唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

武德六~七年 西暦623~4年

2020-06-23 10:00:03 | Weblog
武德六年 西暦623年
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正月己卯,黑闥將葛德威執黑闥以降。二月,劉黑闥伏誅。
皇太子軍は黑闥を追いつめ殺します。

二月丙寅,行軍總管李世勣敗徐圓朗,執之。
山東も平定されます。

三月,苗海潮、梅知岩、左難當降
南方も次々と帰順しも唐朝の全国制覇間近という感じです。

六月丁卯,突厥寇朔州,總管高滿政敗之。
七月己亥,皇太子屯于北邊,秦王世民屯於並州,以備突厥。
対突厥に全力を注ごうとしました。

八月壬子,淮南道行台左僕射輔公祏反。乙丑,趙郡王孝恭討之。
淮南に大きな勢力を築いていた杜伏威の腹心であった公祏が淮南で反します。伏威は関係していません。唐朝にとっては淮南直轄化を図るには都合の良い展開です。公祏の起兵は遅すぎました。

武德七年 西暦624年
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二月、呉王杜伏威薨。詔追除伏威名,籍沒其妻子。
伏威は公祐の乱には関係していませんでしたが、唐朝は構わず処分してしまいました。

三月戊戌,趙郡王孝恭敗輔公祐,執之。
唐朝軍が本格的に攻勢をとると公祐には対抗できませんでした。唐朝はほぼ全国統一に成功しました。

六月壬戌,慶州都督楊文幹反。七月癸酉,慶州人殺楊文幹以降。
訳のわからない反乱です。文幹は皇太子と親しく、皇太子派の陰謀が疑われましたが、あまりにずさんな乱であり、秦王派の策動かもしれません。ただ両派が対立し緊張が生じていたことは間違いありません。

閏月己未,秦王世民、齊王元吉屯於豳州,以備突厥。
戊寅,突厥寇綏州,刺史劉大俱敗之。丁酉,裴寂使於突厥。
突厥頡利可汗が再び侵攻してきました。しかし甥突利可汗との協調を欠き、唐朝の朝貢(裴寂)を受け入れることになりました。

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