唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

乾元三年/上元元年  西暦760年

2020-06-11 10:00:11 | Weblog
乾元三年/上元元年  西暦760年
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正月、黨項等羌吞噬邊鄙,將逼京畿,乃分邠寧等州節度為鄜坊丹延節度。
唐朝の辺境防備が崩壊したのを知った蕃族達は侵入し始めました。唐朝はそれに対して邠寧/鄜坊などに節度使を置き、名目上郭子儀を統帥としましたが、実際の兵力は無いも同然でした。

四月戊申,山南東道將張維瑾反,殺其節度使史翽。
己未,來瑱為山南東道節度使,以討張維瑾。
また山東で軍乱が起こりました。しかし有能な來瑱が赴任すると將士はたちまち帰順し、その指揮に従いました。

六月乙丑,鳳翔節度使崔光遠及羌、渾、黨項戰於涇、隴,敗之。乙酉,又敗之於普潤。
辺境が崩壊し始めています。もう京師周辺まで蕃族が入ってきているのです。

六月、李光弼及史思明戰於懷州,敗之。
実際は敗戦です。

七月丁未,聖皇天帝遷於西内。
自信が無く優柔不断な肅宗は、玄宗が復位を謀るのではないかと疑い、宦官李輔國の指嗾に乗って玄宗を押し込め、側近を追放しました。輔國の独断とされていますが、実際は肅宗がしたものでしょう。正史では不孝といえる事実を隠ぺいしています。

十一月甲午,揚州長史劉展反,陷潤州。丙申,陷昇州。
壬子,李峘、淮南節度使鄧景山及劉展戰於淮上,敗績。
肅宗は統制がとれない河南の諸軍のうち、最悪の宋州刺史劉展をなぜか淮南節度使に任用しました[展本人ですら不思議がります]。展軍は富裕な淮南に入れると期待して南下すると、李峘・鄧景山[文官です]等は阻止しようとしました。しかし展に一蹴され敗走しました。安史の乱で荒らされなかった江淮の地が荒廃します。肅宗は無能の極みと言えるでしょう。
どうしようもなくなった文官達は、展の同僚の田神功を呼び寄せます。こちらも展よりは少しましという程度のヤクザな軍隊です。
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乾元二年 西暦759年

2020-06-10 10:01:08 | Weblog
乾元二年 西暦759年
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三月壬申,九節度之師潰于滏水。史思明殺安慶緒。
唐朝軍は大軍でしたが統制がとれておらず、精鋭の史思明軍に大敗し潰乱しました。
史思明は禄山殺害を責め慶緒以下高尚、孫孝哲、崔乾祐を殺しました。
史思明軍は懷州まで南下し再び河北全域を制圧しました。

三月乙未,苗晉卿、王璵罷。李峴,李揆,第五琦:同中書門下平章事。
失敗の責任を取らされ晉卿、璵が罷免されました。新相では峴が主で、琦は財政担当です。

四月、史思明自稱大燕皇帝,改元順天。
思明は燕京[幽州]で安禄山と同様に「大燕帝国」皇帝に即位しました。

五月辛巳,貶李峴為蜀州刺史。
宦官李輔國と権限を争い、肅宗は輔國を支持しました。

七月辛巳,趙王係為天下兵馬元帥,李光弼副之。
宦官魚朝恩は郭子儀の敗戦の責任を問い、輔國もまた漢人子儀を猜疑し、蕃族出身の厳格な光弼を副元帥として登用しました。子儀の寛容な指揮になれた朔方軍は不満でしたが光弼は同じく蕃族出身の僕固懷恩を慰撫しなんとか統率していきました。

八月乙巳,襄州防御將康楚元、張嘉廷反,逐其刺史王政。九月甲子,張嘉延陷荊州。
魯炅が敗戦の責任をとって自殺したあと山東節度使は混乱し、後任の文官王政は統制できませんでした。次々に軍乱が起き南の荊州まで影響し、節度使杜鴻漸は逃亡しました。

八月丁亥,崔光遠為荊襄招討山南東道處置兵馬使。
山東の動乱は統制がとれた反乱ではなく、光遠の征討を待たず、商州刺史韋倫が慰撫鎮圧しました。

八月庚寅,史思明陷東京及齊、汝、鄭、滑四州。
思明が黄河を突破し南下すると、汴滑節度使許叔冀はたちまち投降し、東京を始めとする河南が制圧されました。

十月乙巳,李光弼及史思明戰于河陽,敗之。
光弼は黄河渡河点の河陽に入り、東京の唐朝軍は陝州に退避して京師防衛に当たりました。
河南の地は思明の領域となりましたが荒廃していていました。

十一月庚午,貶第五琦為忠州刺史。
貨幣政策の失敗により激しいインフレーションを起こし解任されました。

十二月史思明寇陝州,神策軍將衛伯玉敗之。
思明將李歸仁は京師侵攻をめざし陝州を攻撃しましたが撃退されました。
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至德三年/乾元元年 西暦758年

2020-06-09 10:00:00 | Weblog
至德三年/乾元元年 西暦758年
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正月戊寅,上皇天帝御宣政殿,授皇帝傳國、冊號曰光天文武大聖孝感皇帝。乙酉,出宮女三千人。
正式に玄宗から肅宗に皇帝位が渡されたわけです。この時点で宮女が三千人もいたはずはありません、白髪三千丈のホラでしょう。

三月戊寅,立淑妃張氏為皇后。
肅宗を影で操っていた張氏が皇后となりました。この時点では宦官李輔國は皇后の味方でした。

四月史思明殺范陽節度副使烏承恩以反。
唐朝には宦官や李光弼等、史思明の歸順を信用しない党派があり、動揺している思明を挑発して反乱させました。安慶緒がまだ存在している時点としては極めて軽率な行動でした。

五月戊子,張鎬罷。乙未,崔圓、李麟罷。王璵為中書侍郎、同中書門下平章事。
無能で鬼神を好む肅宗は戦乱が終息していると判断しました。武闘派の宰相達を罷免し、禮儀祭典を主とする王璵を宰相としました。

七月丁亥,冊命回紇可汗曰英武威遠毘伽闕可汗,以上幼女寧國公主妻之。
前年の支援の恩賞に不満を持つ回紇に公主を与えて宥めました。

九月庚寅,郭子儀率李光弼、李嗣業、王思禮、魯炅、李奐、許叔冀、董秦、季廣琛以討安慶緒。安慶緒を征討するためです。郭子儀率とあるが彼は指揮官ではありません。兵事を知らない肅宗は統帥権を誰にも与えず雑然とした軍を送りました。宦官魚朝恩が觀軍容宣慰使として監軍となりました。今回は回紇軍は少数しか参加しませんでした。

九月癸巳,大食、波斯寇廣州。
わけのわからない記述です。大食[サラセン]波斯[ペルシア]から遣ってきた商人達でしょう。

十月甲辰,立成王俶為皇太子。
張皇后の子は幼く、戦時の皇太子としては無理でした。しかし太子の地位は不安定でした。

十一月壬申,王思禮及安慶緒戰於相州,敗之。
慶緒軍内も混乱し、人望有る蔡希德は殺され、厳格な崔乾祐が指揮をとることになり振いませんでした。唐朝軍は相州に慶緒を包囲した。慶緒は必死に思明に来援を求めました。

十二月丁卯,史思明陷魏州。
思明は来援し魏州を落とし、唐朝軍と対峙しました。

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至德二年 その2 西暦757年

2020-06-08 10:01:44 | Weblog
至德二年 その2 西暦757年
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九月壬寅,廣平郡王俶及慶緒戰于澧水,敗之。
癸卯,復京師。
郭子儀軍に回紇軍が大挙来援し、京師に迫りました。安守忠・李歸仁等は力戦しましたが敗北し東都へ奔りました。
唐朝はやっと京師を回復することができました。
しかし回紇に京師の子女を提供するとの約をしていましたが、東都回復後に延期をしてもらいました。

十月戊申,廣平郡王俶及安慶緒戰於新店,敗之,克陝郡。
壬子,復東京,慶緒奔于河北。
勢いに乗って唐朝軍は陝州を突破し、東都を回復しました。回紇軍の騎兵の威力には唐朝軍には勝る慶緒軍は太刀打ちできませんでした。
回紇は約束により東都を掠奪しようとしましたが、唐朝は違約し羅錦萬匹でごまかしました。

十月丙寅,上至望賢宮,得東京捷奏。丁卯,上入西京。
肅宗は入京し、玄宗もまた成都を発ちました。

安慶緒は鄴郡に入り安成府として勢力を立て直して行きました[幽州には史思明が自立していて入れませんでした。]

十一月丙子,宰相張鎬率李嗣業、來瑱、嗣吳王祗克河南郡縣。
鎬は河北へ逃亡した慶緒の残党を平定し河南を回復していきます。

十二月丙子,上皇天帝至自白蜀郡。
玄宗が入京し、肅宗は一応帝位を返上とる芝居を演じますが、これはあくまで芝居です。

十二月戊午,大赦。廣平郡王俶為太尉,苗晉卿為侍中,崔圓為中書令,李麟同三品など功臣・武将に大盤振る舞いで官爵・封爵・實封が授けられます。
官爵・封爵などはともかく、實封などはこの時の唐朝に与える余裕などありませんので空手形です。後年になれば支給されたかもしれません。

十二月乙丑,史思明降。
史思明は安慶緒を見限って降り幽州節度使に任ぜられました。河北の大部分が思明とともに降り、慶緒の領域は小さく、平定は間近と思われました。

十二月壬申,陳希烈・達奚珣等伏誅。
禄山側についた唐朝の官僚達が粛清されました。玄宗の逃亡についていけなかっただけのものも容赦なく処罰され、慶緒側に残っていた者も歸順を諦めるしかありませんでした。
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至德二年 その1 西暦757年

2020-06-07 10:00:33 | Weblog
至德二年 西暦757年
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正月乙卯,安慶緒殺其父祿山。慶緒自立。
安禄山は反乱以来心労で体調が悪くなっていました。東都に在住し閉居していましたが、戦況が好転しないので周囲にあたり散らすことが増えてきました。
禄山は嫡子慶緒より愛妾の生んだ慶恩を愛して、慶緒を廃そうともしていました。
怖れた慶緒は宰相嚴荘に通じ、虐待されていた宦官李豬兒に命じて禄山を殺させました。

正月、殺皇子建寧王倓。
肅宗は優柔不断で宦官李輔國と張妃の言いなりでした。両者を批判した倓は殺されました。

二月戊子,上至鳳翔。
戦況がよくなって来たので靈州から南下して鳳翔に入りました。貢納を受け取りやすくなりました。
安守忠は鳳翔へ迫り激戦が続きます。

二月、郭子儀自洛交引兵趣河東[蒲州],分兵取馮翊。
郭子儀は京師の東にあたる蒲州を回復しました。慶緒軍は京師防衛が困難になってきました。

二月李光弼及安慶緒將蔡歸德戰於太原,敗之。
李光弼は太原を死守しています。史思明は幽州に戻り慶緒に従わず自立を図ります。

二月戊戌,庶人璘[永王]伏誅。
江南で反していた永王は勢力が広がらず敗北し、江西采訪使皇甫侁に殺されます。ところが永王を可愛がっていた肅宗はご不満なようで以降侁を冷遇します。

二月庚子,敦子儀及安慶緒戰於潼關,敗之。
郭子儀は京師と東都を結ぶ潼関に進出しますが敗北します。ここでは勝ったように書かれていますが。

三月辛酉,韋見素、裴冕罷。憲部尚書致仕苗晉卿為左相。
無能な見素と、擁立により命相された冕が免ぜられ。能吏の晉卿が登用されます。

四月戊寅,郭子儀為司空關内河東副元帥。
郭子儀は京師回復を命ぜられましたが、五月安守忠に大敗します。

五月丁巳,諫議大夫張鎬為中書侍郎、同中書門下平章事。
後方で指示するのではなく、鎬はまもなく戦地河南へ赴き督軍します。

山南東道節度使魯炅は苦戦しながら南陽・襄陽を守り、南下する賊軍を阻止しています。
そのため安軍は荊南・江南へ進出できず。唐朝の財源を断つことができませんでした。
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天寶十五年/至德元年 西暦756年

2020-06-06 09:09:25 | Weblog
天寶十五年/至德元年 西暦756年
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八月,朔方軍の将帥郭子儀,李光弼を使相としました。
この時 幽州軍は安禄山支配下、河東軍は混乱分散、河西・隴右軍は潼関で潰滅しており、唐朝が動員できる軍は弱体な劍南[玄宗下]を除けば、朔方軍だけでした。子儀は光弼を河東に送り込みその再建を図ります。

八月癸巳,靈武使者至蜀,丁酉,制:「自今改制敕為誥,表疏稱太上皇。四海軍國事,皆先取皇帝進止」
玄宗は肅宗の即位を認め全権を付与します。

十月、房琯為招討西京、防御蒲潼兩關兵馬元帥,王思禮副之。
文官宰相房琯はろくに体制が整っていないのに、京師奪還を提案し元帥となります。副将王思禮が軍事を統轄しますが、彼は政治的将軍であり軍才はありません。

十月辛丑,房琯以中軍、北軍及安祿山之衆戰于陳濤斜,敗績。
兵事を知らない琯や凡將思禮は、安禄山將安守忠に一蹴されます。無駄に兵を失っただけで終わります。安禄山軍が迫ってきました。

十月,肅宗の弟である永王璘が淮南で自立を図ります。

十一月戊午,回紇至帶汗谷,與郭子儀軍合。
郭子儀率回紇及安祿山戰於河上,敗之。
唐朝は強力な騎兵を持つ回紇軍の援助を求めます。安禄山軍は北上を阻止されます。

十一月、禄山將史思明寇太原。
河東に入った李光弼は安禄山軍を撃退し河東を守り抜きました。

十二月,安祿山陷魯、東平、濟陰三郡。
河北では顔真卿を中心とする唐朝残党が抵抗を続けていますが、禄山軍は山東を平定していきます。

是歲,吐蕃陷嶲州,嶺南溪獠梁崇牽陷容州。
辺境の防衛軍が弱体化し侵攻・蜂起が続きます。
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肅宗前史

2020-06-05 09:45:57 | Weblog
肅宗前史
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玄宗第三子。母曰元獻皇后楊氏。初名嗣升,先天元年陝王。

開元四年,為安西大都護。開元十五年,更名濬,徙封忠王,朔方節度大使單于大都護。
開元十八年,河北道行軍元帥。開元二十年司徒。開元二十三年,更名璵。
すべての軍職は名前だけであり宮城を出たことはありません。

開元二十五年四月,皇太子瑛廢死
玄宗皇帝は寵愛する武惠妃[則天一族の攸止娘、四男一女を生む]に惑わされ、糟糠の妻王皇后を廃して、皇太子とその兄弟を謀叛の罪で殺しました。則天初期のコピーのような事態でした。
玄宗も最初のうちは有能であったが、当時は耄碌した老人に落ちぶれていました。
王皇后は高宗の王皇后とは違い有能で評判がよかったため、武惠妃は後宮から憎まれ、諸臣は則天の再来を懼れました。

十二月丙午,武惠妃薨。
皇太子を殺して自分の子壽王を立てるつもりの武惠妃でしたが、頓死しました。
その後、玄宗は自分の失策を自覚し、後継者に迷いました。

開元二十六年六月、立皇太子。
宰相李林甫はやはり壽王を立てようとしましたが、宦官高力士は官僚を背景として長幼の順を言い立て忠王を推薦しました。
自省した玄宗もそれにしたがいましたが、林甫は後難を怖れて太子讒言を繰り返し、疑獄事件をひきおこしました。
しかし力士や玄宗側近が支援し、穏やかな性格[高宗そっくり]である太子を追いつめることはできませんでした、。

開元二十八年,又更名紹。天寶三載,又更名亨。

天寶十一載、李林甫が死に、楊貴妃には子が産まれなかったこともあり、太子の地位は安定してきました。

天寶十五載六月安禄山に逐われて玄宗は劍南に逃亡しました。
太子一族も随行していましたが途中で、關内鎭撫のために対処せよと分離させられました。
しかしろくな兵力も付けてもらえず、途中の州縣では官吏は逃亡し、敗軍の体たらくでひたすら朔方を目指して北上しました。
己亥,涇州に入りましたが官員は逃亡していました。禄山軍の追撃を怖れて逃避行が続きます。
辛丑,さらに北上して原州に入り、やっと騎馬を整え靈州へ向かいました。

七月辛酉,至於靈武。
やっと黄河河岸の靈州に到達しました。朔方軍は規律を維持しており、その官僚杜鴻漸、魏少遊、裴冕などに迎えられ息をつくことができました。朔方節度使郭子儀の率いる強力な軍の後援によって体制が整えられました。

壬戌,裴冕等請皇太子即皇帝位。
玄宗は遙か南の劍南に逃亡し、その権威は低落していました。
京師回復の軍を起こすには臨機の決定が必要として、裴冕や杜鴻漸は優柔不断な皇太子に即位を強要しました。
また宦官李輔國・愛妾張良娣・息子の建寧王倓も勧めたため決断することになりました。
成都にいた玄宗もすっかり気落ちしていてそれを追認しました。
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則天史をアップロードしました

2020-06-03 09:12:24 | Weblog
今までの 太宗~則天、代宗~憲宗、文宗~懿宗史を
PDF形式でデータをアップロードしました。
太宗史
高宗史
則天史
代宗史
德宗史
順宗憲宗史
文宗史
武宗史
宣宗史
懿宗史
リンクをクリックするとPDFが開きます。

宰相一覧
クリックすると表が開き、各宰相名をクリックするとPDFが開きます。
宰相年表[附使相]
クリックすると表が開き、右クリック「リンクを開く」で各皇帝の年別宰相一覧とその官職[使相も]を表示するPDFが開きます。

則天史には則天前史を追記しました。
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長安二年~五年 西暦702~05年

2020-06-02 10:01:07 | Weblog
長安二年 西暦702年
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正月,突厥寇鹽州。三月寇並州。七月寇代州。九月寇忻州。
突厥は盛んに侵攻してきます。周朝軍はただ防ぐだけです。

則天も老衰し、寵臣張昌宗兄弟に溺れ、官僚統制が緩んできました。

長安三年 西暦703年
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四月吐蕃遣使獻馬千匹、金二千兩以求昏。
六月辛酉,突厥默啜遣其臣莫賀干來,請以女妻皇太子之子。
吐蕃・突厥からの圧力が緩んできました。もちろんそれぞれの国の事情です。

九月丁酉,貶宰相魏元忠為高要尉。
寵臣張昌宗・易之を元忠を始めとした官僚群が弾劾しました。気力が衰えた則天もなんとか元忠を却けましたが、次々と弾劾は続きました。

長安四年 西暦704年
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七月乙未,張同休、昌期、昌儀皆坐贓下獄,命左右台共鞫之
張昌宗一族を弾劾する声が強まる中、病身の則天は強硬な処置をできず、ただ捜査官を転任させるということでごまかし続けました。官僚達は公然と皇太子の復位を謀議しています。

長安五年/神龍元年 西暦705年
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正月、宰相張柬之、崔玄暐、桓彥範等は羽林軍を動員して、張昌宗等を殺害し、ためらう皇太子[中宗]を擁立しました。則天は廃位され別宮に遷されました[十一月、82歳で亡くなります]、国号は「唐」に戻されます。しかし以降の皇帝はすべて則天の子孫ですので、則天「周」を肯定も全否定もできないという微妙な立場にあります。

則天の政治は、以前は過小評価され、近年は女性重視の風潮乗って過大評価されています。

◎.周辺諸国に対しては敗戦が続き、勢力圏は縮小し、侮られている状況です。
◎.むやみな宰相・官僚の登用と排斥によって、大きく権威は低下し、無駄な官員が増加しました。
◎.前半は誣告・讒言が横行し粛清による引き締めが続きました。ところが則天の気力が衰えると、官僚達は傲慢となり指示にしたがわなくなりました。
◎.無意味な建築・崇佛に対する国費の浪費が続きました。
◎.男寵については、男性皇帝なら女寵するわけでどうということはありません。
◎.唯一評価できるのは、この時代は宦官を重用せず抑えきったことです。孫の玄宗以降、宦官がのさばりだします。
◎.次代は無能腑抜けの中宗[敬宗・僖宗と並ぶ唐の三愚帝]と、無気力なだけの睿宗というバカ息子達が即位し、官僚達はかえってすこしは緊張感があった則天の時代を懐かしむということになりました。
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聖曆元年~長安元年 西暦698~701年

2020-06-01 10:00:39 | Weblog
聖曆元年 西暦698年
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三月己巳,召廬陵王于房州。戊子,廬陵王至自房州。
外寇に対する敗戦が続き、女系である則天と、功績を上げられない武氏一族の無能に批判が高まり、
男系である廬陵王[中宗]の皇太子復帰論が生じてきました。寵臣張易之等はそれを提唱して功績を上げようとして則天に勧めました。

六月甲午,命淮陽王武延秀下突厥,納默啜女為妃。
突厥默啜可汗は和約の条件として通婚を求めてきましたので、武承嗣の子延秀を送り、默啜の娘と娶すことにしましたが、默啜は唐朝の皇族である李氏の子でないとして拒絶しました。突厥も女系は受け入れなかったわけです。そして突厥は河北へ侵攻してきました。

八月、魏宣王武承嗣,恨不得為太子,意怏怏,戊戌,病薨。

八月突厥寇蔚州。陥定州。
九月突厥陥趙州,寇相州。
突厥は河北深く侵入し、周軍は総崩れで敗北を重ねました。

九月壬申,立廬陵王顯為皇太子,為河北道行軍元帥,以擊突厥。
則天は堪らず廬陵王を皇太子に復し、元帥として突厥を討たせました。実質は宰相狄仁傑が出陣し、崩壊した河北の再建にあたらせました。突厥は資財と多数の捕虜を獲得し一旦引き上げました。


聖暦二年 西暦699年
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正月辛亥,賜皇太子姓武氏,大赦。
後継は李氏皇太子[中宗]になりそうです。せめて武氏に変えておかないと「周帝国」は続きません。

二月、吐蕃で内乱が起こり勇将論欽陵一族が滅ぼされます。
欽陵の与党が歸附してきました。これにより周朝は対契丹に引き続いて息をつくことが出来ました。

四月壬辰,魏元忠檢校並州大都督府長史、天兵軍大總管,婁師德副之,以備突厥。
辛丑,婁師德為隴右諸軍大使。
対突厥・吐蕃防衛体制を整備します。師德は有能ですが、あくまで防衛という意味でです。

聖暦三年/久視元年 西暦700年
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則天も老化し、寵臣の美少年張昌宗達や、気に入りの宰相狄仁傑・魏元忠・姚元之の進言に従うようになります。

閏七月丁酉,吐蕃寇涼州,隴右諸軍州大使唐休璟敗之于洪源穀。
吐蕃軍も内訌の後で弱体化しています。

大足/長安元年 西暦701年
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三月丙申,流張錫於循州。
則天も老化し宰相の処罰も少なくなり、また処置も生ぬるくなりました。

八月突厥默啜寇邊,命安北大都護相王為天兵道元帥,統諸軍擊之,未行而虜退。
突厥も衰退し生ぬるい侵攻が多くなってきました。

九月壬申,殺邵王重潤及永泰郡主、主婿武延基。
重潤も郡主も皇太子[中宗]の子、延基は承嗣の子です。特に重潤は韋氏のただ独りの男子でした。則天が寵臣張昌宗の誣告に乗って誅殺したのです。苦労知らずの重潤等が則天を批判したことを聞きつけた昌宗派が皇太子・韋氏と武氏に打撃を与えようとしたのです。則天は自分に対する批判は肉親・一族といえど赦しませんでした。

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