唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

元和二年 西暦 807 和暦 大同2年 1

2020-01-31 22:04:08 | Weblog
正月乙巳、宰相杜黄裳が同平章事河中晉絳慈隰節度使となった。
 有能な黄裳は劉闢討伐を主唱し功績を上げたが、主導権を握りたくなった憲宗配下の李吉甫や
 武元衡と合わなくなり、早期に身をひいた。宰相が辞めて出鎭する場合、同平章事がつく(使相
 という)場合は左遷ではないという慣例になっている。

正月己酉,戸部侍郎武元衡と翰林學士李吉甫が代わって宰相となった。
 本格的な憲宗政治の開始である。武元衡は執誼から排除され、吉甫は德宗時は長期間任用されず
 僻地に置かれていた。

八月、幽州劉濟、成德王士真、易定張茂昭の河北の方鎭が私闘し、互いに告発しあった。
 唐朝はその間隙をつき、主導権をとろうとしていった。

九月、浙西節度使李錡が入朝を求め、意に反して許可されると反した。
 錡は德宗時代は富裕な浙西に圧政をしき、激しい収奪をしては、一部を皇帝に直接上納するなど
 して放任されていた。ところが憲宗になり、劉闢・楊惠琳が誅されるのを見て怖れて形式的に入
 朝を求めて上意を窺った。藩鎭強硬派武元衡達は錡を罷し、左僕射という名誉職に転じさせよう
 とした。錡は激怒して牙軍を指嗾して乱を起こし、支配地域の蘇、杭、湖、睦州を制圧しようと
 したが唐朝は予期しており戦果はすくなかった。

九月乙丑,李錡の官爵を削り、淮南節度使王鍔を統諸道兵為招討處置使として,宣武、義寧、武昌、
宣歙、江西,浙東軍を率いて討伐させた。
 王鍔は軍人出身であり、李錡の反乱を予期して配置されていた。

十月癸酉,李錡將張子良等は反して、錡を捕らえた。十一月誅殺された。
 浙西将張子良、李奉仙、田少卿等は、宣州攻撃を命ぜられたが、すでに唐朝が反乱を予期して対応
 を取っていることを察し、錡を見捨てて帰朝することにした。子良達は厚く賞された。
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元和元年[正月丁卯に改元] 西暦 806 和暦 延暦25年 4

2020-01-30 10:07:28 | Weblog
九月辛丑,主書滑渙の収賄が発覚し殺された。
 しかし宦官達には処罰はなかった。

九月壬寅,高崇文はまた劉闢軍を鹿頭關に、嚴礪軍は神泉に破った。
闢將李文悅や仇良輔は崇文に降り、辛亥,西川の治所成都を制圧した。
劉闢は捕らえられ、盧文若は自殺した。

西川の幕僚房式、韋乾度、獨孤密、符載、郗士美、段文昌達は降り、京師に送られた。
 韋皐が集めた有能な幕僚達であったので処罰されず憲宗・穆宗時に重用された。

十月甲子,河北五鎭のひとつ義武軍易定節度使張茂昭が入朝した。
 茂昭は父孝忠とともに建中河北の乱にも唐朝に味方していたが、入朝したことはなかった。
 当時、横海軍滄景と義武軍易定の二小鎭は唐朝に近く、成德王士真や幽州劉濟や魏博田季安も
 露骨な反旗を示すことはなかったが、唐朝に帰服しようという状況ではなかった。

十月丙寅,功績により高崇文が西川節度使になった。
 文盲で生粋の軍人である崇文にとっては、行政官で繁雑な政務がある節度使任命はありがた
 迷惑だったかもしれない。
 
十一月戊申,徐州武寧軍節度使張愔が病により交代を求め、東都留守王紹に代わった。また以前
のように濠、泗二州を武寧軍に加増した。軍士は増領を喜び軍乱を起こさず紹を受け入れた。
 貞元十六年[西暦800年]徐泗濠節度使建封が卒すると、軍士は交代の節度使韋夏卿を受け入
 れず、建封子の愔を擁立した。徐州は対淄青平盧の最前線であり、江淮から東都への漕運の防
 衛拠点であるので重兵を置いていたのが仇となり唐朝は制圧できなかった。結果として徐州は
 愔の支配下に、他の二州は取り上げて淮南節度使に所属させていた。愔はよく統治していたが、
 徐州一州では財政的に苦しく、重病でもあるので奉還することになり、工部尚書となったがま
 もなく卒した。

十一月丙辰,宦官内常侍吐突承璀が左神策中尉となった。
 承璀は憲宗のお気に入りで、やっと軍權が旧德宗勢力から憲宗に移ったということである。
 德宗中期より、宦官が神策中尉となり親衛軍を支配し大きな権力を得るようになった。偏狭な
  性格の德宗皇帝が建中年間に諸将の反乱を受け、軍人に不信感を抱き、親任する宦官達を起用
 したことによる。
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元和元年[正月丁卯に改元] 西暦 806 和暦 延暦25年 3

2020-01-29 10:07:26 | Weblog
五月庚辰,宰相鄭餘慶が罷免された。
 事務官の主書滑渙が宦官劉光琦と結託し専権し、宰相杜佑、鄭絪等はこれに媚びていたが、
 餘慶は同ぜず渙を叱責排除したため、、宦官勢力により罷免された。

六月癸己、冊太后により大赦。

六月丁酉,高崇文は鹿頭關に劉闢軍を破り、癸卯,漢州を収復した。
 山西嚴礪もまた劉闢軍を綿州石碑谷に破った。

閏六月壬戌朔,淄青平盧軍節度使李師古が薨じた。
 淄青平盧軍は山東十二州を領する大藩で、正己→納→師古と三代にわたり自立していた。師古もまた不順
 であったが、唐朝はその勢力わ怖れて侍中に任じて優遇していた。師古は弟師道と不和であったので、
 自分の死後に師道が継承することを嫌っていたが、幕僚達は擁立することにした。

七月癸丑,高崇文は劉闢軍を玄武に破った。

八月丁卯、皇子七人を親王に封じた。

八月己巳,李師道を平盧留後知鄆州事に任じた。
 宰相杜黄裳は劉闢討伐が完了していないため、師道の継承を上奏し、憲宗はやむをえず認めた。
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元和元年[正月丁卯に改元] 西暦 806 和暦 延暦25年 2

2020-01-28 10:00:28 | Weblog
二月、山西節度使嚴礪は西川劉闢下の劍州を陥し、刺史文德昭を殺した。

三月丙子,高崇文は東川の治所梓州を回復した。
 劉闢軍は戦わず撤退した。捕らえられていた前節度使李康は解放された、通鑑では責任を問われ処刑され
 たとなっているが、旧紀では雷州司馬に左遷されたことに。旧紀では嚴礪が陥したことになっているがこ
 れは上奏しただけであろう。

三月丁丑,劉闢の官爵を削った。
 正式に叛臣ということになったわけである。単なる形式だが。

三月辛巳,夏綏節度使韓全義が入朝したあとは将軍李演が任ぜられた。しかし全義の甥楊惠琳は従わず自立
 した。朝廷は河東、天德の軍を派して討伐に向かわせていたが、いち早く夏州兵馬使張承金が惠琳を殺し
 て帰伏した。

三月戊申,隴右經略使秦州經略使劉澭を保義軍節度使に昇格させた。
 領州は秦州のままである。河北の幽州節度使劉濟の弟で、兄と争い麾下二千を引き連れて唐朝に帰服して
 いた。唐朝は有能な澭を対吐蕃対策として秦州に置いており、今回の劉闢討伐も澭が担当するのが当然と
 思われていた。この処置は澭の不満を慰撫するためである。澭が起用されなかったのは朱泚の前例を怖れ
 たのかもしれない[德宗の建中年間、幽州節度使朱泚は入朝し、対吐蕃防衛にあたっており、西川への対
 吐蕃防衛にも出動した、しかし四年反して京師を陥し、德宗は奉天城に遁走する事態になった。]

四月丁酉[通鑑]/三月壬辰[旧紀],高崇文は東川節度使となった。
 韋丹は李康の後任として節度使となっていたが、崇文軍に根拠地を与えるべきだと上奏して認められた。
 丹は晉絳観察使に転じた。
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元和元年[正月丁卯に改元] 西暦 806 和暦 延暦25年 1

2020-01-27 10:00:51 | Weblog
正月丙寅、改元[永貞→元和]
 通常即位の翌年改元する。

正月甲申,上皇[順宗]が興慶宮で崩御した。

西川劉闢は節度使を与えられたことに満足せず、東川節度を同僚の盧文若にすることを要求し拒否されると、
東川節度使李康を梓州に攻囲した。

戊子,憲宗は激怒し、強硬派宰相杜黄裳、翰林学士李吉甫の献言を入れ、長武城に屯する左神策行營節度使
高崇文を主将として神策軍を率いて劉闢を征討させた。
 当時秦州劉澭や范希朝など高名な将軍は何人もいたが、黄裳は敢えて生粋の武人である崇文を推薦した。
 これは朝廷政治のしがらみを考慮せず、ただ征討に専念せよというねらいであった。崇文は命を受けて即
 日全軍を率いて出征した。

その頃劉闢軍は梓州を陥し、節度使李康を捕らえた。
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貞元二十一年/永貞元年 西暦805 和暦 延暦24年 7

2020-01-26 10:01:59 | Weblog
十一月壬申,宰相韋執誼が崖州司馬に左遷された。
 叔文の党であったのでいずれ左遷される運命であった。杜黄裳の婿であるので
猶予されていた。前回左遷された叔文党派はさらに辺地へ左遷されていった。

十一月戊寅,新任西川節度使袁滋が吉州刺史に左遷された。
 劉闢の討伐に反対で、消極的で攻撃しようとしなかったため罷免された。

回鶻懷信可汗が卒し、その嗣子である騰裡野合俱錄毘伽可汗が立った。
 唐と回鶻は同盟関係にあり、この時期は安定した関係になっていた。

十二月己酉,やむなく新任給事中劉闢[不受命]を西川節度副大使知節度事とした。
 衆論が一致しないため、德宗時代の姑息な政策にもどり現状を追認した。

 しかし強硬派の韋丹を東川節度使として劉闢を牽制することにはした。

十二月,翰林學士鄭絪を宰相とした。
絪は政策がなく、宰相の員数として黄裳の伴食として存在するだけであった。
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貞元二十一年/永貞元年 西暦805 和暦 延暦24年 6

2020-01-25 10:04:00 | Weblog
八月己未,宰相袁滋を劍南東西川山南西道安撫大使とした。
 自立した西川劉闢は追認を求めた。唐朝は新帝が即位したばかりでなかなか方針
 が統一できず、当面宰相袁滋を派遣して様子をみることとした。
 当時の宰相は賈耽は德宗以来の姑息な傍観派、杜黄裳は強硬な鎮圧派、袁滋は融
 和派、韋執誼は失脚寸前で発言権のない状況であり、憲宗は即位したてで決断で
 きなかったようである。

八月癸亥,尚書左丞鄭餘慶が宰相となった。
 餘慶は正論を好む強硬派で討伐派が増加した。

九月己卯,王叔文派の少壮官僚韓泰、韓曄、柳宗元、劉禹錫、程异を左遷した。
 德宗の緩んだ治世に耐えきれず、有能な若手官僚が叔文についていたが左遷される
 ことになった。これより長く貶せられ、劉禹錫や程异のように再び起用されるもの
 もいたが、詩人柳宗元のように貶地で卒することななったものもいた。

十月丁酉,宰相賈耽が卒し、姑息派はまた減少した。

十月戊戌,安撫使袁滋を劍南西川節度使とし、劉闢の継承を認めず給事中として召還した。
 黄裳や餘慶など強硬派が強くなり、融和派の袁滋に解決を押しつけた。給事中は
 位階は低いが要職であり、文官として本来の劉闢の立場からは栄転である。
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貞元二十一年/永貞元年 西暦805 和暦 延暦24年 5

2020-01-24 10:08:27 | Weblog
八月庚子、皇太子[以降憲宗という]が即位し、順宗は太上皇となり、興慶宮に遷った。
改元して「永貞」となり、皇太子の母良娣王氏は太上皇后となった。
 順宗は元和元年[806年]正月に崩御する。

八月癸丑,劍南西川節度使韋皋が卒し,行軍司馬劉辟が自立する。
 西川は唐にとっての要地であり、安史の乱でも避難の地となり、
 奉天の変でも後背となった。また唐末でも避難の地となった。
 しかし永泰元年[765年]に武将崔寧が自立し、大暦十四年
 [779年]に寧が帰順して一旦回復したあと、興元元年[754年]
 に文官韋皐が赴任し、対吐蕃防衛で大きな功績[南詔と同盟し、
 吐蕃を大破し、失地を回復し強護な防衛戦を築いた]をあげて
 いった。そして引き続き吐蕃防衛の為と称して租税を上納せず、
 地方官人事を専権していった。姑息な德宗皇帝はなにもできず
 見守るだけであった。閉塞した朝廷とは違い、威權のある韋皐
 の下、西川には多くの若手俊英官僚が集まっていった。劉闢は
 その筆頭格であり、盧文若、房式、韋乾度、獨孤密、符載、
 郗士美、段文昌など後日にも活躍する人材を輩出していた。

八月壬午,奉義軍安黄節度使伊慎入朝し、十二月に右僕射となる。
 伊慎は対淮西[呉少誠]対策として、南部戦線の安黄二州に設
 置された奉義軍節度使の武将である。安黄二州は鄂岳觀察使韓皋
 が統合することになったが、安州はこの後も慎の子宥が安州留後
 として継続統治、やっと五年十一月に新任觀察使郗士美が、宥母
 の喪を理由に解任した。
 右僕射は高官であるが宰相ではなく名誉職である。

八月辛卯,夏綏節度使韓全義入朝する。
 韓全義は神策軍出身の武将で、宦官と結託し、淮西呉少誠討伐の
 主帥となったが、殷水で壊滅的な敗北をして逃げ帰った。宦官達
 は自分たちの責任もあったため、直接夏州に帰任させてごまかし、
 無気力な德宗皇帝は実情を知らなかった。德宗以外はそれを知っ
 ていたため、当然憲宗もまた知っていた。全義は懼れて入朝し、
 太子少保致仕として処罰されることだけは避けて引退することに
 なった。しかし甥の楊恵琳を夏州留後としており問題は続いてい
 る。
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貞元二十一年/永貞元年 西暦805 和暦 延暦24年 4

2020-01-23 10:06:00 | Weblog

六月癸丑,西川節度使韋皐、荊南節度使裴均、河東節度使嚴綬などが
上表して、皇太子への譲位を求めた。
 当然地方官が順宗の病状の実態を把握しているはずはなく、叔文に
 反対する宦官や官僚の画策によるものである。

宰相韋執誼は形勢不利とみて、派より離脱を図り叔文と争うことが多
くなった。

六月丁巳,叔文は母の重病→死により官を去り喪に入った。
 反対派は皇太子の擁立を図って蠢動し、焦った叔文は宰相となり、
 軍を掌握しようとしたが、宦官勢力は重病の順宗に取り次がす却
 下させた。叔文派王伾・陳諫等は一掃されることになった。
 
七月癸已,河北五鎭の一つ橫海軍節度使程懷信が卒し、子の執恭が
自立した。
 横海軍は滄景二州のみを領する小鎭であるが程日華→懷直→懷信
 と自立してきた。河北の藩鎭としては義武軍と同様に反唐朝姿勢
 は弱い。

七月乙未,皇太子が監國することになった。
 意識のない順宗の病状に乗じた宦官俱文珍等の画策である。

太常卿杜黄裳、左金吾大將軍袁滋が宦官勢力に推されて宰相となり、
德宗以来の宰相鄭珣瑜や高郢は解任された。
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貞元二十一年/永貞元年 西暦805 和暦 延暦24年 3

2020-01-22 10:00:53 | Weblog
四月壬寅、弟二人や子十九人を王に封じた。
 唐では皇子[親王]は玄宗初期以降、正規の官職にはつかず、地方
 赴任もなく、封地もなく[これは唐初より]、税金に頼る京城の遊
 民と化した。王府の属官も単なる名誉職となり満足に充足されなか
 った。宦官が日常の世話をし、系図上でも孫以降はろくに記載も無
 い。そのため唐末の一例を除き、擁立されることもなく王朝の消滅
 ととも に簡単に消え去ることになった。
 但し、初期の親王の後継である嗣王は例外的に正官に任用されること
 もあった。[嗣虢王.嗣薛王.嗣覃王など]

五月辛未,右金吾大將軍范希朝を左右神策京西諸城鎮行營節度使に任じ
た。
 王叔文らは、親衛軍である神策軍を支配する宦官の兵権を奪をうと画
 策した。そこで当時の名将と呼ばれた希朝に副官として同派の韓泰
 を附け諸軍を奉天城に招集した。しかし幹部宦官はその計画を察し
 て、諸軍に招集に応じないように命じた。結果として奉天には軍は
 集まらず、宦官達の反感をかうだけになった。

五月辛卯,王叔文は戸部侍郎となり、判度支、鹽鐵轉運副使を兼任して財政権を握った。
 しかし宦官俱文珍等は画策し、順宗皇帝との連携手段である翰林学
 士を削った。狼狽した叔文派は強請して「三五日一入翰林」の名を
 得た。
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貞元二十一年/永貞元年 西暦805 和暦 延暦24年 2

2020-01-21 12:27:27 | Weblog
二月辛酉,京兆尹道王實を更迭した。後任は王權。

 實は圧政をしいていたので、庶民への人気取りである、権限が大きい京兆尹を自派で固めた。

壬戌、叔文は左散騎常侍翰林待詔、伾は起居舎人翰林學士等、自派の
要職への登用を行った。
 
甲子、大赦が行われ、不要な役人・宮女の整理、減税、貢献の廃止等が
矢継ぎ早に布告された。

 有力な節度使[義武軍張茂昭・西川韋皐・淮西吳少誠等々]への加官
 も実施された。
 偏執頑迷な德宗が処罰後に長く赦さなかった陸贄、鄭餘慶、韓皋、陽
 城等も赦され召還された。

三月丙戌、浙西觀察使李錡の諸道鹽鐵転運使兼任が解かれ、宰相杜佑が
就任した。

 中央への利権の回収であり、杜佑は傀儡で実権は副使の王叔文が握っ
 た。李錡は極めて不満であったが、鎭海軍節度使に格上げされたので
 我慢していた。

癸巳,順宗の長子廣陵郡王純を皇太子とした。

 順宗の病状は悪化し、宦官や官僚は憂苦し、また王叔文一党の専権を
 嫉視した宦官幹部の俱文珍、劉光琦、薛盈珍は中堅でしかない李忠言
 を圧伏し、不満派の翰林学士鄭絪、衛次公、李程、王涯を使嗾して立
 太子させた。

 当時、宰相執誼は叔文の走狗であり、賈耽・高郢・鄭珣瑜などは無力
 であった。
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貞元二十一年/永貞元年 西暦805 和暦 延暦24年 1

2020-01-21 11:32:33 | Weblog
正月 即位後27年を迎えた64歳の德宗皇帝は重病となった。
ところが45歳の皇太子もまた重病で見舞いをすることすらで
きない状況であった。

癸已、德宗は太子の状況を悲歎しながら崩御した。

 当時の環境は
 官僚は、德宗晩年の停滞し姑息な治政に辟易し、特に皇太子周辺の若
 手官僚達は代替わ りの期待しているが、皇太子の病状には動揺して
 いた。
 河北や淄青・淮西など藩鎭は德宗の無為無策な政策に安住し特段の動
 きはなかった。
 他の方鎭は長期の在任が続き停滞していた。
 唐の財政はやや回復し再び軍事行動が可能になってきていた。

皇太子の継承に対して病状を案じた宦官等より異論があったが、遺詔を奉じた翰林學士衛次公はこれを威圧、しかし動揺が広がったので、皇太子は病状をおして九仙門に出御し、軍幹部を謁見し鎮静化させた。

丙申、皇太子は太極殿に即位[以降順宗とする]し、姿をみて群臣・兵士は安堵した。

 しかし順宗の病状は口もきけず寝たきりで、宦官李忠言と昭容牛氏が
 介助しなければ政務はとれなかった。二人と連携した翰林待詔王叔文
 王伾は、韋執誼や韓泰、柳宗元、劉禹 錫など少壮官僚とともに積極
 的な新政を進めようとしていた。

二月、淄青平盧節度使李師古や淮西節度使呉少誠は、喪に乗じて東都をうかがったが、宣武節度使韓弘は同ぜずこれを阻止した。

辛亥、韋執誼が宰相となった。
 黒幕の王叔文・王伾はその身分上[正規の官僚出身ではなく、叔文は
 囲碁等をつうじて順宗の信任を得て、相談役となっていた]、表には
 でれないので傀儡として少壮官僚の筆頭格である執誼を宰相とした。
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test

2020-01-02 00:00:00 | Weblog
link-1104
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