唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

肅宗前史

2020-06-05 09:45:57 | Weblog
肅宗前史
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玄宗第三子。母曰元獻皇后楊氏。初名嗣升,先天元年陝王。

開元四年,為安西大都護。開元十五年,更名濬,徙封忠王,朔方節度大使單于大都護。
開元十八年,河北道行軍元帥。開元二十年司徒。開元二十三年,更名璵。
すべての軍職は名前だけであり宮城を出たことはありません。

開元二十五年四月,皇太子瑛廢死
玄宗皇帝は寵愛する武惠妃[則天一族の攸止娘、四男一女を生む]に惑わされ、糟糠の妻王皇后を廃して、皇太子とその兄弟を謀叛の罪で殺しました。則天初期のコピーのような事態でした。
玄宗も最初のうちは有能であったが、当時は耄碌した老人に落ちぶれていました。
王皇后は高宗の王皇后とは違い有能で評判がよかったため、武惠妃は後宮から憎まれ、諸臣は則天の再来を懼れました。

十二月丙午,武惠妃薨。
皇太子を殺して自分の子壽王を立てるつもりの武惠妃でしたが、頓死しました。
その後、玄宗は自分の失策を自覚し、後継者に迷いました。

開元二十六年六月、立皇太子。
宰相李林甫はやはり壽王を立てようとしましたが、宦官高力士は官僚を背景として長幼の順を言い立て忠王を推薦しました。
自省した玄宗もそれにしたがいましたが、林甫は後難を怖れて太子讒言を繰り返し、疑獄事件をひきおこしました。
しかし力士や玄宗側近が支援し、穏やかな性格[高宗そっくり]である太子を追いつめることはできませんでした、。

開元二十八年,又更名紹。天寶三載,又更名亨。

天寶十一載、李林甫が死に、楊貴妃には子が産まれなかったこともあり、太子の地位は安定してきました。

天寶十五載六月安禄山に逐われて玄宗は劍南に逃亡しました。
太子一族も随行していましたが途中で、關内鎭撫のために対処せよと分離させられました。
しかしろくな兵力も付けてもらえず、途中の州縣では官吏は逃亡し、敗軍の体たらくでひたすら朔方を目指して北上しました。
己亥,涇州に入りましたが官員は逃亡していました。禄山軍の追撃を怖れて逃避行が続きます。
辛丑,さらに北上して原州に入り、やっと騎馬を整え靈州へ向かいました。

七月辛酉,至於靈武。
やっと黄河河岸の靈州に到達しました。朔方軍は規律を維持しており、その官僚杜鴻漸、魏少遊、裴冕などに迎えられ息をつくことができました。朔方節度使郭子儀の率いる強力な軍の後援によって体制が整えられました。

壬戌,裴冕等請皇太子即皇帝位。
玄宗は遙か南の劍南に逃亡し、その権威は低落していました。
京師回復の軍を起こすには臨機の決定が必要として、裴冕や杜鴻漸は優柔不断な皇太子に即位を強要しました。
また宦官李輔國・愛妾張良娣・息子の建寧王倓も勧めたため決断することになりました。
成都にいた玄宗もすっかり気落ちしていてそれを追認しました。
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