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唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

辛雲京伝

2019-04-30 10:00:25 | Weblog
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辛雲京伝
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雲京は蘭州金城人だが京兆に移る。
代々軍人の家柄であった。

雲京膽力があり、兄弟と共に軍功を積み特進、太常卿員外。

河東都知兵馬使。

安史の乱に史思明を滏陽に破り、開府儀同三司,加代州都督鎮北兵馬使。

乾元二年.潞沁節度王思禮が河東節度使となると雲京は誣告され、誅されようとしたが、麾下の張光晟の取りなしで免れた。

元年建卯月.鄧景山が河東節度として軍紀を粛清しようとしたが、軍乱により殺された。
雲京はこれを鎮定し太原尹河東節度使.進封金城郡王。光晟を代州刺史の後任とした。
五月.景山を殺した數十人を誅した。

雲京は厳正でしかも賞功が公正であったため軍は肅然となった。

十一月.史朝義将李寶臣を降した。

廣徳元年.副元帥僕固懷恩を怪しみ、宦官勢力とともに誣告し、その反を招いた。

廣徳二年正月.河東都將李竭誠が懷恩と結び反したが鎮圧し、来援した僕固瑑[懷恩子]を破った。

安史の乱で援軍となった回紇の使臣は専横を極めていたが、雲京はこれを厳しく取り締まった。
二年九月.加檢校尚書右僕射同中書門下平章事。

十二月.入朝する。

大曆三年,檢校左僕射。八月.卒,年五十五,贈太尉,諡曰忠獻。
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張獻恭伝

2019-04-29 10:04:03 | Weblog
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張獻恭伝
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幽州節度使守珪の弟守瑜の子。山西節度使獻誠の從弟。

獻誠と共に唐朝に歸附し、軍功により試太常卿兼右羽林將軍に至る。

大暦三年四月.獻誠の推薦により代って梁州刺史兼御史中丞山南西道節度觀察使となる。

十二年七月/十一月.破吐蕃を岷州に破る。

十四年.検校戸部尚書。

建中二年正月.加檢校兵部尚書東都留守。

三年正月太府卿容州刺史本管經略招討使。

四年七月.渾瑊、盧杞、段秀實等と吐蕃尚結贊と京城西に盟約。

興元元年六月.檢校吏部尚書

盧杞再登用の件等で德宗皇帝を諫め性守正不撓。

没年不明。
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嗣曹王李皋伝

2019-04-28 10:05:47 | Weblog
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嗣曹王李皋伝
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皋は字子蘭,曹王明の玄孫,嗣曹王戢の子。

蔭位により左司御率府兵曹參軍。

天寶十一載.嗣封して都水使者員外

秘書少監員外。

安祿山反に母とともに蜀へ逃れる。
左領軍將軍
知恵があり孝行で聞こえた。

上元元年.飢饉により俸禄が足りず外官を求めてたが得られず、わざと法に触れ貶溫州長史。

まもなく攝行溫州事。ここも飢饉のため許可をまたず開倉。
加少府監員外。

處州別駕行州事、良政

衡州刺史に進むが、觀察使辛京杲を批判して,貶潮州刺史。

大暦十四年.宰相楊炎により復衡州刺史。

建中元年四月.潭州刺史、湖南團練觀察使に進み、七月.京杲の貪残により引き起こされた王國良の叛乱を鎮撫する。

二年.母の喪で入朝途中、梁崇義の反に会い、
起復左衛大將軍,復湖南觀察使。
ついで加檢校散騎常侍。

三年十月.李希烈が反し江西道節度使洪州刺史兼御史大夫に遷る。
將伊慎、李伯潛、劉旻、王鍔を将として希烈を伐つ。

四年三月希烈將韓霜露を敗死させ拔黄州、蘄州。

三月.舒王元帥前軍兵馬使。

十月.希烈將杜少誠を永安戍に大破し加銀青光祿大夫,進封五/三百戶。

德宗皇帝の興元に進獻。加檢校工部尚書。

伊慎、王鍔を派遣して安州を取る。

興元元年七月.希烈将劉戒虛を應山に破る。
希烈は曹王を警戒して積極的な東都への攻勢ができなかった。

貞元元年三月.江陵尹荊南節度等使へ遷り、希烈将李思登が隨州を以って降る。

乱後、東都へ出て拜母墓。

江陵の堤防を修築し営田。

三年閏五月.検校戸部尚書襄州刺史山南東道襄鄧復郢安隨唐七州節度使。練兵積糧し淮西呉少誠を牽制する。

性勤儉で賞罰必信。物価を安定させ、豪家の横暴を抑えるなど治績があった。

八年三月.暴卒,年六十,贈右僕射。諡曰成。
その死後留後李實に不満で軍乱が起こったが、乱兵も皐の家は荒らさなかった。
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李叔明/鮮于叔明伝

2019-04-27 12:10:21 | Weblog
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李叔明/鮮于叔明伝
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叔明は字晉、閬州新政の人。本は鮮于氏で豪族であった。

兄の仲通は天寶末に楊國忠の党として京兆尹、劍南節度使。

兄弟とも学問に励み、施しをした。

明經に合格し、楊國忠の劍南節度判官。

乾元元年七月.司勳員外郎として漢中王瑀に従い回紇に使いする。
回紇の非礼を糺させる。

復命し司門郎中となる。

東都が回復し洛陽令として再建にあたる。

商州刺史上津轉運使。
加金商均房等州觀察使を加えられる。

京兆尹.御史中丞に進み、治績を上げる。

疾をもって辭し太子右庶子。

崔寧の乱時、卬州刺史兼禦史中丞充邛南招討都團練使。
加御史大夫

大暦三年五月.乱が収束し、東川節度使遂州刺史.御史大夫に進み、梓州に移治する。

十二年八月.叔明の出自に疑いが生じ、これを嫌って賜姓を請う。

十三年七月.檢校工部尚書。

建中元年五月.吐蕃が掠龍州,陷扶、文、遠三州、叔明が撃退する。
功により檢校戶部尚書。

山東梁崇義の乱に派兵し、荊門に破る。檢校尚書左僕射。

朱泚の乱に德宗皇帝が興元に逃れた時、これを支援し太子太傅.封薊國公。
東川は叔明の二十年間の統治で安定していた。

貞元二年三月.病により入朝し尚書右僕射となる。

その後太子太傅致仕。

貞元三年十月.卒し諡曰襄。

道、佛教が民政を乱す害を嫌っていた。
殖財し莫大な資産を築いていたが、没後数年で子孫が使い果たした。
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旅行中です

2019-04-20 11:37:37 | Weblog
旅行中いたします、25日までは更新致しません。
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李愬伝

2019-04-20 10:10:00 | Weblog
太尉李晟の子孫の中で最も有能。彼が健康であれば魏博が失われるきことはなかった
と考える。
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李愬伝
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愬は太尉晟の子、字は元直。

騎射に通じ、父の蔭位により協律郎、衛尉少卿に至る。

晟の服除後、太子右庶子、少府監。

坊州刺史。

晉州刺史、治績があった。

金紫光祿大夫庶子に復す。

太子詹事,宮苑閒廊使。

当時、淮西吳元濟を伐つかことごとく失敗し、唐鄧節度使高霞寓は大敗、その後袁滋は怯懦で
ひたすら淮西の侵攻を避けるのみであった。

元和十一年十二月.愬は宰相李逢吉に起用を請願し、ついに檢校左散騎常侍兼鄧州刺史御史大夫充隨唐鄧節度使となる

しかし隋唐鄧の軍は淮西軍に対する恐怖心にとらわれ、到底戦闘できる状態ではなかった。
愬は当面防衛に専念すると宣言し、將士家族を撫して安堵させた。
また来降する淮西兵を遇し情報を得て、戦乱に困窮して逃亡してくる淮西民を保護してやった。
淮西は実績なく攻勢にでない愬を軽侮して警戒を緩めていった。

十二年三月.淮西將吳秀琳を文城柵に降す。五月.李祐を捕らえる。
半年、河中鄜坊より二千騎の援兵を得て、小規模な侵攻を繰り返し、小勝を重ねて兵の自信を取り戻し、淮西の驍將丁士良や吳秀琳、李祐を捕らえた。

愬は捕らえた李祐等を優遇し、常に相談役とし淮西の内情に通じていった。
祐等もその恩遇に感激して忠誠を誓うようになった。
時に宰相裴度は李光顏・烏重胤等を率い洄曲に淮西董從質の率いる主力軍と対峙していた。

十月、愬は祐を先鋒として、張柴戍を殲滅し、周囲の道を遮断した。
続命を求める將士に「一気に敵の本拠地蔡州を強襲する」と宣言した。
將士は戦慄したが、愬を懼れて大雨雪の中を急行するしかなかった。

数十年にわたって反乱を続け、一度も敵襲の無かった蔡州は無防備であり、
愬は牙城を陥し呉元濟を捕らえた。
有力な淮西主力軍を率いる董重質もいかんともしがたく、助命され降った。
淮西兵は殺されることなく解体され各軍に分置されていった。
裴度が淮西節度使に赴任し、

十一月.愬は功績により檢校尚書左僕射兼襄州刺史山南東道節度襄鄧隨唐復郢均房等州觀察等使上柱國封涼國公實封戶五百賜一子五品官。

十三年五月.憲宗皇帝は対吐蕃戦略を考え、愬を鳳翔節度使に移した。

七月.淄青李師道が反し、病の兄愿に代わり徐州刺史武寧軍節度使へ移る。

十二月.助命はされたが春州司戸に貶されていた董重質の起用を求めて試太子詹事委武寧軍驅使とした。そして淄青兵を金鄉に破った。

十四年正月.魚台を、二月沂州丞縣を陥した。

十五年九月.淄青が平定され、検校左僕射潞州大都督府長史昭義節度使同平章事に移る。

四月.魏博節度田弘正が成德節度に移鎭すると、愬は魏博節度使として河北の重鎮に赴任した。

長慶元年七月.幽州、成德で乱が起き、弘正が殺されると、愬は魏博兵を激励してこれを伐とうとした。しかしこの時、愬は重病であったため、田布に交代するしかなかった。

九月.太子少保として東都に帰り、十月に卒した。年四十九,贈太尉,諡曰武。

愬は賢明儉約で、晟の子としては最も有能であった。
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李愿/李願伝

2019-04-19 10:01:55 | Weblog
名将李晟の著名な三子、愿・愬・聽で最も無能な子。長子ではないが兄達は早世したので
嫡男扱いである。
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李愿/李願伝
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愿は太尉晟の子。

若くして謙謹。

貞元四年七月.晟の功績により銀青光祿大夫太子賓客上柱國。父子門戟。

九年八月.晟が卒して喪に入った。

十二年.喪が明けて左衛大将軍。

左羽林大将軍?。

永貞元年四月.襲封岐國公,食邑三千戸。

元和元年八月.檢校禮部尚書兼夏州刺史夏綏銀宥等州節度使。政簡にして嚴。

六年十月.檢校兵部尚書徐州刺史武寧軍節度使。

十年十二月.李師道兵を平陰に破る。

久しく疾であり、性格が変わったようである。武寧軍節度使は弟愬に代わる。
十三年七月.刑部尚書

十四年四月.檢校尚書左僕射鳳翔尹鳳翔節度使。政績はあまりよくない。

長慶二年二月/元年三月.檢校司空兼汴州刺史宣武軍節度使。兵を撫せず奢侈、家人任せで
厳酷であった。
前帥張弘靖は兵の機嫌をうまく取っていたので不満は増していった。

二年七月.たまりかねた牙將李臣則が乱を起こし、愿は鄭州に遁走し。兵は大掠し介*が自立した。

隋州刺史に貶されたが、晟の功績により処罰はされなかった。

また左金吾衛大將軍に。

四年六月.検校司空河中尹河中晉絳慈隰等節度使。しかし軍政は乱れ、贈賄により地位を保つ。

兵乱が心配されていたが、寶暦元年六月.卒し贈司徒。

疾後はすっかり堕落した無能になり、ただ父や弟の功績に頼った。
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劉巨容伝

2019-04-18 10:12:41 | Weblog
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劉巨容伝
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巨容は徐州の人。旧唐書には伝はない。

咸通十年.州大將であったが龐勳の乱の時、途中に唐朝に降り浙東埇橋鎮遏使となる。

乾符四年閏二月.浙西將王郢が反して両浙を荒らし明州を攻めた時,
巨容は郢を敗死させ、功により明州刺史

楚州團練使。

黃巢の亂に際して、蘄黃招討副使。

檢校右散騎常侍山東行軍司馬[節度使李福]

乾符六年十月、巢が荊南を陥し、山南東道節度使になり巢を防ぐ。

十一月.江西招討使曹全晸と荊門關を守り、巢を大破潰滅させる。[旧紀では廣明元年三月]
加檢校禮部尚書。

諸將は巢を追撃し誅殺しようとしたが、巨容は
「唐朝は危難らあうと我々武官を優遇し恩賞を与えるが、事が済むと誣告して陥れる。賊が残存しているほうが我々にはいいのだ」と言って追撃を止めた。諸將もまたそうだと思った。
これは龐勳の乱の時、武官の招討使康承訓は辛苦して鎮圧したにも関わらず、文官の宰相らにその失態を追及されて左遷された記憶によるのだろう。当時宦官・文官達はも無学な武官をのように蔑視する傾向があった。

巢の乱は再び盛んとなり兩京を陥れ、巨容は南面行營招討使兼天下兵馬先鋒開道供軍糧料使、檢校司空,封彭城縣侯と昇進した。

巨容は吏治に明るく、僖宗皇帝がいる劍南との交通を保っていたが、
中和四年十一月.興元を逐われた山南西道節度使鹿晏弘[忠武軍出身で自立]と、反乱していた蔡州秦宗權[忠武軍出身]將趙德諲に挟撃されて敗北し成都へ奔った。

龍紀元年.実力者宦官田令孜は、巨容に黄金を作る術[詐欺師申屠生による]を強請し、応じることができるはずがなく、族滅させられた。
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李澄伝

2019-04-17 10:12:00 | Weblog

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李澄伝
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澄は遼東襄平人、京兆に移る。隋蒲山公寬の末と称する。

父鎬は清江太守。

澄は武藝により江淮都統李峘の將.試將作監。

建中初,滑州刺史永平軍節度使李勉將。檢校太子賓客兼御史中丞

勉が汴州に移治すると、澄は滑州刺史。

二年十一月.宣武劉洽.神策曲環.朔方唐朝臣等と李納軍を徐州に破った。

四年十二月,李希烈が汴州を陥し、勉を逐った。
澄は降り、希烈の尚書令兼滑州永平軍節度使にされた。

興元元年二月.澄は密かに奉天にいた德宗皇帝に通じて、
檢校刑部尚書兼汴州刺史汴滑節度觀察使に任ぜられた。

澄は歸附を秘し、兵備につとめた。希烈は疑い、養子軍六百人を派遣して警戒した。

希烈が寧陵を攻めて苦戦した時、澄は応援し、わざと敗北して養子軍に罪を押しつけ誅した。

希烈將翟暉が陳州を攻め、十月には汴州が手薄になった。

閏十月.宦官薛盈珍が檢校兵部尚書封武威郡王賜實封五百戶を授け、澄は公に唐朝に復帰することにした。

十一月.希烈は澄に反され、翟暉が大敗して、蔡州に退却した。

澄は宣武軍節度使劉洽と汴州を攻め、希烈將田懷珍は降ったが、澄と洽は功を争った。
鄭州將孫液が澄に通じ、澄子清に鄭州を回収させ、河陽軍節度使李芃將雍顥と争った。
唐朝は清を檢校太子賓客兼御史中丞とし、克寧と改名させ優遇した。

貞元元年三月.澄は檢校左僕射義成軍鄭滑許等州節度使となった。鄭・許州は与えられたが、汴州は劉洽のものとなった。

二年三月.希烈兵を鄭州に破った。

八月.卒,年五十四,贈司空,
克寧は自立しようとしたが宣武劉洽[玄佐]に圧迫され、唐朝が新節度使として董晉を派遣したのであきらめて資材を根こそぎ携えて入朝した。牙軍は乱して剽奪した。

澄は無学非常識で、隴西郡公から武威郡王に進んだが、常に二封を連記して笑いものになっていた。
中国の封爵はヨーロッパの制度と違い、進爵した場合は上級の封爵のみを名乗るものである。
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李萬榮伝

2019-04-16 10:27:28 | Weblog
有力な藩鎭が形成されると、没後が必ず混乱する。劉玄佐が築いた宣武軍節度も
長く騒乱が続いた。
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李萬榮伝
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萬榮は宣武軍節度使劉玄佐と同郷で仲が良く信頼されて宣武将となっていた。

寬厚で兵士の信望が厚かった。

貞元九年.玄佐没後、その子士寧は自立して一応認められたが、淫亂殘忍で狩猟好きで人心は附いていなかった。そこで萬榮を疑って兵權を取り上げて攝汴州事とした。

萬榮は深く怨み士寧を逐おうと画策していた。

十年正月/九年十二月.士寧は二萬を率いて城南に狩猟に出た。
萬榮は腹心千餘人を率い、士寧は罷免され私が留後となったと宣言した。
兵士達は皆従い、城門を閉めて,士寧に入朝を勧告した。
士寧は方策無く麾下五百騎を連れて京師へ逃亡したが、東都につく頃には數十人に減っていた。

萬榮は士寧親將辛液、白英賢等を斬り、兵に賞錢を与えて慰撫した。
正月.唐朝は通王諶を宣武節度大使とし萬榮を宣武軍兵馬留後とした。

四月.萬榮は吐蕃防衛に士寧派や驕兵を選んで派遣しようとした。大將韓惟清、張彥琳等は乱を起こしたが敗北し、乱兵は宋州刺史劉逸准の元に匿われた。

韓惟清や張彥琳は唐朝に歸順、萬榮は逃叛將卒の家族數千人を殺害した。
人心は動揺を続け、萬榮は士寧の指嗾を訴えて郴州に流させた。

十一年五月.宣武軍節度使。

十二年六月/八月.萬榮は病となり、押牙劉沐が行軍司馬となった。

萬榮は子乃を司馬として継承させようとして。沐や諸将を殺した。
都虞候鄧惟恭は監軍俱文珍と蜂起して乃を捕らえ、七月.萬榮は病卒した。
形としては萬榮は太子少保に転任。乃は貶虔州司馬とされ京師で杖殺された。

宣武軍は温厚な元宰相東都留守董晉が強行赴任し一応鎭撫した。
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盧従史伝

2019-04-15 10:17:40 | Weblog
功績はないのに宦官に画策して出世し、また陥れられて消えた藩帥
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盧従史伝
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從史は元魏以来の豪族。

父虔は進士,秘書監に至る。

從史は学問は学ばず、騎射を習い、澤潞節度使李長榮の大將となる。

德宗皇帝は軍乱を懼れて継承のたびに牙軍の意向を伺う姑息な方法をとっていた。
貞元二十年六月.長榮が卒し、從史は宦官監軍に通じてうまく立ち回り本命の來希皓を抑えて、八月.昭義軍節度副大使知節度事となった。

奸悪不道で部將達の妻妾を奪ったり、幕僚に嫌われたりし、成德王士真や幽州劉濟とつながっていたが、宦官への贈賄で地位を保っていた。

元和四年.父の喪のため罷官されるのを懼れて、成德節度承宗を伐つことを憲宗皇帝に提議し起復左金吾大將軍として復任した。
またその一方河北三鎭ともつながっていた。

十月.征討が始まると逗留して進まず、敵に内通し、兵糧を横流しする状況であった。

元和五年四月.宣慰使中尉吐突承璀は神策兵を率いて成德を伐つが功無く、從史の不誠実に責任転嫁を図り、これを捕らえて京師に送った。牙軍は騒乱したが都將烏重胤が制圧し収めた。

七月.成德王承宗の乱も従史に責任を押しつけて歸順させることにした。

貶驩州司馬、道に殺された。
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鄭權伝

2019-04-14 10:10:19 | Weblog
文官とは思えないあくの強さで、種々の紛争を起こしながらも、有能であった藩帥。
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鄭權伝
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權は滎陽開封の人。

進士に合格し、涇原節度幕僚[劉昌]。

劉昌が疾となり入朝を求め。權が留務となり、その後の軍乱を鎮圧した。
德宗皇帝はそれを評価して試衛佐より涇原行軍司馬御史中丞に抜擢した。

倉部郎中。

河南尹に至る。

元和十一年七月.襄州刺史山南東道節度使。
淮西の討伐にあたる唐鄧隋節度のバックアップとして、袁滋・李愬を助けた。

十二年.華州刺史潼關防御鎮國軍使。

十三年.德州刺史橫海軍節度德棣滄景等州觀察使。
淄青李師道を德棣兵ほ率いて圧迫。
十四年.滄州刺史李宗奭と争いこれを免官するが、宗奭は従わず。
統制がとれないため、天平節度烏重胤に橫海を任せて權は解任された。
滄州の將吏は重胤を懼れて宗奭を京師逐い、誅殺された。

邠寧節度使。
ところが宗奭の事件が誣奏にあたるとされて、貶原王傅。

きもなく、十四年十一月.右金吾衛大將軍充左街使に戻る。

穆宗即位,左散騎常侍として入回鶻告哀使。
回鶻君主を懼れず激論し敬意を払われた。

長慶元年.還り河南尹。

二年.工部侍郎から十月.工部尚書。

三年四月.妾が多くて給与では生活が苦しいと宦官王守澄に請願贈賄した。さすがの守澄も呆れはしたが、檢校右僕射[検校刑部尚書]廣州刺史嶺南節度使。

収斂に勤め、贈賄に励んだが、四年十月卒。
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張允伸伝

2019-04-13 10:03:08 | Weblog
武宗會昌年間以降、新旧の唐史の記述は混乱し、矛盾が多くなる。
幽州節度においては実力のないものは君臨できない傾向はますます強くなっていく。
允伸のような長期政権のあとでも簡単に覆されるのである。
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張允伸伝
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允伸、字は逢昌。范陽の人で、曾祖秀,檀州刺史。祖巖,納降軍使。父朝掖と代々幽州軍に仕える。

就任の記述は矛盾している。
[旧唐書.資治通鑑]大中四年九月.節度周綝が卒し、牙軍は牙將允伸を留後とした。
[新唐書]大中四年八月.張仲武の子直方が継承していたが、若年で横暴であったので牙軍に逐われた。押衙兼馬步都知兵馬使であった允伸が牙軍な推されて留後となる。

唐朝は追認し、十一月.檢校散騎常侍節度使、檢校工部尚書に進む。

十三年九月.[通鑑では]同平章事。

咸通四年十一月光禄大夫.檢校司徒兼太傅,封燕國公に進む。

七年三月.兼太保平章事,進封燕國公。

九年正月.加檢校太傅。

十年.龐勳が徐州で反したとき、鎮圧の為派兵を申し出た。

結局派兵はしなかったが、米五十萬斛、鹽二萬斛を軍費に献上した。
十一年六月.特進兼侍中。

十二年正月.疾のため、子簡會を檢校工部尚書兼副大使とした。

十三年正月/二月.卒,年八十八,贈太尉,諡曰忠烈。

勤儉で恭謹であり、治績良く。辺境を守った。

二月/三月.平州刺史張公素が挙兵し簡會を逐った。
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張仲武伝

2019-04-12 10:12:16 | Weblog
幽州節度は唐朝と離れ、直接蕃地接しているため、唐に協力的であることと、
若年者や無能な帥を認めない雰囲気があった。
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張仲武伝
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仲武は范陽の人。幽州将光朝の子。

若くして学に志したが挫折して、武へ転向し幽州節度に仕えた。

薊北雄武軍使に至る。

會昌元年九月.牙将陳行泰が節度使史元忠を殺して自立。

しかし閏九月.行泰も牙將張絳に殺され、絳が自立した。
仲武は唐朝に軍吏吳仲舒を派遣して自分を幽州節度に任ぜられるよう求めた。
[旧唐書では仲武と絳を混同し、絳が賜名されて仲武となったとしている]

十月.宰相李徳裕達は唐朝を尊重する姿勢と、その方略を認め、撫王紘を遙領幽州節度大使とし、仲武の兵馬留後就任を認めた。

仲武は絳を逐い、二年正月.檢校工部尚書兼御史大夫幽州節度副大使知節度事幽州大都督府長史.蘭陵郡王となった。

五月.回鶻帝国が崩壊して唐の北邊を荒らしたため、仲武は唐朝に協力してこれを伐って、貴族千餘人民三萬人を降した。
加檢校兵部尚書兼東面招撫回鶻使。

九月.東面招撫回鶻使となり奚や契丹を誘い回鶻主流を潰滅させた。

三年.唐朝が昭義劉稹を伐ったときは、回鶻残党の警戒にあたった。
河東節度使劉沔とは回鶻征討の功を争い不仲であった[唐朝は配慮して沔は義成に転任させた]。
二月.檢校尚書右僕射。

大中元年二月.検校司徒同平章事に至る。

五月.奚北部及山奚を破った。

三年四月.鎭に卒した,謚曰莊。
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沈傳師伝

2019-04-11 10:11:37 | Weblog
完全な文官[史官]ですが、湖南・江西・宣歙を歴任したということで追加。
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沈傳師伝
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傳師,字は子言,吳人。
父既濟は高名な学者。

学術に長け、進士に合格し、さらに制科乙第により太子校書郎、鄠縣尉直史館となり、
左拾遺、左補闕で史職を兼ねる。

司門員外郎知制誥充翰林學士。

司勳郎中.兵部郎中を経て中書舎人となる。

無欲で権力栄進わ逐わず、監修国史を兼任した。

長慶三年六月.出て潭州刺史湖南觀察使兼御史中丞。

宝暦二年.尚書右丞。

太和二年.洪州刺史江南西道觀察使

太和四年九月.宣州刺史宣歙池觀察使、廉政で聞こえた。

太和七年.吏部侍郎。

太和九年四月.卒,年五十九,贈吏部尚書。

外官にあっても財を築かず、實錄等の編纂に励んだ。
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