唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

正史の建前1 宦官魚朝恩誅殺

2018-01-14 21:06:20 | Weblog
大暦5年3月のことです。
宦官魚朝恩は神策軍を管轄し、増長し専権を極めました。代宗皇帝はその武力を懼れて
なかなかこれを制することができませんでしたが、宰相元載[これも朝恩と結託し宰相
となった人物ですが]の策によりなんとか誅殺することができました。史書では以下の
記載です。正史では自殺したことにしていますね。
通鑑は内実を書いています。[周皓は実は朝恩の護衛の將です。既に側近にも裏切られて
いたわけです。]

旧紀
詔罷魚朝恩觀軍容使。己巳,朝恩自縊而死。
新紀
内侍監魚朝恩有罪自殺。
通鑑
癸酉,朝恩將還營,上留之議事,因責其異圖。朝恩自辯,語頗悖慢,皓與左右擒而縊殺之
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太子庶子年表を追加しました

2018-01-05 10:03:29 | Weblog
唐史資料集
に太子左右庶子年表を追加しました。
太子左・右庶子は則天皇帝・中宗時代までは重視され、宰相が兼任する場合も
多かったわけですが、開元後は德宗時代を除きあまりでてきません。単なる名
誉職になったようです。
左右の別に関しては資料によりバラバラですので区別しません。
割り付け根拠となるデータも付記しておきます。
Excelデータですので検索は容易です。

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安史の乱始末 その4

2018-01-01 13:11:21 | Weblog
河北三鎭の節度使とその唐朝への姿勢・終末

○親唐朝 △不明 ×反唐朝

幽州節度使
李 懷仙 △ 乱殺
[王 縉] 唐
朱 希彩 △ 乱殺
朱 泚 ○ 誅
朱 滔 ○→× 卒
[王 武俊] 不入
劉 怦 △ 卒
劉 濟 ○ 毒殺
劉 總 ○ 卒
張 弘靖 唐 乱囚
[劉 悟] 不入
朱 克融 × 乱殺
[朱 延嗣] 乱殺
李 載義 ○ 乱逐
楊 志誠 × 乱逐
史 元忠 △ 卒
張 仲武 ○ 卒
[張 直方] 乱逐
周 綝    △ 卒
張 允伸 ○ 卒
[張簡會] 乱逐
張 公素 × 乱逐
[李 茂勳] 致仕
李 可擧 ○ 敗死
[李 全忠] 卒
李 匤威 △ 乱逐
李 匤籌 ? 敗死
劉 仁恭 ? 乱囚→殺
劉 守光 ? 敗殺

成徳節度使
李 寶臣 △ 卒
[李 惟岳] × 誅
[張 孝忠] 不任
王 武俊 △→○ 卒
王 士眞 ○ 卒
王 承宗 × 卒
田 弘正 ○ 乱殺
[牛 元翼] 不任
王 庭湊 × 卒
王 元逵 ○ 卒
王 紹鼎 △ 卒
王 紹懿 △ 卒
王 景崇 ○ 卒
王 鎔 △ 乱殺

魏博節度使
田 承嗣 × 卒
田 悅 × 乱殺
[馬 燧] 唐 不入
田 緒 △ 卒
田 季安 △ 卒
[田 懷諫] 入朝
田 弘正 ○ 転任
李 愬 唐 疾辭
田 布 ○ 自殺
史 憲誠 △ 乱殺
[李 聴] 唐 不入
何 進滔 × 卒
何 弘敬   △ 卒
何 全皞   △ 乱殺
韓 允忠 △ 卒
韓 簡 × 敗死
樂 彦禎 × 乱殺
羅 弘信 ? 卒
羅 紹威 ? 卒
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安史の乱始末 その3

2018-01-01 10:21:53 | Weblog
反唐朝の三鎭 幽州・成徳・魏博ですが、それぞれ差異があります。分離した義武軍・横海軍も附説。

幽州節度使
安禄山・史思明の本拠であった幽州[范陽]節度ですが、意外に反唐朝意識は弱く、朱滔・朱克融・楊志誠時代以外は協調的です。奚・契丹防衛にあたる位置ですので緊張感も強く有能な主帥でなければ君臨できず世襲はなかなか困難です。[劉怦-濟-總の三代継承がありますが、それぞれが成年継承で優秀です。他の若年継承者[朱延嗣・張簡會・張直方]はすぐ追放されています。]、唐朝も防衛の責任を負いたくないので積極的なアプローチはせず、物資の援助を行っています。たえず蕃族の流入が有り、対外貿易の利もあり、強力な軍事力を維持していました。

成徳軍節度使
李寶臣[張忠志]など蕃族出身者を多く含む安史系の武将連合が中心です。反唐朝意識がもっとも強く、同一家系[前期と後期の王氏]が継承していきます。李寶臣没後に討伐を受けて一時解体され、易定に義武軍、また滄景に横海軍が分離しますが主体は王武俊に引き継がれていきます。戦力としては前期王氏[王承宗]までは強力ですが、後期王氏では弱体化して常に他藩鎭の援軍を求める状態になります。

魏博節度使
田承嗣が安史系の雑軍を率いて設立、主要な武将は幽州・成徳に属したため、最初は弱体であり、急速な徴兵で軍を整備した。そのため財政難になり、相衛などへの拡張路線も取り唐朝と対立した。主帥より牙軍が強力で、その意向を軽視すると追放・殺害される。勢力としては弱く、しばしば大敗することがあった。常に唐朝の干渉を受けて協調とと反抗を繰り返していた。

附義武軍節度使
李寶臣の子惟岳が征討された時、武将張孝忠が唐朝に帰順して易定滄三州を与えられ設立。そのため親唐朝の傾向が強く、孝忠の子茂昭の時に入朝し、その後は唐朝から節度使が赴任する順地となった。河東節度と連携し幽州・成徳を抑える要地であるが、経済的な自立はできず、そのためより唐朝に依存する立場であった。

附横海軍節度使
義武軍節度使の一部であった滄州が、遠隔地であるため維持できず、武将程日華が自立してできた。滄州のみの弱小藩鎭のため常に唐朝の援助に依存した。滄州を分割して景州を創設して節度使となったが、四代目の程權時に入朝して順地化した。淄青・魏博・成徳を牽制する要地であった。
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