唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

河北の軍閥 その7 建中-興元の乱4 大燕皇帝朱泚

2018-07-24 12:11:49 | Weblog
大暦7年幽州節度使朱希彩を殺して自立した朱泚は、唐朝に心を寄せ、大暦9年には兵を率いて入朝し、対吐蕃防衛にあたりました。留守は弟滔が守っています。
そして劍南への吐蕃侵攻や涇原兵乱の鎮圧にもあたり、鳳翔隴右節度使を兼任しています。率いてきた幽州兵は各鎭に配置され、神策諸軍にも信望が高かったのです。
ところが弟滔の反乱により兵権を解かれ、太尉として位は高いですが幽閉の状態で鬱々としていたのです。

泚とともに反旗を翻した諸将は
検校司空同平章事李忠臣[宰相として遇されていまが、兵権が欲しくて鬱々としていました]
司農卿段秀實[反乱は本意では無く、泚を殺そうとします]
太僕卿張光晟[回紇を破った功績を認めてもらえず憤懣を抱いていました]
涇原節度使姚令言

涇原のみならず、關内の神策諸軍のかなりが朱泚の蜂起に応じます。
反対に奉天城に逃亡した德宗皇帝には支持が集まりません。
唯一期待した鳳翔節度使張鎰は部下の李楚琳に殺されてしまいます。

德宗は行在都虞候渾瑊とともに奉天城に籠もりますが、朱泚が大軍をもって攻撃し、救援軍も撃破され、落城の危機に瀕します。唐朝は滅亡寸前です。

河北に派遣されていた朔方節度使李懷光・神策節度使李晟は、朱泚の乱を聞きただちに京師に戻ろうとします。義武軍節度使張孝忠・昭義節度使李抱眞・河東節度使馬燧・深趙觀察使康日知が残って朱滔・王武俊・田悦と対峙するのです。滔は南下して河陽・東都を窺いますが、そのためには、張孝忠・康日知をかたづけなければいけません。それに反乱連合も固めなければいけないわけです。
朱滔と李希烈は北南の覇王、田悦・王武俊・李納は王を名乗り、王府を開くことになりました。

李懷光は軍を率いて急行して入關し、危機に瀕した奉天城に迫り、朱泚を魯店に大破します。これにより包囲が解け、泚は京師に引き籠もります。

淮西李希烈は北上し、援軍が来ない永平李勉・哥舒曜を破り、ついに汴州・鄭州を陥します。東都は危機に瀕します。

最悪の時期は脱しましたが、まだまだ危機が続くわけですが、翌興元元年正月にまたまた転機が訪れるのです。
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河北の軍閥 その6 建中-興元の乱3 涇原の乱

2018-07-22 18:11:44 | Weblog
驍將淮西李希烈は汝州を落とし、荊南や鄂岳など南部にも侵攻しますが。主攻は経済の中心地汴州を目指します。
唐朝は哥舒曜[翰の子]を東都汝行營節度使として防戦しますが戦況は極めて不利です。
淄青李納には宣武劉洽が専念します。こちらは膠着です。
幽州朱滔は回紇など塞外の蕃族を味方に付け、朔方李懷光・神策李晟・河東馬燧・昭義李抱眞・義武張孝忠を圧迫します。
全般的に反乱軍優勢という状況になってきました。

唐朝は状況打開のために皇子舒王謨を荊襄行營元帥として、李希烈を制圧することをねらい、關内の諸軍を総動員し、吐蕃の応援をも求めます。
しかし偏狭な德宗皇帝は財政難もあり、動員した諸軍の待遇をケチります。
建中4年10月、動員された諸軍のうち姚令言に率いられた涇原節度軍が冷遇に激怒して反乱し京師に乱入し、德宗は奉天城に逃亡します。德宗の吝嗇が招いた結果でした。
京師を占拠はしたものの姚令言は叛意はなく、また総帥となる器量もありません。そこで弟滔の反乱の巻き添えで兵権を奪われていた朱泚を擁立することにしました。
唐朝はこのあと滅亡の危機に瀕します。
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河北の軍閥 その5 建中-興元の乱2 朱滔・王武俊・李希烈の乱

2018-07-18 09:58:42 | Weblog
德宗は梁崇義・李惟岳を誅し、田悦・李納を追いつめ覇権回復に燃えていましたが、その背後では諸鎮の憤懣がつのってきました。

①.梁崇義を討伐したのに領土的な見返りはなく、さらに李納討伐を命ぜられた淮西李希烈。彼は逐った李忠臣が任ぜられていた汴州が欲しかったのです。

②.三鎭のうちで唯一唐朝に附き、惟岳を圧迫して反乱をおこさせた幽州朱滔。彼は恩賞として隣接の深州等を求めていましたが、遠隔地の徳・棣州を与えるという内示でした。

③.旧成徳は張孝忠に易定滄節度使、康日知に深趙都団練観察使、惟岳を誅した王武俊に恒冀都団練観察使に三分割されました。武俊は自分が功績一番だと任じているのに、馬鹿にしている日知と同待遇で、孝忠より下であるのに不満でした。

田悦や李納は滅亡を免れたいため、幽州平盧の古いつながりを強調し必死に支援を求めました。

建中3年4月朱滔は王武俊[6月反]とともに反します。京師にいる兄朱泚には密使を送りますが、これは途中で捕縛されます[泚には反するつもりはありませんでした]

そして李納から唐朝に帰服していた徳棣二州を制圧し、6月には唐朝軍を連篋山に大破します。

[連篋山の戦い]
唐朝 朔方李懷光、河東馬燧、河陽李芃、昭義李抱真
反乱 幽州朱滔、成德王武俊、魏博田悅 つまり河北三鎮が共同したのです。

康日知は趙州に、張孝忠は易州に籠城して唐朝方に残ります。

そしてついに12月淮西李希烈が反し汴州[永平李勉]を攻撃します。

反乱軍の情勢としては
 朱滔は河北の覇権を、李希烈は汴州・東都など河南の覇権を求めて戦意旺盛
 王武俊は旧成德の、李納は旧淄青の継承を求めているだけ。
 田悦はうち続く敗北によってすっかり弱体化  という所です。

唐朝軍は朔方・河東・昭義軍は強いのですが、永平の李勉[文官]は弱く、宣武[劉洽]に支えてもらっている状況です。また財政的には破綻状態でした。
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河北の軍閥 その4 建中-興元の乱1 成德李惟岳・山東梁崇義

2018-07-14 14:12:32 | Weblog
大暦14年2月魏博節度使田承嗣が卒し、甥の悅が継承しました。唐朝は姑息な代宗の末期で討伐する気力はなく、悦もまた恭順を装いましたので一応継承を許されました。
また淮西節度使では李忠臣は貪殘好色で、武将の妻に手を出したりしたため族子の李希烈に逐われましたが功績が高いため入朝して宰相となり、希烈は汴州を取り上げられただけで継承を許されました。
その他幽州朱泚と滔の兄弟は唐朝に忠誠を誓い、成德李寶臣・淄青李正己は老齢?で反抗の気力はありませんでしたので平穏が保たれていました。

ところが大暦14年5月代宗が崩御し、若いやる気あふれた德宗が即位すると新政を開始し、藩鎭への圧迫を強めていきました。
そして建中2年正月成德節度使李寶臣が亡くなりました。寶臣は子の惟岳に継承させるために、邪魔になる有力諸将を除こうとしていたため、軍内には緊張感が強まっていた最中です。
魏博田悦は惟岳の継承を求めますが、德宗は認ませんので、惟岳とともに反します。

討伐軍 ○は唐朝軍
幽州節度使朱滔
淄青節度使李正己
○永平軍節度使李勉
○朔方節度使李懷光
○神策都戰候李晟
○河東節度使馬燧
○昭義軍節度使李抱真
○河陽節度副使李芃

反乱軍
成德 李惟岳
魏博節度使田悦

同時に山東節度使梁崇義も反しました。山東は安史時に何度も反乱を起こしましたが、來瑱がうまく鎮撫して押さえました。ところが宦官勢力は瑱を誣告して陥れ殺しました。それに憤慨した武将崇義が自立し、事ごとに反抗していましたが、代宗はただ慰撫していました。崇義も德宗になって居づらくなり孤立した状態を懼れて魏博・成德に連動したのです。德宗は淮西李希烈に討伐を命じました。

討伐軍
淮西節度使李希烈
劍南西川節度使張延賞
東川節度使王叔邕
山南東道節度使賈耽
荊南節度使李昌巙
淮南節度使陳少游

6月に討伐軍[希烈]が始動し、8月に包囲攻撃が始まりました。驍將李希烈は猛烈に攻撃してその月のうちに崇義を敗死させました。希烈は山東を併合したい希望でしたが、德宗は許さず使相の地位を与えただけであり、希烈は憤懣を抱きました。

一方、7月魏博・成德征討軍は魏博田悦を臨洺に大破しました。悦は勇将ですが戦闘には弱いのです。
まずいことに淄青李正己がこの月に亡くなり、子の納が自立しました。当然德宗はこれを認めることはできず包囲網が崩れていくことになります。

8月幽州朱滔は南下して成德を攻めます。成德の勇将易州刺史張孝忠はこれに降り、唐朝は孝忠を成德節度使とします。

10月淄青の正己之從父兄の徐州刺史李洧が降ります。魏博・淄青軍はこれを攻撃しますが敗北します。

李納討伐軍
宣武節度使劉洽
神策都知兵馬使曲環
滑州刺史襄平李澄
朔方大將唐朝臣
淮南節度使陳少游
そして淮西李希烈も動員される予定です。

3年正月 討伐軍は洹水に魏博軍を大破し、田悦は魏州に逃げ帰ります。

成德[康日知.楊榮國.楊政義]や淄青[李長卿・李再春・李士真]の諸将は次々と投降します。決定的に唐朝軍は優勢となっていきます。

閏正月、成德將王武俊は、李惟岳を襲撃して殺して降ります。

これによって成德の乱は収束し、孤立籠城する魏博田悦と、多数の部下に背かれた淄青李納の立場は風前の灯火になり、唐朝の覇権が確立するかに見えました。
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河北の軍閥 その3 田承嗣の乱2

2018-07-10 09:53:46 | Weblog
大暦9年11月入朝していた汴宋節度使田神功が卒し、弟神玉が暫定的に継承しました。ところが11年5月その神玉が卒し、武将の李靈曜が田承嗣の支援を受けて自立したのです。唐朝は狼狽し、一旦はこれを認めようとしますが、増長した靈曜の要求に応じきれず討伐することになります。そのため魏博征討の包囲網は破綻しました。

李靈曜征討軍
◎淄青節度使李正己
◎淮西節度使李忠臣
△永平節度使李勉
△河陽三城使馬燧
△淮南節度使陳少游
◎は汴宋と同じ平盧系統、△は唐朝麾下
淄青李正己は簡単に鄆、濮二州を制圧しますが、永平李勉は承嗣甥悅の率いる魏博軍の強襲を受けて敗北します。
靈曜は宋州包囲に手間取り、仲間割れもあり、淮西・河陽軍に敗北を重ね、汴州に籠城します。
悦は勢いに乗って、永平・淄青軍を大破しますが。淮西李忠臣に大敗して敗走し、孤立した霊耀は捕らえられ、汴宋の乱は終結しました。
汴宋の大部分は淄青李正己と、淮西李忠臣に分割され唐朝は得るものがありませんでした。
再び田承嗣は落胆して和を求め、軍費の負担に苦しむ唐朝はこれを12年3月に赦します。
承嗣は相衛洺貝の四州を得ますが、德瀛二州と多数の将兵を失い、これ以降は消極的になり、大暦14年に卒します。
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河北の軍閥 その2 田承嗣の乱1

2018-07-09 21:53:53 | Weblog
大暦8年正月、河北軍閥の一員相衛邢洺貝磁六州節度使薛嵩が卒しました。父が唐の名将であり、永平令狐彰と並んで、あまり唐朝に反抗的でなかった嵩ですが領土奉還までは考えていませんでした。嗣子の平は12才であり、継承を望みませんでしたので、叔父の崿が継承しました。ところが統制力はなく、諸将は裴志清を頭に魏博德滄瀛節度使田承嗣に傾きました。田承嗣は過大な軍備の経費に苦しみ、領土拡大を画策していたのです。
大暦10年崿は逐われて、承嗣は相衛六州を併呑しました。当然唐朝は併呑を認めません。周囲の節度使に命じて承嗣を伐たせました。
征討軍は
△成德節度使李寶臣
○淄青節度使李正己
△幽州節度留後朱滔
○淮西節度使李忠臣
○汴宋留後田神玉
◎河東節度使薛兼訓
◎澤潞節度使李抱玉
◎昭義軍節度使李承昭
◎永平軍節度使李勉です。[◎は唐朝、○は平盧、△は幽州]
つまり、承嗣は孤立していたのです。
初戦はうまくいきましたが、敗戦が続き承嗣は弱気になり講和を求め、
大暦11年2月には降伏することになりました。
征討軍の攻撃は手ぬるいものでしたが、もともと同じ仲間の幽州や
成徳、また近い関係の淄青や汴宋からの孤立に、配下の将兵は次々に
裏切って仲間に降伏しはじめたのです。
しかし
11年5月新たな事態が発生し、承嗣は再び反旗を翻すのです。
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河北の軍閥とは その1

2018-07-09 19:44:19 | Weblog
従来の唐史だと、安史の乱以降河北に軍閥が形成され、一致して唐朝に反抗してその統治は及ばなかったとされる。果たして河北等の藩鎭は一致していたのだろうか。
 ①.大暦年間の魏博田承嗣の乱
 ②.建中年間の奉天の乱
 ③.元和年間の成徳王承宗の乱
 ④.長慶年間の幽州朱克融・成徳王廷湊の乱
 ⑤.太和年間の横海李同捷の乱
 ⑥.會昌年間の昭義劉稹の乱
 について主に河北三鎭の動向を中心にこれから検討してみる。

 尚①[大暦10年]以前の藩鎭の状況としては
  幽州系統 幽州[朱泚・朱滔]・魏博[田承嗣]・成徳[李寶臣]
       相衛[薛嵩]・永平[令狐彰]の五鎭が河北を分割。
  平盧系統 淄青[李正己]・汴宋[田神功]・淮西[李忠臣]の三鎭が河南
  の大部分を分割していた。
  他に山東に梁崇義がいた。
  但し、大暦8年永平の令狐彰は卒し、唐朝に領域を返上した。    
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ご無沙汰報告

2018-07-04 19:46:47 | Weblog
近頃なにをしているのかというと、また人名録を作っています。
年表[紀]と伝記[伝]の比較対象が面倒なので
紀の部分の人名をリスト[状況も付して]アップして、Excel化しています。

旧唐書・新唐書・資治通鑑・隋書から抽出
現在、大業9年~貞觀13 が完成、当然 天祐四年もしくは後梁開平年間まで
いくつもりです。いつ完成するか・・・

そして新旧伝記部分と會要・全唐文・冊府元亀等を付記してと

いちおう貞觀23年までできあがれば、人名でソートして一度アップします。
その後 高宗・則天・中宗睿宗・玄宗と進んでいきます。中途で何度もアップする
予定です。参考にしてください。
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