唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

唐朝の皇太子 その12

2018-03-18 21:42:44 | Weblog
小心な皇太子が続きます 代宗

俶は肅宗の長男であり、至徳二年天下兵馬元帥[実質の統帥は副元帥
郭子儀]として安慶緒を討ち京師・東都を回復します。生真面目で小
心な彼は、飾りとしては収まりがよく、翌乾元元年には皇太子となり
ます。宦官李輔國や張皇后に挟まれ大きな力は持っていません。
元年戦況が好転し史朝義が追いつめられていく状況で肅宗が重病にな
ります。張皇后は対立していた李輔國を追い落とすために皇太子を呼
びますが、彼は懼れて逃げ回ります。結局張皇后は越王を立てて争い
ますが敗れて殺されます。輔國は皇太子を即位させて実権を握り
「あなたは禁中にいておとなしくしておればよい、政治は私がやりま
す」と言い放ちます。代宗は不満で宰相元載や宦官程元振と組み、解
任して暗殺させました。まだ少しは骨があったとみえますが、その後
も宦官達の傀儡ですが。

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翰林学士承旨年表をアップしました。

2018-03-07 11:45:40 | Weblog
玄宗時代に設定された翰林院学士は時代と共に重要性が増し
憲宗時代以降はそのトップに翰林院学士承旨とみられる役割
が見られるようになった。皇帝の詔勅起草を司る翰林院の責
任者で有り、まもなく次代宰相の登龍門となって「内相」と
称せられるようになった。一部不明な所はあるが唐滅亡まで
ほぼ継続して任命されている。
唐史資料集
唐翰林学士承旨年表に任命年表をExcelファイルでアップしました。
まだまだ誤記があるとは思いますのでご指摘下さい。
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唐朝の皇太子 その11 肅宗

2018-03-06 19:01:04 | Weblog
非常時とはいえ即位[肅宗]したのだから・・・いいか

玄宗は自分の失態により無実の皇太子達を殺したことをうすうす感じています。それが四月です。そしてすぐ後十二月に寵愛する武惠妃が死に、なんのために・・・という思いで一杯でした。その後迷った末、開元26年宦官高力士の勧めで年長の忠王璵を皇太子としました。宰相李林甫は不満でいろいろと策動しますが。小心な璵を力士達が擁護し守り抜きます。しかも武惠妃の後に寵愛された楊貴妃には子が生まれません。そのため安禄山の乱が起きる天寶14年まで位を保つことができました。乱により玄宗は山西から劍南に遁走しましたが、皇太子は朔方へ別れて防戦を命じられました。ろくに取り巻きも与えられなかった璵は、北へ奔り朔方節度使の幕僚達に擁立されて即位します。もともと真面目で小心なだけですから宦官[李輔國]や女[張妃]と、好機とみて活動する中級官僚の裴冕・杜鴻漸等の傀儡として揺れ動くわけです。
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唐朝の皇太子 その10

2018-03-05 19:58:29 | Weblog
武氏はとことん唐に祟ります

玄宗というと、開元の治とか楊貴妃で有名です。韋后一派を誅殺したり、太平公主一派を
殲滅したりする時には英明ですが。他は女[武惠妃や楊貴妃]や李林甫・楊國忠などの臣
下に惑わされる暗君です。宦官や安禄山といい唐滅亡の原因を作った人物です。
起義を助けた正妻の王皇后には子がなく、開元三年趙妃の生んだ瑛が皇太子となります。
彼は異母弟鄂王・光王たちとも仲がよく、さして問題のない人物でした。
ところが玄宗は武氏一族の武惠妃を寵愛し、その子を立てようとする妃の讒言を信じて
王皇后[極めて評判がよかった]を開元十二年に廃位し、開元二十五年宰相李林甫と組
んで皇太子以下の三人を徒党を組んで謀叛を企てたとして誅殺します。しかし天罰か武
惠妃の生んだ子どもは次々と夭折し、残った壽王[楊貴妃の前夫]は幼すぎました。
そして時を待っている間に武惠妃は頓死してしまいました。
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唐朝の皇太子 その9

2018-03-04 09:40:47 | Weblog
蜂起した皇太子は彼だけ 重俊

神龍元年無能な中宗皇帝が復位します。愛妻韋后には実子重潤がいましたが
長安元年に武后によって妹夫妻と共に誅殺されてしまいます。単に不満を口
にしただけですが、武后は赦しませんでした。
そのため復位後、神龍二年七月韋后の子ではない衛王重俊が皇太子となりま
す。これには韋后の実子安楽公主[もう男子はいない]は不満で、義父武三
思や夫崇訓と組んで、事ごとに讒言・迫害をします。
中宗はただ揺れ動き決断できないであいまいな態度を示します。
重俊は不安であり、反武氏系の武将達と結びます。
景龍元年七月重俊は先制攻撃を加え、武三思等を殺害しますが、中宗皇帝を
害するつもりはなく、反って韋后等の指嗾を受けた軍に背かれ敗死します。
睿宗即位後皇太子号を復されます。



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