上元元年[760]
◎.11月 展は南下したが、淮南鄧景山・浙西侯令儀の軍が京口,徐城に屯して遮っていた。展は詔書を示したが、景山等は否認したため戦闘となった。歴戦の展軍は南方軍を一蹴し揚州に入った。
そして將屈突孝標に濠、楚州を、王恆に淮西を平定させた。
展軍は李峘軍を京口に破り、峘は宣州に敗走した。

◎.12月 展はさらに浙西に入り潤州・昇州を陥した。節度使侯令儀は逃亡し、軍人の都統副使李藏用だけが敗卒を集めて蘇州を守ったが敗れて杭州に奔った。

◎.展軍は濠楚和滁廬等州を占領し、淮南浙西の大半を制圧した。ただ壽州刺史崔昭だけが防守していた。

◎. 肅宗皇帝は狼狽し、任城に屯していたやはり平廬軍出身の都知兵馬使田神功[展の兄貴分に当たる]に展の征討を命じた。神功は淮南の富裕を知り、掠奪の希望に燃えて麾下と共に勇躍して南下した。

◎. 展は淮南の弱兵を一掃していたが、田神功の来寇を懼れて備えた、しかし神功軍は強く、梁山に敗れて奔った。

◎.神功軍は廣陵・楚州に入り徹底して掠奪した。安史の乱で被害を受けていなかった淮南浙西も肅宗や官僚の愚策により荒廃してしまった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする