唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

長安二年~五年 西暦702~05年

2020-06-02 10:01:07 | Weblog
長安二年 西暦702年
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正月,突厥寇鹽州。三月寇並州。七月寇代州。九月寇忻州。
突厥は盛んに侵攻してきます。周朝軍はただ防ぐだけです。

則天も老衰し、寵臣張昌宗兄弟に溺れ、官僚統制が緩んできました。

長安三年 西暦703年
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四月吐蕃遣使獻馬千匹、金二千兩以求昏。
六月辛酉,突厥默啜遣其臣莫賀干來,請以女妻皇太子之子。
吐蕃・突厥からの圧力が緩んできました。もちろんそれぞれの国の事情です。

九月丁酉,貶宰相魏元忠為高要尉。
寵臣張昌宗・易之を元忠を始めとした官僚群が弾劾しました。気力が衰えた則天もなんとか元忠を却けましたが、次々と弾劾は続きました。

長安四年 西暦704年
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七月乙未,張同休、昌期、昌儀皆坐贓下獄,命左右台共鞫之
張昌宗一族を弾劾する声が強まる中、病身の則天は強硬な処置をできず、ただ捜査官を転任させるということでごまかし続けました。官僚達は公然と皇太子の復位を謀議しています。

長安五年/神龍元年 西暦705年
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正月、宰相張柬之、崔玄暐、桓彥範等は羽林軍を動員して、張昌宗等を殺害し、ためらう皇太子[中宗]を擁立しました。則天は廃位され別宮に遷されました[十一月、82歳で亡くなります]、国号は「唐」に戻されます。しかし以降の皇帝はすべて則天の子孫ですので、則天「周」を肯定も全否定もできないという微妙な立場にあります。

則天の政治は、以前は過小評価され、近年は女性重視の風潮乗って過大評価されています。

◎.周辺諸国に対しては敗戦が続き、勢力圏は縮小し、侮られている状況です。
◎.むやみな宰相・官僚の登用と排斥によって、大きく権威は低下し、無駄な官員が増加しました。
◎.前半は誣告・讒言が横行し粛清による引き締めが続きました。ところが則天の気力が衰えると、官僚達は傲慢となり指示にしたがわなくなりました。
◎.無意味な建築・崇佛に対する国費の浪費が続きました。
◎.男寵については、男性皇帝なら女寵するわけでどうということはありません。
◎.唯一評価できるのは、この時代は宦官を重用せず抑えきったことです。孫の玄宗以降、宦官がのさばりだします。
◎.次代は無能腑抜けの中宗[敬宗・僖宗と並ぶ唐の三愚帝]と、無気力なだけの睿宗というバカ息子達が即位し、官僚達はかえってすこしは緊張感があった則天の時代を懐かしむということになりました。
コメント
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